高句麗いにしえの地を訪ねて(7)

集安は今でも高句麗の「家の中」だ

中国・集安の高句麗遺跡の中で最も驚異的なのは、12,000基余りを越える古墳群である。高句麗後期の首都である 平壌近郊にも1,000基しかないのに、その10倍をはるかに越える墓が、一ヶ所に集まっているというのは、 世界中探しても類例がないことである。
集安市の中にある高句麗時代の古墳群は、全部で32の地域から発見されたが、1962年の春、集安市全体の文化遺物を 全面的に調査する時、把握した数字によると、全部で12,358基もあったという。日本のある学者が、 「高句麗人達は土地の半分は住居地、もう半分は墓に使った」と言ったそうだが、実感出来る話だ。

洞勾河付近の古墳群(最近は村が形成されて随分毀損されており、60年代には村民達が野菜保管所としても利用したという。)

 

高句麗のピラミッド、12,000基余りの古墳群

  高句麗の古墳のうち、重要なものを見ると、将軍塚は一辺の長さが30mになり、太王陵は66mであり、 最大の千秋墓は85m×80mにもなる。千秋墓は、墓の敷地だけで2,075坪にもなる巨大なピラミッドである。 エジプトのピラミッドも、増築する前、最初は一辺が63mだったから、こんな巨大な墓は高句麗のピラミッドだと言っても 無理はないだろう。

高句麗古墳群が我々に与えてくれる最も実質的な価値は23基の古墳に描かれた壁画だ。壁画は主題が豊富で 多彩であり、人間社会のいろいろな生活像や死後の天国世界まで自由自在に表現しており、技術的水準が非常に高く、 高句麗人の創造力と芸術的感覚を一目で見られる傑作である。一方、この壁画は高句麗の精神文化と物質文化を読み取れる 生々しい資料であるだけでなく、当時の東北アジアの相関関係を読み取れる映像資料であるという点でも学者達の関心の 焦点になっている。



丸都山城裾の高句麗古墳群

東方の金字塔、将軍塚

  12,000基余りにもなる 集安の高句麗古墳群のうち、最も代表的なのが将軍塚だ。
将軍塚は国内城で4〜5km離れた龍山にあり、比較的高いところにあり、鴨緑江と集安市内が一目で見られる。
将軍塚を見ると、まずあまりの規模に圧倒される。もちろん最大の千秋塚や太王陵に比べれば三分の一もしくは半分 程度にしかならないが、ずば抜けた建築術と空に向ってニョキッと立っている雄大な姿を見ていると、中国の学者達が 「東方の金字塔」と呼んだのも実感が湧く。


将軍塚に付属する墓

12.4mの高さの将軍塚に登るとなると、エレベーターに乗らず 5階建てのアパートを歩いて登ると考えればよく、一辺の長さが31.58mの正方形で、建坪300坪の建物を想像すれば、 その規模を思い浮かべることが出来るだろう。   

謎の支石と付属墓

  墓の四方から非常に大きな岩を3つづつもたせかけて立ててあるが、北側の左側の岩一つ が割れていて、今は11個だけが立っている。11個のうち一番小さいものでも15トンになり、直接立ってみると筆者の背丈の 倍を越えるものもあった。
 このような立石は「下段の岩が押し出されないようにするためのもの」というのが現地の学者達の主張であるが、 筆者と共に行った建築家は、この程度の重さでは倒れるのを防ぐ重しの役割をすることは出来ないとのことだった。
 そう考えるなら、一つの面に3つづつ12個を立て、十二支のように保護神を表現するためのものではないかという気がする。
 将軍塚の上から北を見て右側、つまり北東側を見ると、ちょうどドルメンに似た墓が見られるが、これが付属墓である。
 もともと将軍塚には5基の付属墓があつたが、今は1基しか残っていない。
 将軍塚とは形が大きく異なり、大きさも非常に小さい。残った1基の付属墓も早々に盗掘・破壊され、今は 下の3階段のみが残っている。下辺の長さが9.2m、階段の高さが1.9mである。
 このような付属墓はエジプトのピラミッドにも3つがあるといわれる。付属墓は王の取巻き達であるという説があるが、 未だはっきりとは明らかにされておらず謎のまま残っている。

  

東方のピラミッド 将軍塚の威容

 

 

最近、中国で韓国の観光客を誘致するために 復元している墓


将軍塚は誰の墓なのか?

 将軍塚は建築規模や付属墓の数を見ると高句麗時代の王陵であることは明らかである。しかし副葬品が全て盗掘され、 誰の墓なのかが明らかに出来ずにいる。当初、日本の学者達が将軍塚は広開土王の墓であるとの説を唱えた。 しかし現地の学者達は長寿王の墓だと主張する。
「長寿王は首都を集安から平壌に移した張本人であり、また平壌で世を去ったのに、なぜこのようにここまで来て葬られたのか?」 という私の質問に対して、中国現地の学者達はこう答えた。
「高句麗の王達は生まれてすぐに既に墓を準備して行く。だから長寿王も移す前に既に国内城に墓を準備しており、 慣例に従って亡骸を移してここに葬ったのだ。」
 よく韓国人には大きさについての劣等意識があるという。
 事大主義や植民史観の影響により、「小銭(韓国人)風情に何の力があろうか」「私達は土地が小さ過ぎる」など自身を 卑下する言葉が多いが、全てがサイズ・コンプレックスに由来するものである。しかし将軍塚をはじめとする高句麗の遺跡 を見ると、そんな劣等意識は一気に消えて、「やはり高句麗は凄かった」「高句麗はスケールが大きい」 という言葉が自然に出る。

 

 


社団法人 高句麗研究会