高句麗いにしえの地を訪ねて(11)

築城連帯が確実な最初の都城、国内城

国内城は丸都山城とともに韓国史上、築城連帯が確実な最初の都城 である。 三国史記にAD3年秋、10月、高句麗が卒本からここに都を移したという記録がある。ところで考古学者達の発掘調査によると、 石で城を築く以前に既に土で築いた城があったという。この土城から発掘された石斧、石刀、原型石器などを鑑定した結果、 BC3−5世紀のものだというから、夫餘やそれ以前の古朝鮮の頃から既に祖先が住んでいたところだというこが判る。 高句麗初期の瑠璃王が卒本城からここへ首都を移した後、長寿王が平壌へ遷都するまで425年という長い歳月の間、 高句麗の政治経済の中心地であった国内城であるため、韓国の歴史に占める意義は極めて大きい。国内城は 日本時代に大々的な改築工事をする前までは原型がよく残っていたというが、今はひどく破壊されている。 全長は2,686mであったのが、今は北側の城壁のみ残して全て消えてしまった。現存する城壁の幅は約7〜10mで、平地に建てた城なので、 山城に比べると広い。城壁の高さが5〜6mだったというが、現在は2mほどだけが残っている。筆者が1990年に初めて行った時でも 3〜4m程度の高さの城壁の上には樹齢20年ぐらいに見えるまっすぐに育ったポプラが植えられていたが、今はアパート群 の横に観光客のために生かしておいたいたずらっ子になっている。日本の密偵が初めて広開土王碑の拓本を採って行った 100年余り前まででも20戸余りしか住んでいなかったこの地は、今では人口20万人を越える集安市の所在地として威容を 持つようになったが、これにより新しく建てた建物の下に高句麗の遺跡は消えて行っている。

首都防衛の要地、丸都山城

集安に初めて来た1990年、偶然に出会った若い同胞が「ここまで来たら是非とも丸都山城を見て行かなければ」 と強調し、丸都山城の東壁を登った。3年後、7kmに近い城壁を7時間かけて完全に踏査した。丸都山城の南門 の中に入ると、すぐに飲馬池がある。韻を合せて飲馬湾、蓮華池とも呼ぶが、高句麗軍が馬に水を飲ませたところである。 飲馬池からすぐ上に見えるのが山城の中で戦闘を指揮した将台であり、城の全体の様子をしっかりと見られる 見晴らしの良いところに設置してある。将台から再び飲馬池に戻り、城内に上る道に沿って500mほど上れば、 東側の山裾に昔の宮殿跡がある。宮殿跡は判っている人が案内しなれければ探しにくい。何の表示もない上に、 畑に変わっているため、他の畑と区別が難しいのである。この昔の宮殿跡は、今だにきちんと整理してもなく、 研究もされず、詳しく知ることが出来ないが、礎の規模と高句麗時代の瓦の破片が散らばっているところを見ると、 宮殿跡に間違いないと思われる。城壁に上る道がないため、城壁踏査は登山で鍛えられた筆者にとっても たやすいものではなかった。狩人として来たことがある若者が、道をくぐって頂上に辿り付いた。 草が体全体に纏わりついて鼻や服の中にまで虫が入り、汗びっしょりになった体は気持ち悪いことこの上ないが、 頂上から見る壮快な光景と高句麗城を見る喜びは何物にも喩えようのない爽やかな気分だった。城内全体はもちろん、 はるか鴨緑江まで見え、山城背後の谷間も全て胸に迫って来た。


国内城の現況

天に祭祀を捧げる高句麗の国東大穴

集安市から鴨緑江を遡り、小さな村から谷間に入ると、かなり低い中腹に二つの洞窟がある。 洞窟の中から見下ろすと、鴨緑江の青い水が悠々と流れ、川の向こうに北朝鮮の満浦と川に沿って走る雲峰線 (北朝鮮慈江道の満浦−雲峰鉄道)のレールが間近に見えるところである。下にある大きな洞窟を国東大穴 と呼び、それよりも100mほど山の上にある洞窟を通天穴と呼ぶ。後漢書・高句麗伝に、「10月になると天に 祭祀を捧げ、大きな集会を開いたが、これを東盟と呼んだ。その国の東側に大きな洞窟(国東大穴)があり、 穴と呼ばれてはいるが、10月には出迎えの祭祀を執り行った」という節があるが、この洞窟は現在集安にある 高句麗の首都、国内城跡から鴨緑江に沿って東側に17kmのところにあり、昔の中国の記録 と合致すると見られる。


村の後背地になった国内城

 国東大穴は高さが10m、幅が25mで、深さが20mぐらいの南東向きの大きな洞窟であり、洞窟の前には 平地が200坪ほどあり、数百名ほどの群集が集まれたはずだという。南南西方向の通天穴は洞窟の入り口の反対側に 大きな穴があり、名のとおり「天と通じる神聖なる洞窟」であったことが判る。通天穴の中には祭壇で使ったらしき 平らな自然石が置かれており、壁側にはすすがついていた。「この洞窟は高句麗の神を迎える場所で、 特に国王が百官を従えて、こちらへ来て日夜祭祀を執り行なった。その都度、全国から多くの人々が集まり、 歌や舞を楽しみ、豊年に感謝した」という村の伝説を聞くことが出来た。天祭りとは、皇帝や天子のみが出来るもので、 高句麗が天祭を執り行ったということは、まさしく中国皇帝と同じ位置に高句麗王がいたことを示す貴重な遺跡である。


丸都山城から見下ろした国内城と
鴨緑江

連載を終えて

この内容は、1998年に現代史報に連載したものである。その後、この文章を土台に、 内容と写真を加え、1999年に「高句麗歴史遺跡踏査」(四季節出版社)という本を編纂した。 地図30ページと写真450枚も一緒に入っており、内容もこの連載物よりははるかに多く、 現地を訪ねる人や高句麗史に関心のある人達には参考になると思う。

 

 


社団法人 高句麗研究会