高句麗いにしえの地を訪ねて(10)

接近撮影が禁止された世界最大の碑石

将軍塚を出て広開土王碑に来ると、大きな門はまだ閉められていたが、小さい門は開いていた。 大きな門には「ビデオ撮影禁止(厳禁録像)」という大きな文句が貼り出されていた。1990年に続き、 2度目に見る太王碑であるが、見るたびに驚嘆を禁じ得ない。近くに寄って見ることは出来るが、 写真を撮れないため、碑閣の外から記念撮影することで満足するしかなかった。世界で最も碑石の多い国が中国であり、 その中でも最大のものがこの広開土王碑であることは中国の学者達の発表であり、日本の学者達も認めている。 一体、どれだけ大きくて、その記録なのか?高さが6.39mといっても実感が湧かないだろうが、アパートの3階から ベランダの門を開いて外を見た時に、いきなり大きな岩が目の前に立っていて、その岩が1階から3階まで 聳え立っている太王碑だといえば実感が湧くであろう。


密偵の酒匂が日本へ持って行った双鉤加墨本の拓本

東アジアの歴史研究の重要資料

 太王碑が偉大であることはその大きさのためではなく、4面に1775の文字が刻まれており、その内容が重要だということである。 この記録は韓国最初の記録であるだけでなく、その内容も豊富であり、まるで一冊の本を読んでいるようだ。 広開土王碑はその記録内容が紀年式になっているため、燕、夫餘、新羅、百済、日本など東アジア国家全体の 歴史的事実を比較研究する上で大きな資料になっているため、周辺国家の研究がある面では韓国よりもより活発に なっているほどである。我々は広開土王碑の内容を研究することで、当時の高句麗が東アジアで占めた位置を正しく捉えることが出来、 特にこれまで韓国の史書の歴史叙述方式が中国中心であったが、広開土王碑の内容を通じて、事大主義の歴史家 達が自ら美化した歴史を、主体的な立場から捉えることが出来るという点で貴重な資料だといえるだろう。

日本帝国主義の陰謀と広開土王碑

太王碑は広開土王が死んだ後、2年になる西暦414年、つまり長寿王3年の9月に、太王の陵墓とともに建設されたが、 668年、高句麗が滅亡してから忘れられ、その後1100年が過ぎた1880年に奇跡的に発見された。しかし3年後、 碑文の拓本が日本に持ち込まれ、国家機関が日本最高の学者達を動員して5年間調べた挙句、古代から日本が 韓国を支配したという任那日本府説を裏付ける証拠として登場した。日本の教科書「新日本史」(三省堂発行) 「朝鮮半島進出」という項目を見ると、 ,
… 4世紀に入り、大和政権の勢力は朝鮮半島に進出して まだ小国家群状態であった弁韓を領土とし、ここに任那日本府を設置した。391年には、再び軍隊を送り、 百済・新羅も服属させた。…この「支配と出兵」についての動かぬ証拠こそが、朝鮮族の先祖の墓に書かれた 金属文である。391年、日本の朝鮮出兵は今も中国東北部に残っている高句麗広開土王碑にかかれている。 となっている。

この内容は大部分の日本の教科書に同様に書かれており、戦後も定説として定着し、また疑いようのない 歴史的事実と考えられていた。

太王碑は日本により変造された

日本帝国主義の軍隊組織と官学により行われたこのような歴史歪曲は、早くも旧韓末、韓国の先覚者達から 始まって相当数の南北の学者達がその不当性を指摘している。特に日本に居住する韓国の史学者、李進熙氏が 「太王碑は日本により変造された」という説を出し、広開土王碑の問題は国内外に爆発的な関心を呼び起こした。


石灰を塗って採った拓本


本当の原石拓本

李進熙氏は中国で初めて広開土王碑の双鉤加墨本を持って来たのは、現地でスパイ活動をしていた 酒匂中尉であることと、そのようにして持って来た双鉤加墨本を利用して、日本最高の学者達を動員して参謀本部が任那日本府説を創出する過程を 追跡し、生々しく記録している。一方、李進熙氏は碑面に石灰を塗って拓本した事実を挙げ、その当事者が誰であり、 何のために石灰を塗ったのかを追及して行く。碑面の凹凸がひどく、拓本が難しく、文字がないところに石灰を塗って 拓本するので、石灰を塗る過程において碑文を変造することが出来る。李進熙氏は、太王碑に石灰を塗ったのは、 酒匂の双鉤加墨本を補強するために日本の陸軍参謀部がやったことであると暴露している。


石灰を塗ったのは事実

 結論から言うと、太王碑に石灰を塗ったのは事実である。日本の学者達が早々に明らかにしたことであり、 中国の学者達も確認している。また石灰を塗って作った拓本も相当に存在し、酒匂の双鉤加墨本とほぼ同じ であることも事実だ。問題になるのは、誰が石灰を塗ったのかということで、日本はその行為を否定しており、 中国の王建群もこれに同調している。

一方、変造説に刺激された韓国・北朝鮮の学者達が、注目すべき研究業績を挙げている。 千ェ宇、金永萬、朴時亨、金錫亨、李亨求、徐栄洙などは李進熙の碑文変造説を土台に、 前後の文脈と書体の結句を中心に変造された文章を復元し、合理的解釈を試みている。 このような研究の結果、辛卯年の記事の一部の文字が変造されたり間違って解釈された点、 辛卯年の記事が高句麗を主語とする記事であることを明らかにした。

現地合同調査を通じて真実を明らかにせよ

しかし日本の中等歴史教科書「中学社会」(教育出版、1993)は、現在も任那日本府説を載せており、歴史歪曲がひどい。 このような歴史歪曲の真実を明らかにするには、当事国が共同で現地で科学的に碑石を精密調査をしなければなるまい。 しかし韓国の学者達はいまだ一度も公式的には太王碑を調査出来ず、そればかりか近づいての撮影すら出来ずにいる状態 だ。中国としては、少数民族問題と関連して神経をとがらせているが、それに対して韓国はいかほど問題についての関心を 持って接しているのか考えるべき時が来た。

 

社団法人 高句麗研究会

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