高句麗いにしえの地を訪ねて(4)

沸流水の遊覧船

 6月26日、今日は遊覧船に乗って沸流水(渾江)を遡ってみる日である。 昔、朱蒙がこの河のほとりに国を作り、この川を流れて来る野菜の葉を見て沸流国を探し合併させたという、その川である。
 8時、桓仁漁場埠頭に向かって出発した。山道に沿って登っていた車が頂上に着くや、海のように広い川が朝日の光とともに 胸に迫る。高句麗の頃とは時間的に2000年という差があるので、空間も多くの変化を見せた。特にダムを作ってから30年間の 変化は川だけでなく周囲の山と村、全てを変えてしまった。1958年に施工して何と10年かけ、1968年に完工したダムは、 長さが593.3mで、高さが78.5mにもなる大型多目的ダムである。12個の大きな閘門があり、推移を調節する。
 埠頭はまだ観光シーズンではないからなのか、閑散としていたが、船が出る9時になると非常に多くの人が集まった。 豪華な船ではないが、騒がしい中国の人々とともにではあっても沸流水を遡ることが出来るのは大変な幸運だった。 ゆっくり進む船から眺める景色は、大変な絶景だ。

水に沈んだ最大の高句麗古墳群

左側の五女山の裾を眺めれば、山の麓に行った船が接岸施設もきちんと出来ていない谷間に何人かを下ろす。ここが 高句麗の古墳群があるところで、考古学者達が調査に来るところだという。
 ここの古墳群を中国人学者達は高力墓子墓群と呼ぶが、「高句麗古墳群」という意味である。 高力墓子墓群は桓仁地区では最大の古墳群で、沸流水の向こう5kmの距離をおいて高句麗最初の都・五女山と向き合っている。 この古墳群は五女山山城及びその付近の高句麗遺跡と密接な関係があるために、高句麗初期の社会文化を明らかにする 重要な糸口になるという点から重要な遺跡と言わざるを得ない。
 しかし1968年以後、渾江ダムを塞ぎ、水を貯めて、連江及び高力墓子村の古墳群が全て水没してしまった。
「高句麗についての多くの謎を解いてくれる古墳群なのに、全て発掘もせずに沈めてしまった」
といい、同行したオ・ヨンウン氏はいつまでも口惜しがっていた。

万物相と万楽島

遊覧船が真北に向かって進み、はるか五女山の右側を眺めると、前に立ち塞がるように万物相が現れる。 馬の頭のような形をしているといわれ、現地人達が馬面石と呼ぶここは、岩が切り立っていて遠くから見ると岩の絶壁 であるが、近くで見ると奇岩怪石と松の木がマッチして絶景を演出する、まさに万物相である。
 万物相から右側に回り、山水画のような絶景を眺めながら行くと、島が一つあり、ここが万楽島という遊園地である。 宿泊施設を設け、いろいろな見所を作っているが、まだ生半可なところが多い。雑草を掻き分けて低い島の頂上に登り、 作りかけの建物の上から眺めると、周囲が一目で見回せる。しかしここからも絶壁のような五女山は姿が見えなかった。 もう少し待ってみたかったが、近づいて来た遊覧船に乗って戻らなければならないので、急ぐしかなかった。
 高句麗の歴史遺跡は接近不可能であったが、大体の位置は確認出来、久しぶりに爽やかな遊覧船観光を楽しむことが出来た。


下古城子の表示板(村の中の個人宅が
高句麗初期の平地城)

道端に立っている上古城字の表示板
(1994年2月)


下古城子から眺める五女山城

高句麗初期の平地城、下古城子城跡

 桓仁鎮から北西に抜け、橋を渡ってすぐ、最初に左に急に曲がる道を行き、渾江に沿って1kmのみ下ると下古城子である。 未舗装道路である上に雨が降った後なので、車の通行が難儀だった。
 この城と五女山山城は距離が近く、お互いに目視が可能で、また出土した遺物が似ているので、同じ時期に築いたものだと思う。 そのため、学者達は初期の高句麗が平和な時代にはこの土城の中で過ごし、戦争が起こると五女山山城に入り 籠城したと結論付けている。とすれば、今後本格的にこの城を発掘すれば高句麗の建国と初期の歴史についての謎を 解くことが出来るだろう。
 1987年の春、文化財の一斉調査の折、城跡を実測した結果、「東壁226m、西壁264m、北壁237m、南壁212mであり、 幅が2m、残っている高さが0.5mぐらいになる。北西の角はかなりよく保存されており、残っている高さが2m余りで、 今年その上に石垣を築いた」となっている。
 しかし僅か7年後の今、村には家が立ち並び、思い通りに変形させ、城の痕跡を探すのが難しかった。 他人の家の庭を通り過ぎて高句麗の城壁だったところを探してみたが、確認が難しかった。高句麗初期の平地城は 事実上、ほとんど消えてしまった現場であった。


倒壊している上古城子
の表示板

下古城子の共同墓地、上古城子

 下古城子からさきほど戻って来た大きな道に出て、しばらく走ると上古城子である。 古墳群がある六道河子郷の上古城子村から南に1.5kmのところに高句麗時代の平地城である下古城子があり、 その古墳群が下古城子の共同墓地ではないかというのが現地の学者達の意見である。
 桓仁県文物志には元来は古墳群が相当に広かったとある。
 「文化革命」の折、土地を平らに改造してしまい、古墳群が随分破壊されてしまい、西部の古墳群はほとんど 壊されて面積が相当小さくなってしまった。60年代に調査した時は墓が全部で200個以上あったが、1988年に 調査した時には27個しかなく、それらもかなり破壊されてしまった。

 

 現在は大部分が破壊され、入口にいくつかが哀れに残り、その名残をとどめているだけで、ほとんどは畑に変わりつつあり、 見る者の心を痛めた。残っている墓も境界を定め、農夫達がこれ以上壊せないようにしなければならない。

 

社団法人 高句麗研究会