築城連帯が確実な最初の都城、国内城
国内城は丸都山城とともに韓国史上、築城連帯が確実な最初の都城 である。
三国史記にAD3年秋、10月、高句麗が卒本からここに都を移したという記録がある。ところで考古学者達の発掘調査によると、
石で城を築く以前に既に土で築いた城があったという。この土城から発掘された石斧、石刀、原型石器などを鑑定した結果、
BC3−5世紀のものだというから、夫餘やそれ以前の古朝鮮の頃から既に祖先が住んでいたところだというこが判る。
高句麗初期の瑠璃王が卒本城からここへ首都を移した後、長寿王が平壌へ遷都するまで425年という長い歳月の間、
高句麗の政治経済の中心地であった国内城であるため、韓国の歴史に占める意義は極めて大きい。国内城は
日本時代に大々的な改築工事をする前までは原型がよく残っていたというが、今はひどく破壊されている。
全長は2,686mであったのが、今は北側の城壁のみ残して全て消えてしまった。現存する城壁の幅は約7〜10mで、平地に建てた城なので、
山城に比べると広い。城壁の高さが5〜6mだったというが、現在は2mほどだけが残っている。筆者が1990年に初めて行った時でも
3〜4m程度の高さの城壁の上には樹齢20年ぐらいに見えるまっすぐに育ったポプラが植えられていたが、今はアパート群
の横に観光客のために生かしておいたいたずらっ子になっている。日本の密偵が初めて広開土王碑の拓本を採って行った
100年余り前まででも20戸余りしか住んでいなかったこの地は、今では人口20万人を越える集安市の所在地として威容を
持つようになったが、これにより新しく建てた建物の下に高句麗の遺跡は消えて行っている。
首都防衛の要地、丸都山城
集安に初めて来た1990年、偶然に出会った若い同胞が「ここまで来たら是非とも丸都山城を見て行かなければ」
と強調し、丸都山城の東壁を登った。3年後、7kmに近い城壁を7時間かけて完全に踏査した。丸都山城の南門
の中に入ると、すぐに飲馬池がある。韻を合せて飲馬湾、蓮華池とも呼ぶが、高句麗軍が馬に水を飲ませたところである。
飲馬池からすぐ上に見えるのが山城の中で戦闘を指揮した将台であり、城の全体の様子をしっかりと見られる
見晴らしの良いところに設置してある。将台から再び飲馬池に戻り、城内に上る道に沿って500mほど上れば、
東側の山裾に昔の宮殿跡がある。宮殿跡は判っている人が案内しなれければ探しにくい。何の表示もない上に、
畑に変わっているため、他の畑と区別が難しいのである。この昔の宮殿跡は、今だにきちんと整理してもなく、
研究もされず、詳しく知ることが出来ないが、礎の規模と高句麗時代の瓦の破片が散らばっているところを見ると、
宮殿跡に間違いないと思われる。城壁に上る道がないため、城壁踏査は登山で鍛えられた筆者にとっても
たやすいものではなかった。狩人として来たことがある若者が、道をくぐって頂上に辿り付いた。
草が体全体に纏わりついて鼻や服の中にまで虫が入り、汗びっしょりになった体は気持ち悪いことこの上ないが、
頂上から見る壮快な光景と高句麗城を見る喜びは何物にも喩えようのない爽やかな気分だった。城内全体はもちろん、
はるか鴨緑江まで見え、山城背後の谷間も全て胸に迫って来た。
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