高句麗いにしえの地を訪ねて(1)
接近し難い高句麗遺跡
神秘的にそびえる五女山城 足元を流れる沸流水(渾江)

1991年の夏、船で黄海と渤海湾を抜け、2日目に遼東半島の大連に到着、瀋陽と鴨緑江鉄橋のある丹東に1泊づつして、終日山道を通り、 千辛万苦の末に辿り着いたのが桓仁、万難を排し、数多くの見所を割愛してまでこんな田舎を訪ねて来たのは、それだけ重要な歴史的遺跡があるからである。
朝鮮民族が建てた王朝の中で最も強大な高句麗。いつも韓国人の心の中に故郷の香りのように残っている。そんな高句麗の最初の都が桓仁である。私はここへ来たかったのだ。 1年前、高句麗2番目の都である国内城がある集安へ行った時、順番が逆になったと思い、今年の夏休みが始まるや否や、一人リュックを背負って取りとめも無く訪ねて来たのであった。

"五女山城"卒本城が、まさにこの地にあると現地で聞いた。だが、その山をどうやって訪ねて行けばよいのか? "高句麗冷麺屋"という馴染み深い看板の朝鮮族の店で夕食を済ませ、五女山城へ行ける道を尋ねた。 「県政府へ行って許可をもらわなければならない。また、そうした方が安全だ」とのことだった。
翌日、県政府の民族事務所を訪ねた。遼寧省文化財管理局へ行って許可をもらわなければならず、県の事務所では許可をする権利がないとのことで、また次のように言われた。 「会わなかったことにしてあげます。私は先生との会話も外事処に報告しなければなりません。私達は外事処から指示があった時のみ案内が可能なのです。」 私はそれ以上は何も言わずに立ち去った。

五女山城を訪ねて


ここまで来て遠くから五女山のうわべだけ眺めて、そのまま帰るなどということは出来ない。五女山に行くため、麓の村まで行った。 車で絶壁の下まで行くことが出来た。右の稜線を上ると、デコボコ道が続いた。車道が途切れるところに岩で作られた案内表示に、右のように書かれていた。
さて、いよいよ最後は垂直に近い絶壁を登る。案内員の友人が五女山にあるテレビ送信塔に勤務しており、必需品を載せて上るトロッコを用意してくれたので、楽に登ることが出来た。 トロッコの終着地の右側には、結構人々が沢山歩いたような道が出来ていて、鬱蒼とした森の中へと続いていた。森は主に雑木林であった。
森の中をおよそ20分歩くと、白く開けた空き地が現れた。前を見ると、はるか南東のかなたから南西へと渾江が広い桓仁盆地を流れる壮快なパノラマが迫って来る。 山頂の海抜が820mで、見下ろしている渾江は197mだから、足元の絶壁の高さは623mという大変なものだ。
空き地から少し南東へ少し行くと、前が開けて五女山城の東側が見えて来る。西・南・北側は到底登れない天然の城であるが、東側は絶壁の間に 隙間があるので、人間が行き来出来る。その隙間に従って下ると、城を建てた跡が見えるという話を聞いて、降りてみた。傾斜が急な上に落ち葉が多く、 落ち葉の下は湿った土なので非常に滑りやすく、注意深く20m程降りてみたが、城壁を見つける出来なかった。(2年後、ここから200mほど降りたところに 城壁を見つけた。)


山頂に登る唯一の交通手段

 

枯れない湖、天池


再び空き地に戻り、西側の端の道に入った。一本道を辿って行くと、広い平原に出た。雑草が生い茂る平原を見ていると、そこが岩の上であることを忘れるようであった。 いくら平原が広くても、水がなければ人が住むことは出来ない。森を出て平原の道を少し行くと、沼が現れた。水は思ったほど綺麗ではなかった。 ともかく、台地と貯水池があるのは高句麗の山城の特徴である。高さ800mを越える山頂に、長さ1000mにもなる平地があり、森があり、また泉もある 天然の要塞を見つけ都とした、東明聖王の叡智を一目で見ることが出来た。五女山城から降りつつ、名残を惜しみながら何度も振り返った。 圧倒するような絶壁と犯しがたい気象の歴史が滲み出ていた。高句麗初期の山城である海抜820mの五女山城の頂上台地には東・南・北側の山肌を約300m 岩で囲んである。南側は絶壁であり、長さは約1000mである。西側は城壁がなく、峰を利用して城壁を作っている。城の中に泉と頂上台地がある。

 

社団法人 高句麗研究会