遼東地方の高句麗遺跡 (6)
高句麗 建安城

5月8日、営口へ行く大きな道に沿って青石嶺を越えると、 すぐに右側に高麗城村に入る道がある。道に入るとすぐに高麗城村と書いた表示板が立っていて高句麗を訪ねる旅人を 喜ばせてくれた。村の商店で動向してくれる人を探したら、呂振廣という人が進んで付いて来てくれた。 呂氏はまるで歴史を専攻した郷土史家のように、城についてはよく知っていた。「城内に井戸はありますか?」「瓦片が 出た建物跡がありますか?」「将台はどこにありますか?」「門はどこどこにありますか?」などは、城を探す時、現地の人々に聞く 基本的なことである。呂氏はそれらの質問に完璧に答えてくれた。中に入って左の山の中腹に泉があるというので登ってみた。 2〜3mほどの深さで石積みの、今も水が絶えず湧き出し、果樹園に水をやるのに特別に使われているという。 果物畑を下り、車で東門へ行ってみた。道は良くなかったが、運転手は上手に運転してくれた。北も南もいずれも高い山なので、 両側の山頂まで土城を築いて行ったが、城壁は比較的よく残っている。


 

淵蓋蘇文と弟・淵蓋蘇珍

城の北側に人里離れた島のように低い山があるが、現地の人々は金殿山と呼ぶ。この金殿山こそが建安城の 将台である。この将台の南側に昔の住居跡があったというが、呂氏はこれが蓋蘇文と蓋蘇珍の二人が逗留した兵営の跡だといい、 驚いたことに漢字でその二人の名前を書いた。蓋蘇文とは、淵蓋蘇文のことで、中国側の記録ではいずれも淵の姓を省いて 蓋蘇文と名前だけ書く。唐を建国した世祖の名が李淵であるためだという。私が驚いたのは、淵蓋蘇文の弟が 一緒に戦場で戦い、名前まで残しているという事実である。淵蓋蘇文の弟がいるという事実は史書では見られなかったためだ。 淵蓋蘇文が寄居したというところで瓦のひとかけらでも拾おうと探してみたが、出来なかった。高さが20m余りになる将台に登った。 四方が絶壁で、頂上は平地になっている。人工的に築いたものだという推測もされているが、全て岩山なので、人工的に作ったものではないという ことが判る。ここにもやはり一本のなつめの木があり、また昨日安市城で見た茨の木もあったが、白い花がとても綺麗に咲いている。 花の名を聞くと、串材樹だというが、韓国語の辞典にはない単語だ。西門も東門のように山頂間を越える峠道で、城壁が とてもよく残っている。西門に行くまで、呂氏は建安城の専門家らしく、北山の谷間の広いところは軍事訓練場、 西門左の広いところは罪人を処刑したところなどと、一つ一つ教えてくれる。北側の山を登ってみると、今まで見て来たものとは 全く違う雰囲気だ。東門と西門がいずれも土城で、氏優位がいずれも土質の良い畑であったのに比べ、この山の上は 完全な岩場で、石積みで築いてある。

 

 

唐軍に衝撃を与えた建安城

唐の太宗が白岩城を攻撃して勝利した時(6月)、李世勣に建安城を攻撃するように命じたが、李世勣は反対した。 「建安城は南にあり、安市城は北にあるが、我々の食糧は全て遼東にあります。いま、安市城を過ぎて建安城を 攻め、高句麗人達が我々の食糧補給路を社団したら、どうなりますか?先に安市城を攻撃すべきたと思います。 安市城が降伏すれば、堂々と北へ行って建安城を奪うことが出来ます。」この記録を見れば、安市城よりも 南にあったことが明らかになる。一方、安市城攻略作戦が膠着し、唐陣営では安市城を放棄して「烏骨城を落とし、 鴨緑江を渡り、そのまま平壌を奪おう」という論議が起こる。この時、長孫無忌が「いま、建安城と新城の軍勢が まだ10万にもなるが、我々がもし烏骨城へ行けば、高句麗軍が必ず我々の後ろを追撃するだろう」として、 計画を中止した。こうして見ると、安市城の戦いに投入する兵力を分散させ、安市城を放っておいて烏骨城や平壌に 直行する場合、追撃して補給路を遮断する重要な任務と能力を持っていたということである。三国史記に「新城・ 建安城・駐山で起きた3回の大きな戦いで、高句麗軍と唐軍に死亡者が多く、 馬も沢山死んだ」とあるのを見れば、中国の記録とは違って建安城は新城、駐山 (安市城)とともに唐軍に最も大きな打撃を与えた城であることがわかる。


社団法人 高句麗研究会