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朝鮮民族の長白山
檀君神話 | 高句麗人の長白山信仰 | 渤海の滅亡
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高句麗人の長白山信仰を知るためには、さまざまな方法が必要です。 それは、高句麗人が長白山を崇拝したと
記している一次的な史料がないという理由もあり、傍証出来る部分的な史料を通じて蓋然性を実証的に認証しなければならないからです。
まず、朝鮮民族と長白山の縁は、三国遺事の古朝鮮から始まります。 もちろんこの記録で、桓雄天王が神市を作った
太白山が今の長白山であると断定する根拠はありません。 ただ、後世の人々が、その時の太白山を今の長白山として
認識しているという事実だけは否定することが出来ません。 したがって檀君信仰が普遍的に受け入れられた時期に、
長白山は民族のメッカとして広く崇拝を受けていたという事実は確認することが出来ます。
三国遺事の王暦編を見ると、高句麗の建国始祖である東明王が ‘檀君の子’であるという記録があります。 ここで子というのは、
子孫という意味です。また三国史記によれば、‘平壌は先人王倹の地’とあります。これらにより、高句麗では自分たちが檀君の
子孫であるという観念と首都の平壌が檀君の領土だったという意識を持っていたことが分ります。それなら当然、檀君と関連が
ある長白山を神聖視した可能性が充分にあるわけです。
集安の将軍塚
ある学者は、これらの観念が後の高麗時代に作られたとしています。 しかしそれは誤った認識でしょう。 少なくとも檀君と係わる
意識は、渤海の流民たちにも見られるからです。 高麗史 太祖 7年の箇所を見れば “渤海国の王子・大光顕が数万の民衆を
率いて投降して来た。 王継の姓名を与え、彼を宗室の系図に組み入れるようにし、特別に元甫(官位の一つ)を授け、 白州を守らせ、彼らの
宗廟の祭祀を奉ずるようにさせ、 臣下と爵位、兵士、田畑を与え、それぞれ特別な待遇をした”とあります。
この白州は、現在の黄海道白川で、近くに九月山があります。九月山は現在、檀君関連の史蹟と伝説が最も豊富な地域の一つです。
いかなる形であれ、この地域に定着した人々である渤海の民との関連を否定すること出来ません。揆園史話によれば、大光顕らが
高麗に投降する時、渤海で秘蔵されていた歴史書を数えきれないほど沢山持って来たとされており、檀君の歴史を記述した史書と
して知られる高麗後期の震域遺記も、まさに渤海人たちが持って来た朝代記をもとに作成したと言います。 したがって渤海人たちは、
上京龍泉府や東京龍源府など自分たちが住んでいた地域の檀君ゆかりの地名や史話を、ここ白州の九月山地域に移し変えた
可能性が高いのです。それゆえ渤海人たちの檀君認識や聖山の観念は、当然彼らが受け継いだ高句麗にルーツがあると考えられるのです。
次に、最近、北朝鮮地域で星州邑図録という、それぞれ異なる二枚の地図が発見されました。時期は大体、
高麗初期の物です。この地図には星州地域の昔の地名とともに、檀君の歴史と関連がある扶婁、多勿、率那、古弗という
地名もあり、天皇谷、扶婁谷などの谷も見られます。これらも高麗初期に少なくとも高句麗や渤海の子孫たちにより、檀君や
古朝鮮の地名と史話が星州地域に伝わって邑図録に反映されたと見られます。
高麗中期になると、既に長白山崇拝の観念は、主な政治理念の一つとして登場するほど普遍的に広がっていました。
「高麗の首都である開京を西京に移すと、天下の36ヶ国が高麗に朝貢をし、高麗は強国になる」という図讖説(未来の
吉兆禍福を予言した風水地理などの記録)を基盤として西京遷都を主導した妙清は、長白山を護国の霊山と認識していました。
この時、長白山は高麗の領土の外に位置していました。それでも高麗の民衆は長白山を崇拝の対象としていました。
妙清はこうした民衆の心理を正確に把握し、当時流行った図讖説と護国山岳信仰を連結して自論を強化して行ったのです。
やがて1135年、高麗を二分しての大乱が勃発しました。
妙清の乱
丹齊・申采浩(独立運動家・史学者、1880-1936)の‘朝鮮の歴史上 1000年に一度の大事件’を見ると、金富軾(妙清の乱
を平定した高麗の官僚)は新羅継承論者で、開京派の指導者で、事大派の先鋒でもあり、妙清は高句麗継承論者で西京派
の指導者で自主派の先鋒だったとあります。
高麗史 巻27の 妙清列伝の記録によれば、妙清は平壌で蜂起する直前の 1131年、仁宗に平壌の林原駅に大花宮と
八聖堂を作ろうと建議します。八聖堂の本尊こそが護国白頭嶽仙人です。 長白山は、平壌を基盤とする反開京派勢力
から高麗を守ってくれる第一の護国霊山だったのです。 このような観念も、やはり平壌に都を置いた高句麗人たちの
長白山崇拝観念にルーツがあるのは明らかです。
三番目に、宋の時代、道学家の曽慥は、道枢から後漢時代の魏伯陽が作ったという周易参同契の成立に関し、
“雲牙子が長白山で遊び歩いていると、真人に出会い、彼が不死薬の知恵と陰陽の秘密を知らせてくれた。
そこで 18冊の本を作り、大道を説いた”と記録しています。
ここで私たちは長白山と神仙道教が、いかに深い関連があるかということを確認することが出来ます。 問題は、
この時の長白山という観念が、曽慥が生きていた宋の時代に普遍的に道家に認識されていたのか、それとも魏伯陽が
生きた後漢の時代の認識かという点です。 三国時代の魏の葛洪が書いた抱朴子によると、上の記録を補うおもしろい
記事があります。巻 18 地真編によると、 “昔、皇帝が東方の青丘に至り、風山を経て紫府先生に会い、三皇内文を受け、
多くの神々を操ることが出来るようになった”とあります。
都光淳は「風山」を、どう見ても太白山のようだ、としています。 これを傍証する史料としては、歴代神仙通鑑巻2に
“皇帝が一人で東北の長白山の下で道を磨き、長年の後に成功した”と言う記録があります。 これを見ると、風山は
長白山であることが判ります。
また、南梁の道士であり医者でもある陶弘景の証類本草 金屑の章には ‘高句麗人たちが金を上手く扱った’という記録
があり、これは高句麗の金丹技術が中原地域の金丹道教に伝わったものと見られます。
以上の二つの記録を見ると、少なくとも高句麗の時期に中国漢族の神仙道家たちは、長白山を神聖な場所として崇拝して
おり、こうした観念は当然、高句麗から彼らに伝わったはずです。 同時に高句麗の発達した金丹技術も学んで行っただろう
と考えられます。 それなら、これは高句麗の神仙道家たちが崇拝した長白山の観念が中原地域の神仙道家たちにそのまま
移入され、仏事の理知に目覚めた先学たちがいずれも長白山で修行をしたという観念や伝説にまで発展し、 高句麗人たちが
長白山を修行の道場にしたという傍証になるのです。
四番目に、高句麗人たちが檀君や太白山の神檀樹を認識しているという傍証史料は、平壌にある高句麗古墳の
角抵塚(相撲をとっている絵が描かれている)と長川一号墳の墓壁画に見られます。角抵塚の内室右側壁画には大きな木が描か
れており、その下の左右には熊と虎をイメージした絵があり、これは檀君神話の熊と虎を連想させます。
長川一号墳の壁画
また長川一号墳の人物風俗も、右上には大きな果物の木を中心に多くの人々が神を崇拝する場面が描かれており、
左下には大きな木の下に丸い洞窟があって、そこに黒熊が描かれています。 注目すべき点は、他の獣たちはいずれも
狩猟場面に出て来るのに、特に熊だけが洞窟で安全なところにいます。 これも神話と神檀樹の反映なのでしょう。
高句麗人たちは、このように檀君の歴史や史話を神話の素材にして壁画に描き、その崇拝の姿を後世に残したのです。
したがって神檀樹があった長白山に対する崇拝意識は充分にあったはずです。
最後に、高句麗の長白山信仰は朱蒙の神話でさらに堅固なものになります。広開土王碑文と牟頭婁塚には、
始祖である朱蒙について ‘天の子で河伯の外孫’であるとか ‘日月の子であり、河伯の外孫である聖王鄒牟王’と記録されています。
始祖である朱蒙について、特に河伯の外孫であることを強調する理由は何でしょうか? それは高句麗のルーツが
多くの小国との連盟体であり、多くの種族との連合政権であるところから考える必要があります。高句麗は、自分たちが
領土内で最も重要な三つの水源である鴨緑江、豆満江、松花江流域の松譲国、北沃沮、北夫餘を一つにまとめて
帝国秩序を建設しました。朱蒙はまさしくこのような帝国秩序の象徴的存在だったのです。
そしてこの3本の川の源流がいずれも長白山であるという事実と、その上には天池があり、水源を治める河伯の居住地と
して象徴になることが出来たはずです。そこで高句麗人たちは、自分たちが河伯の外孫という掛け声を通じて、長白山に
発する川の水を、全ての種族を統合する名分にしたのでしょう。このようにして長白山と天池は、高句麗人たちの信仰と
観念として成長したと見られます。
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