遼東地方の高句麗遺跡 (12)

初公開、高句麗 泊灼城!

10年余り前、中国の学者達が河尖古城の東側にある虎山で明の長城を見つけてから 高句麗の山城を一つ見つけたが、この城が高句麗の泊灼城であることが判った。648年、唐が攻めて来た時、「泊灼城は 山を利用して要塞を築き、鴨緑江にしっかりと守りを固めていたから、落とすことは出来なかった」との記録がある。 現在まで鴨緑江の入口で見つかった高句麗城は河尖古城と、この虎山山城だけで、 河尖古城は平地に建てた城なので唯一の山城である虎山山城が泊灼城であることになる。 1998年7月末、虎山に到着してみると、高句麗山城は見えず、最近中国が復元した数多くの明の長城が前を遮っている。何年か前、 日本の放送局で作った「万里長城」という番組で、万里長城の東の端に少し見せてくれたのは、万里長城でなく高句麗山城であった。 そして僅か何年かの間に急に明の長城が登場したのである。難しい経済情勢の下でも中国が鴨緑江沿岸に大規模な 長城を新しく復元したのは、異民族である清の支配を脱して、むしろその土地を支配している現実を正当化するための 強力な意思表示のようなものである。記録にはこの長城の端のどこかに高句麗山城が残っているというが、 いくら探しても見つからず、新しく築いた明の長城だけが怪物のように残っている。 粘り強く噂をたよりに捜したあげく、高句麗山城は現在明の長城を復元してある山の後、言い換えると 鴨緑江側にあるという事実が判った。トラックに乗って江畔の堤防を走り、 小さな村に着いて、とうもろこし畑をずっと掻き分けて行くと、ついに虎山山城が現れた。高句麗以後、1300年が過ぎるまで 土の中に埋もれていた山城遺跡が発掘されたのは、1991年9月から12月までの3ヶ月間であった。それゆえ筆者も1998年になって初めて 出会った遺跡であり、この原稿が虎山高句麗遺跡についての初めての発表である。

大型井戸と多様な遺物

まずここの遺跡で最も特徴的なものを挙げるとすれば、やはり井戸である。高句麗山城にはどこにも必ず井戸があるのが 特徴であるが、ここほど完璧に残っている大型井戸は初めて見た。井戸は丸い穴であるが、内壁の直径は4.4mにもなる。 井戸の壁はいずれも綺麗に形を揃えた楔石を積み上げたもので、いまだに53層も残り、深さは11.25mもある。今でも 水が一杯溜まっているところを見ると、四季を通じて枯れない井戸となるように深く掘ったのだろう。 高句麗山城で見たように味噌麹玉のように綺麗にした意思で絶妙に積み上げた井戸は「高句麗井戸」の代表的なモデルといえるだろう。 井戸のすぐ横に造った扇形建築物も珍しいものだ。この遺跡は比較的大きな石も積み上げてあるが、平面は大抵が 扇形で、半径14mぐらいになり、周囲は盛り積みしてあるが、端が比較的尖ったような楔石で整然と堅く積んである。 階段はないが平面がまるでローマの円形劇場のような形のこの建築物は、何に使ったのか?水を貯めた貯水池なのか? 「とすれば、底が岩板でなければならないのに石を敷いて置いてあるから、水がすべて漏れてしまうのではないか?」 いろいろな考えがよぎったが、まだ結論を出すのは早い。井戸の左にある石壁も、その使い道がはっきりしない。 城壁のようでもあり、城壁から突き出した雉城のようでもある。しかし外に水が流れるように水の道を作った痕跡が 続いており、発掘をもっとやってみなければならないが、その明らかな使い道は判るものと思われる。 井戸の中にしっかりと保存された丸木舟、竿、木まぐさ桶、湯桶、木製ボール、板、とっくり、ロープ、 土焼き甕、植物の種子等、30余りの遺物がごろごろ出て来て研究結果によっては高句麗文化を明らかにする画期的な遺跡 になるかも知れない。ここから出た丸木舟は、長さが3.7mになるもので、いろいろな木で出来た器具も、非常に特異な 遺物であり、今後の高句麗研究に良い資料となるだろう。遺物についての詳しい内容は中国がまだ発表していないのが 残念である。

高句麗安平城は地名だけに使い、城は河尖古城という。

韓中間の交易の場だった「柵門後市」は今でも市場である。

虎山山城の城壁(典型的な高句麗築城法である)

今は畑になった高句麗安平城跡で遺物を探している会員達

国境都市、辺門

再度1993年に戻る。午後6時、天気のせいかスモッグのせいか、まだ日が照っているのに薄暗くて、旅人の道を急がせる。 市内には入らず、五龍背の方に回って北へ行ったが、道が悪いので苦労した。辺門というところに到着したのは夜9時になった時だった。 一行が皆、鳳凰城まで行って泊まろうというのを私が反対して辺門に泊まることにした。1991年、丹東に行った時に会った 朝鮮族の人が「鳳凰城の少し手前に高麗門というところがあるが、高麗の人々が中国から戻って来る時、その門を出ると 高麗だったから高麗門と言った」という話を聞いた。今から240年余り前、ここを通った燕巌・朴趾源は、 「熱河日記」で「ここを我が国の人々は柵門といい、ここの人々は架子門といい、中国の人々は辺門という」と書き、 「柵門から鳳凰城まで30里、鴨緑江まで120里」と記録した。ここがまさに朝鮮後期、清と交易をした柵門である。 燕巌がこの辺門に来て「この門に来れば中国だ。故国の消息はここで途切れるのだ。名残惜しく東の空を眺めつつ 立ってから、やがて向きを変えてゆっくりと柵門に向かった」としているのを見ると、柵門=辺門=高麗門であることが判る。 高句麗、高麗が滅びて、朝鮮500年が過ぎても、この地はなぜ高麗門と言ったのか?まさにこの謎を解くには、ここに一晩泊まることだ。 一緒に寝る運転手達が10時半を過ぎても酒を飲み、11時半を過ぎるまで騒いでいたので、早く寝ることが出来なかった。 自動車が止まる旅館のうちでは、オンドルを使うのは珍しかった。まさにこのオンドルも高句麗の時から伝わる我々の風俗ではないか!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高麗門が消えた理由

5月11日、朝早く起きて辺門見物に出た。朝鮮族の商店が一つあり、 朝早い時間であるが、恥も外聞もなく入って聞いてみた。「この村で一番のお年寄りはどなたですか?」 強い平安道訛りで親切に教えてくれた家を訪ねて行くと、二人の老人が喜んで迎えてくれた。新義州のノンチョン というところから来たというオ・ヨンマンさんとイ・イスクさんは二人とも71歳だが、健康で表情も明るい。 これまでの半世紀、他国で過ごして来た話を始めるととどまるところを知らない。私の父母などは 日本時代、解放、朝鮮戦争などの苦しい歳月を過ごした話を始めるときりがないが、北朝鮮から中国に渡って来た 人々は、さらにそれに辛い外国生活が加わる。しかし二人の老人の話は嘆き話にとどまらなかった。それこそ、 どんな学者も力強い若者も話せない貴重な話が多かった。「ここはもともと高麗門駅があったところです。 ところで1962年、金日成が中国を訪問する時にここを通るので、駅の名を一面山駅と変えてしまったんです」 「この辺門から南に少し行けば朝鮮村というところがありました。その頃、ここも金日成が通る時に朝鮮の土地 だと言われるのではないかと思って、地名を湯河と変えてしまったんです。」瀋陽から丹東まで鉄道を敷いた 日本の建設会社の記録(間組百年事185ページ)を見ると、高麗門駅が確かにあった。 安東県−沙河鎮−五龍背−湯山城−高麗門−鳳凰城、しかし現在の駅名は 丹東−沙河鎮−五龍背−湯山城−一面山−鳳凰城となっており、建設当時の駅名が高麗門だけが一面山に変わったことが判る。

淵蓋蘇文の高句麗城

二人の老人に、私が高句麗山城を探していると言うと、「5里も行けば、淵蓋蘇文と薛仁貴が戦った城がある古城里がある」 そこへ行くと、淵蓋蘇文が腰掛けたという場所がある。今では空軍の爆弾基地になった」という。まさにそれだ。私が朝早く 一人で朝鮮族の人を訪ねて行ったのは、まさにこのような生きた真実を得るためのことだ。高句麗が滅び、渤海が滅び、 千年という歳月が過ぎたが、それでも淵蓋蘇文の話が朝鮮族によって伝えられているというのは何とも興味深いことだ。 この地で長い年月を辛抱して生きて来た老人達だけが話せる貴重な経験談である。彼らにはただ通り過ぎた話のように簡単に 話してくれたことだが、この老人達が亡くなれば僅か何年かの後かも知れないが、こうした事実は歴史の中に永遠に埋もれてしまうのである。 満州地方に根ざした民族史も早く探して記録しておかなければならないという焦りを感じた。辺門には朝鮮族が30戸ほど 住んでいたが、出稼ぎに出て行ったので、現在は20戸ほどしか残っていないという。「我々は年老いて詳しくは判らないが、 鳳城へ行ったら、朝鮮族小中学校の先生をしている娘婿を訪ねて下さい」と何度も頼まれた。

 

- 続く-


社団法人 高句麗研究会