高句麗いにしえの地を訪ねて(5)


 

高句麗の山人参を求めて

 1991年、五女山城を初めて踏査して下り、4時にジープを借りて 高句麗の二つ目の首都である国内城、即ち集安に向かって出発した。40分ほど走ってから車が田舎道に入り、 30分余りの間、川べりの岩の上をゴトゴト走り、山間の村に着いた。 この村は昔から山人参が沢山採れるというので有名で、30余りの世帯が山人参のみ採って生活している 山人参の村だという。
 村に入ってみると、一緒に山人参を採りに行く30代の若者が待っていた。出発の前に、家の中で 作った祭壇で簡単な儀式を済ませ、山を登り始めた。途中、蛇が多く、追い払わねばならないというので、全員が 杖を一つづつ持って草を掻き分けながら登った。30分余り登り、山の中腹で山人参を探し始めた。もちろん既に 探したものは隠したままであるが、小さな木々の間に草が生い茂っており、簡単には探せないようだ。
「山人参見つけた。」
 一緒に行ったシマニ(人参採取者)3兄弟のうち、末っ子が見つけた。山人参を見たのは初めてだったが、人参の葉が 似ている上、赤い実がはっきりしていたのですぐわかるようだ。
 山人参を見つけるとすぐにシマニは、ポケットから芽の出た赤い種を取り出し、 実を取り去ってその先端に芽の出た種を挟み、繋がれた実を傍の木にしっかり縛る。こうしておけば掘っている間に 人参が逃げ出す心配はない。そして石で祭壇を作り、シマニの始祖である王稿に祈りを捧げてから山人参を掘り始める。
 掘り始めて1時間が過ぎると、山人参の全体が現れた。山人参を取り上げて見た兄が、
「相当高価なものだ」
「これは力がある」
「外国の人達を前にして、もし小さいものが出たらどうしようかと心配したが、よかった」
と、満足そうだった。「力がある」というのは、この程度を食すれば相当な効果があるということだという。

  生まれて初めて食べた高価な山人参

山人参を掘り出した時は、長い夏の日も既に山に差し掛かり、帰り道は急がなければならなかった。
シマニのユ氏は、今は山人参を食べるのに最適の季節だとして、その場で食べることを奨めた。
「山人参は秋に食べなければならない」
「夏に食べると効果も落ち、頭が痛くなる」
持って来た酒でざっと洗い、その場でかじって見た。 根毛にはこぶが走ったようになっており、結構苦い。「私が山人参を全部食べるとは。」幼い頃より本や話の中で 聞いていた「山人参」を私が直接食べたという事実に感慨無量である。
ユ氏の老母が網戸の外まで出て、泊まって行きなさいと奨め、遠慮すると、
「今度来る時は鶏に山人参を入れて参鶏湯を作ってあげる」
と秋波を送る。こんな時は言葉に甘えて一週間ぐらい休んで行けば、世間の垢が一度に落とせるのだが、 この旅人は何がそんなに忙しいのか!「人間は別れの練習をしながら生きている」というではないか!

高句麗 沙尖子山城

1994年6月27日、朝8時10分、桓仁を出発して 集安まで170kmの旅に出た。9時30分、今日の最初の目的地である下甸子に到着した。下甸子には 山頂にある山城を踏査することにしたもので、今年に2月に来て、雪が多かったので諦めたところである。
 城牆子村に着くや、まず秋に行った家を訪ねて行くと、留守番していた老人が すぐに見つけて喜んでくれた。老人は、自分は道をよく知らないといい、畑で仕事をしていた息子をわざわざ呼んで来てくれた。 幸い、その息子がその山城で長い間人参作りをしていたため、山城について詳しく知っていた。
一緒に行ったオ・ヨンウン先生、吉林大学から留学に来ている弟子のソン君とともに若者について山を登り始めた。 見た目には簡単そうだったが、少し行くと道がよく見えず、案内者がいなければ事実上登るのが難しいほどだった。 3時間ほどして頂上に到着した。若者が案内した山城は、その位置からして烽火台のようだった。山城は四方がいずれも 絶壁になっていたので、城壁を沢山築かなくても自然の要塞になるところであった。 山では大部分、ドングリのような雑木が主で、その間にユリ、蔓人参、オケラなどが見える。
若者の慣れた案内を受けて周囲を全て見て下りて来ると、1時40分、2、3時間もあれば充分と思っていた 踏査が4時間以上もかかってしまった。まだ初夏であるが、ひどく暑かった。しかし60という年齢にも拘らず 口笛を吹きながら先頭に立って歩くオ先生。カメラカバンを持って、汗びっしょりで登って来るソン君の苦労、全員が 一生懸命になった半日だった。そして時々グウグウ鳴る腹の音も忘れられない。


沙尖子城の上に残る
高句麗山城の城郭の一部

左端が筆者の徐吉洙教授

中国人達とともに食事するところ

 

民族を越えた心遣い

ひもじいお腹を抱えて若者の家に帰って来ると、赤いユスラウメを盆にいっぱい盛って私達を待っていた。 若者の父親も来て、2月に来た人だとわかり、喜んでくれた。山に登る前に予め頼んでおいたら、 とても素晴らしい食卓を準備してくれた。サンチュ、きゅうり、中国語でチンチャイという山菜、黄麺飯という 黄色いとうもろこしパン、卵、アヒルの卵など、豪華そのものだ。特に受け皿にもち米と小豆を入れた雑穀飯は 今まで中国で食べたご飯の中で一番もっちりして美味しいものだった。
 ご飯を準備したお婆さんは、とても楽しそうに、「昔、朝鮮の人が隣に住んでいたけど、お互いに分け合って 食べる良い習慣があった」「遠くから頼んでも来てくれないほどの重要なお客さんがいらしたのに、お出しするものがなくて・・・」と、 丹念に言葉のおかずを並べてくれる。そして何日か前に自宅の鶏が生んだ卵を全部売ってしまったので、隣の家から 借りて来たという。「何日か後にうちの鶏が生めば、返せばいい」のだそうだ。山深いところだが、末息子と一緒に幸せに暮らす 老夫婦であった。思いもかけなかった親切と心遣いを受けて、食事をしていると、既に午後3時だった。
さあ、これから旅人は高句麗の二つ目の首都である国内城に向かう。

 

 


社団法人 高句麗研究会