高句麗国内城へ行く道
「中国へ行って白頭山だけ見て高句麗遺跡を見ずに帰ることは、慶州へ行って吐含山だけ見て仏国寺・石窟庵・
瞻星台を見ずに帰るのと同じである。」
1990年、白頭山登山を終えて高句麗の遺跡探しに出た。全く判らないところを何の情報も持たずに一人訪ねて行く
という恐ろしさもあるが、それよりも未知に対する期待感がはるかに大きく、むしろ胸がときめいた。白頭山の麓の
二道白河で、夜9時42分、通化行きの列車が出発した。夜11時過ぎ、疲れて眠くなったが、寒くて寝られなかった。
私の人生で最も寒かった記憶として残った。6時に通化に到着、車掌が来て駅の裏路地の安っぽい朝鮮族飲食店に連れて行ってくれた。
「キム・ヨングさん」初めて会った二道白河の朝鮮族旅館のシン・ウォンチョル氏が印鑑までついて書いてくれた紹介状を見せると、
すぐに集安に電話して迎えに来るように斡旋して、8時になると駅の中に入り、列車の車掌に直接引き継いで帰った。
予定時間より1分遅れの8時16分に出発する。中国でも記者は比較的正確な方だ。
長白山脈の分嶺、老嶺山脈を越えて
体が熱っぽくなり、一眠りしたら、汽車が老嶺駅に到着した。時計を見ると10時30分である。
長白山脈の分嶺である老嶺山脈の山中にある老嶺駅は、通化〜集安間115qのうち68qの地点で、
相当に海抜が高いところである。高い老嶺山脈を越えなければならないため、田舎の汽車は時速30qも
出せないが、是非一度乗ってみることをお奨めしたい。ゆっくり走り、周囲に広がる農村風景を眺めると、
外国という気が全然しないほどに韓国の田舎、それも何十年前かの写真を見るような、まるで昔の映画の主人公
になったような郷愁を覚える。雪が降り、初冬の天気を見せていた白頭山とは違い、色鮮やかに染まった
紅葉の美しさは一日で全く違う国へ来たような新しい雰囲気を演出する。老嶺駅を出た汽車は、15分ぐらい走ってから
とても長いトンネルを二つ通った。石炭の煙が列車の中に入り、ゴホゴホと息が詰まるほどだが、文句を言う
人は誰もいない。トンネルを過ぎるとそこは双安屯という簡易駅だった。やがて列車はのんびりと下り始め、
12時10分、予定時間より30分以上遅れて高句麗の昔の都・国内城に到着した。
ついに国内城に到着
「私が遂に高句麗の昔の都・国内城に来た」国内城に第一歩を下ろし、眺める駅前は意外にも広々していて気持ちがいい。
道の両側で売っている果物、ひまわりの種、などを珍しそうに見物して歩いていると、誰かが挨拶する。
キム・ヨング氏が紹介した駅前旅館の王社長だ。朝鮮族だと思ったが、韓国語が全然判らない中国人だった。
その沢山の人の波の中でも私を簡単に見つけたのは、私が今日、汽車から降りた唯一の外国人だったからだ。
初めて行く国内城は、このようにリレー式に知人の紹介を受けて容易に無事に着くことが出来た。
朝鮮族の娘の結婚披露宴
国内城に到着しても、旅館で働く朝鮮族に会ってからは、事はさらに順調に進んだ。「今日、集安で
結婚式披露宴がありますが、昼食はそこでなさいませんか?」私が反対するはずもない。白頭山から一人離れて
西側に汽車で8時間以上走り、さらに南に4時間も走り、まだ天地を見分けることが出来ないところに、それでも
同胞達の言葉を聞くと気楽で、おまけに結婚式披露宴に招待までしてもらうとは、まるで故郷に来たみたいだ。
新婦の父が直接来て、同行した。一人1元づつの馬車に乗り、祝いの家へと走った。
庭先に釜を据えて祝いの料理を作っていたおばさん達が「南朝鮮から来たお客さん」という言葉に皆が喜んで
迎えてくれた。中へ案内してもらい、年配者達と同席して、実に満ち足りた食事をした。食事が満ち足りていただけでなく、
この土地について何日間調査しても尽くせないほどのいろいろ有益な情報に接することが出来た。
対話の途中、予期せぬ知らせを聞いた。「10月1、2、3日は中国全体が休む祝日なので、高句麗の遺跡を見ることが出来ない。」
何千里も訪ねて来たのに
やっとの思いでやって来た高句麗の古都なのに、遺跡を見ずして帰ることも出来ず、だからといって3日以上も
休みながら待つことも容易なことではない。中国の役人達の特性からして、初めて会った外国人が頼んだところで
聞き入れてくれるわけがない。何とも困ったことになった。しかし、困ったときには必ず救世主が現れた。
「何千里もやって来て、高句麗遺跡を見られずに帰るなんて、ひど過ぎるんじゃないか?」
中学で数学を教えて定年退職したキム・チョンロク先生が斡旋してあげると申し出てくれた。
そこの公務員達は大部分、先生の教え子達なので、影響力があるという。我々は急いで昼食を終え、
ジープに乗って広開土王碑がある太王郷へと走った。しかし鉄の門がしっかりと閉ざされ、門には「厳禁録像
(ビデオ撮影厳禁)」と警告が貼ってある。中に入ったが、外国人は機関の推薦状がなければならないとして、観覧させてくれない。
再度、真面目に市政府の旅遊局へ行き、推薦状をもらい、初めて入場が出来た。ここにもキム先生の教え子が
いたのである。ともかく、今から高句麗が最も長い間都を置いていた、二つ目の都・国内城を直接見ることが出来るようになった。
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