高句麗いにしえの地を訪ねて(3)
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高句麗の多勿都を訪ねて
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展望台から見下ろした山城(左)と富爾江平野(上)
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5月15日(土)、今日は沸流国を訪ねる日だ。
朱蒙が22歳で卒本にて建国し、最初に合併した隣国がこの沸流国である。
三国史記に出て来る沸流国合併の話は、非常に紳士的で平和的だ。血の一滴も流すことなく、
弓矢競技で決定することとし、沸流国の松譲と正々堂々と戦った朱蒙は、沸流国を高句麗の一行政区域である
多勿都に編入し、松譲を都主に任じた。
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ここで「多勿」とは、高句麗語で「取り戻した土地」という意味だと記録されており、しばしば「古都回復」
を叫ぶ時によく使われる言葉である。
それなら、沸流国つまり高句麗に編入されて多勿都になったところは現在のどこなのか?
学者達の大方の見解では遼寧省新賓県の黒溝山城と転水湖山城だと見ている。卒本から沸流水に沿って
上り、その支流である富爾江に沿って遡ると、二つの城が対面している平野があり、そこが多勿都だというのである。
今日はまさにその沸流国、いや多勿都の遺跡を見に行くのである。
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高句麗の山菜、高句麗の薬草
朝食を終えて紅廟子を出発したナンバープレートのない車は、新賓県黒溝村で案内人を求めた。
50代のカン氏が子どもの面倒を見ていたが、隣に預けて引き受けてくれた。山城があるというので、
山城嶺と呼ばれる山は、入り口から見る限りはさほど高く見えなかったが、稜線を登ると上り坂が現れ、
次の稜線を登るとまた上り坂が現れ、三重の山になっていた。
人参栽培が主な仕事だというカン氏は、山菜と薬草についての専門家であった。
「考えてみると、山では飢え死にする心配がないんですよ」
大変で退屈な山のぼりが、カン氏の山菜・薬草講義のおかげで結構楽だった。
山に生えるホウレンソウだといってイヌホウレンソウ、喉が渇いた時に折って食べるサンジャン、
蔓人参、タクチ、山瓜などの山菜や漢方で使う白朮・蒼朮の原料になるオケラ、蛇に噛まれた時に塗るという
もの、冷え性の特効薬、家から虫を追い払う細辛など、きりがない。 |
 蔓人参の味がするというオケラ |
「食べてみなさい、栄養価も高くて、いいですよ」
一つ一つ説明して根まで見せてくれた。
「これはあまどころで、餅にして食べます」
韓国でも煎じて飲むあまどころで、餅を作って食べるという話は初めて聞いた。
サンジャンだけは中国語で、他は全て韓国語で山菜や薬草の名を言ったカン氏の話を聞きながら、
私が今中国に来ているという事実を忘れるほどだった。特に今、カン氏が見せてくれている山菜・薬草は、
韓国の人々が満州へ行って持って来たものではなく、高句麗の時代から今まで同じ場所で毎年育つものなので、
正真正銘の高句麗山菜・薬草と言えるのではないか!
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 黒溝山城の西門 (壊れて行くのが残念だ)
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山城嶺の黒溝山城
唸りながら険しい道を登ると、そこが西門で、城で一番高いところであった。城壁は苔も付いておらず、
まるで新しく築いたように綺麗だった。
高い展望台で涼しい風に深呼吸しながら見下ろすと、広い盆地と城内はもちろん、はるか富爾江の平野が見え、
転水湖山城もちょうど川向こうにある。
現地人達はこの城を高麗山城と呼ぶが、紅廟子、 水河子、旺清門などの
各地から登ることが出来、景色が良く、城跡が広く、春になれば3つの村から集まるハイキング客で賑わう。
今日は高倹地小学校の遠足の日だというので、多くの人々が南門から上って来ているのが見えた。
北壁に沿って下り始めた。大部分は削り取ったような形だが、岩はいずれも雄大で美しく、踏査でなくピクニックに来たような
楽しくのんびりした気分になった。
北壁がちょうど途切れるあたりで城内に降りる道を行くと、井戸があった。 |
「昔は糸一巻きが全部入るほど深かった」
カン氏が聞いた話を紹介したが、現在はほとんど埋められ、跡が残っているだけで、水は見えない。
そのすぐ隣に300人が遊べるという広場岩があり、ハイキング客の遊び場になっていた。
冷たくて美味しい水を飲んで降りてくる途中で、私は一人で反対側の山に登り、山城の前景を写した。
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富爾江の首を守る転水湖山城
水河子で昼食を取り、午後には転水湖山城を踏査した。
富爾江が円形に蛇行して流れるところに、まるで兜を伏せたようにポツンとある山の上に築いた
転水湖山城は、まさに富爾江の重要な首を守る山城だ。
最初に到着したのは、完全に自然城に近く、人工的に築いた痕跡がほとんどなかった。
「ここは高句麗山城なのか?」
疑うほどに築いた跡がなく、完璧な自然城である。
案内者以外に、城をよく知っているといってついて来てくれた青年も、それ以上は知らないという。
我々は全員で城を探してみることにした。ソ社長と私は上へ行き、李博士と現地人2名は下を探すことにした。
尾根を伝ってずっと登ると、ついに城壁がはっきりしたところを見つけた。
そこから少し行くと、南西の角に展望台があった。展望台の上から眺めると、富爾江はもちろん、午前中に登った
黒溝山城がはっきり見える。周囲で最も高い黒溝山城とは、肉眼で確認出来る距離なので、昔はこの将台から
色のついた布をかけて信号を送ったという。南西の角から南に少し行くと、この山城では最も高い城壁があった。
2mほど残っていて、築城法がわかる唯一のものであるが、さほど長くはなかった。
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転水湖山城は完全な自然要塞だが、 その威容は素晴らしい
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黒溝山城と転水湖山城は多勿都の重要要塞地で、渾河と蘇子河を経て遼東に出る道であり、西側の敵軍が攻めて来た
時、首都圏を守る最後の防衛線にある城のうちの一つであることが判った。
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