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東北地域の回族

遼寧省の回族

遼寧省の回族の先祖は大体が元代末から明代初の時期に続々と全国各地から移転して来ました。 瀋陽故宮博物館にある元代《瀋陽路都城隍廟碑》の記録によれば、少なくとも630年前には瀋陽に 居住する回族の先祖がいたことが明らかです。 遼寧に移動して来た回族には、何種類かのパターンがあります。

1.軍人・政治家の逃亡・定着

明代初期の靖難の変(1399〜1402年)で、燕王朱棣(のちの永楽帝)と建文帝が帝位を争った際、 回族人の鉄鉉が兵部尚書を担当し、済南の留守役として燕王朱棣と何度も戦い、敗北しました。 現在の錦州へ逃亡し、定着したのが瀋陽の鉄氏の祖先だといいます。鉄氏は遼瀋地域の回族の名家 と呼ばれるようになりました。その後、清朝2代目のホンタイジの頃、彼らは瀋陽南清真寺を建立、 いわゆる“回回営”という回族の集落を形成しました。

2.自然災害からの逃避

特に1523年の天災による凶作、さらに清代に入ってからの何度かの河川氾濫により、山東・河北地域から移住 する回族が続出しました。営口の大石橋に住む回族も、清・同治帝時代にこのパターンで移住して来た人々です。

3.清政府の移民政策

清政府は、順治帝・康煕帝の時代に、7度にわたり東北地域への移民政策を実施しました。 これにより、瀋陽・営口などを中心に漢族とともに多くの回族も移住しました。

瀋陽南清真寺

丹東清真寺



吉林省の回族

吉林地域に初めて回族が現れたのは、清の康煕帝時代の初期でした。つまり17世紀80年代以後に今の九台県付近に定住したのが最初といわれます。 “三藩之乱”を収めるために派遣された軍関係の人々でした。 また清朝の初期、東北は犯罪者の流刑の地の一つでした。東北へ最初に流刑者が流されたのは 順治16年(1659年)で、後に吉林地域の寧古塔、吉林烏拉、三姓、伯都納(現在の松原市寧江区、もとの扶余県) などの地方へ流刑者や派遣者が集まるようになりました。
派遣者には漢族だけでなく、回族もいました。その中の一部の 人が慣例を破って特恵を与えられ、同地の開墾をしたり軍人になったりしました。 九台から吉林、永吉、双陽、伊通、扶余などへ分散して行く彼らのうち、比較的集中して住み着いたケースもあり、回回営 を作り、苦難に満ちた創業の生活を始めました。

“回回営”という呼称の期限は元の時代だといわれます。13世紀にモンゴル軍が西域に攻め込んだ時に中国に連れてきた 中央アジア、西アジア地域のイスラム系の民族の兵士や職人は、元の“探馬赤軍”として中国統一戦争に参加しました。 1273年、世祖フビライの「どこででも社に入り、編民と等しいものであるべし」という命令により、 数多くの回族の下士官は全国各地へ分散し、駐屯・開墾しに行きました。農民に転換したり、同族として集 まって住み、あるいは現地の民族と雑居しました。 これらの回教徒が集まり住む村を“回回営”、“回回村”などと呼びました。その名残として、 各地に「○○営子」などの地名が現在も残っています。

長い間、回族の生活は貧しく、苦境を抜け出すため、安定した生活のできる土地を探して、 常に移動していました。新興都市が出来るたびに商品経済の発展とともに回族の移動を引きつけました。 1949年の建国の頃までに、吉林省の各市県至る所に分布し、すでに“回族のいない県はない”という状態 になり、1982年の時点で、4300人に増加しました。

延吉市にある中国最東端の清真寺

付近にある回族の食堂


長春の清真寺


黒龍江省の回族

黒龍江省内の回族は主に山東、河北、北京などから移住して来た人々で、商業を営み、生計の道をはかって来ました。 調査によると、最も古いのは康煕15年(1622年)に移住して来た40数戸です。雍正6年(1728年)は寧安県に 30数戸の回族が来て、大多数は1900年以後に移住した人々です。

省内の回族の人口は現在、およそ13.9万人で、約95%が都市部、5%ぐらいの人々が農村に住んでいます。 人口比の多い市・県としては、ハルピン、チチハル、伊春、鶴崗、佳木斯、牡丹江、双鴨山、阿城があります。 多くは牛・羊肉 を販売するイスラム教の飲食店・居酒屋を開き、あるいは果実の薫製の食料品店、 皮革加工あるいは農業生産などに従事しています。

 ハルピンの香坊清真寺
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