遼東地方の高句麗遺跡 (13)

遼東−平壌間 最高の要衝地 烏骨城

1993年5月11日9時、辺門を出発して峠を越えると、やがて鉄道に至る。 「古城はどこにありますか?」通りがかりの娘に聞くと、気経に入口まで案内してくれる。鉄道に沿って少し行くと、 入口に「鳳凰山城」という表示板がついている南門の入口に着いた。高い峰が集まって出来た別天地が一望出来る。 「何とまあ山の中にこんな盆地があるとは!」若い娘が「友人達と遊びに行ったことがある」と、 教えてくれたところを見ると、ここが周辺の村々のピクニックコースであることがすぐに判る。 車で小川に沿って深く入って行って村の前まで行った。昔の城があるというので村の名前までが古城里という。 小川で洗濯をするおばさんに聞くと、北側の山のある地点を教えてくれた。登って行くと、そこに城壁を見ることが出来、 案内人も必要ないという。意外に凄い高句麗山城に出会ったようだ。

鳳凰城は高句麗の烏骨城

鳳凰城は高句麗時代には烏骨城と呼ばれた。鳳凰山の最高峰は、雲峰 (836.4m)であり、烏骨城が一目で見下ろせる。この雲峰を頂点として 烏骨城の西壁が広がり、向い側・東大頂子(約800m)の南北に東壁が続く。東大頂子がある山は 高句麗城がある山だというので、高麗城子山と呼ばれる。聳え立つ峰と険しい岩壁が続く険峻な地形が 自然の城をなしており、峰の間に低い地帯には城を築いて鉄のような防衛壁を形成した。

南門入口に立っている
(鳳凰山山城)の表示板

烏骨城の規模は数百個の高句麗山城のうち最大である。最近、現地の専門家が測量した烏骨城の周囲は 15,955mで、およそ16kmである。烏骨城は86区間の石を積み上げた城壁と87区間の天然障壁を構成しており、 石積み城壁の全長は7,525mである。烏骨城の天然の絶壁は高さが50mを越える大型だけでも34区間ある。

烏骨城は鴨緑江以北の計略の中心

鳳凰山に築いた烏骨城は、遼東半島南東部の交通中心地に位置している。烏骨城は西側に 娘娘山城をはじめとする岫厳のいろいろな城を経て安市城に至り、北西には白岩城を経て遼東城と接し、 東側は鴨緑江沿いに泊灼城を経て、中上流にある高句麗の内地に直通することが出来る。 明の遼東志に烏骨城は「10万の兵を収容することが出来る」とあるが、高句麗山城のうち最大規模であり 現在の状況でも最も良好である。烏骨城が位置するところは戦争が頻繁に起こる遼河一帯から比較的遠い。 しかし高句麗の歴史における役割ははっきりしている。645年、唐の李世勣の軍が白岩城を攻撃した時、 烏骨城から軍隊を送って助け、648年、唐の薛萬徹が泊灼城を攻め包囲した時、高句麗は将軍・高文を送って 烏骨城と安市城のようないろいろな城の軍3万余りを従えて来て助けた。このように烏骨城が その当時、周囲の城を支援したところだけを見ても、高句麗がここを鴨緑江以北の土地を計略するセンターとして 軍を養成して戦力を蓄えたことが判る。烏骨城は唐の太宗が高句麗を侵略した時も重要な攻撃対象として登場する。 唐の太宗が安市城を何度も攻撃して落とせなかったが、太宗に降伏した高延壽が、「烏骨城の兵は老けて 城をしっかりとは守れないだろうから、この城の物資と食糧を奪い、平壌に前進しよう」と建議した。 しかし建安城と新城にある10万の兵力と安市城の兵力が退路を断って後ろから攻撃して来るのが恐ろしく、 烏骨城を攻めることが出来ずに結局、安市城で敗れて帰った。ここで烏骨城は鴨緑江以北では平壌へ行く 良い道であることがよく判る。

鳳凰城は安市城ではない。

北朝鮮の学者達(チェ・ヒグク、チョン・ジュンヒョン)は、鳳凰城こそ丸都山城であると主張する。 三国史記で209年に「王は都を丸都に移した」とあり、この丸都が丸都山城だというのだ。後に首都を現在の 平壌に移してからも、鳳凰城を副首都として戦争が起これば国王が直接この城に出て指揮を執り、丘倹や慕容氏が攻めて来た 丸都山城もまさにこの鳳凰城だという主張である。一方、三国史記地理志に「安市城は昔の安市忽である。あるいは丸都 城と呼ばれた」となっており、三国遺事 王暦に「壬寅8月に安市城に首都を移したが、それが丸都城だ」という記録を もとに、丸都、即ち安市城が一時高句麗の首都であり、丸都、安市こそが今の鳳凰城であるという論理も加わる。 鳳凰城が安市城であるという主張は、洪大容の湛軒書や李翊の星湖新説類選にも出ているが、 230年余り前にここを通った燕巌は、該博な歴史知識を利用して鳳凰城は安市城ではないということを明らかにしている。 「そもそもこの城を安市だとするのは間違いである。唐書に安市城は平壌から500里であり、鳳凰城はまた王倹城だという。 地志には鳳凰城を平壌だと書いてあるが、何を言っているのか分からない。また地志に昔の安市城は蓋平県の東北70里にあるという が、およそ蓋平県から東に水巌河までが300里、水巌河からさらに東側へ200里行くと鳳凰城だ。 もし鳳凰城が昔の平壌だとしたら、唐書にいわば500里というあるのと附合する。」唐書の記録のために理解を間違えている と指摘し。同じ唐書でも地理を専門に記述した地誌にて、安市城が蓋平県付近にあるとして、鳳凰城から西に500里行けば 安市城があるというから、鳳凰城が安市城であるはずがないことをはっきりさせている。

烏骨城のライラック(丁香花)

「ライラックではないか?」北側の城門から東側に上り撮影して、北東の角に望台を写し、東側に続く城壁を写そうとして見つけた花である。 目を疑った。ライラックを山で見つけたのは初めてだからだ。率直に言って、鳳凰山でライラックを見るまでは 「ライラックは西洋から入って来た花」と思っていた。それが意外にも高句麗山城でライラックを見つけたのである。 「ススコッタリ」この美しい名前がライラックを指す純粋な韓国語であることを知ったのは、それよりずっと後のことだった。 講義の途中、鳳凰山に咲いたライラックをスライドで見せて、韓国語の名前が判らないというと、受講生の一人が、 「ススコッタリ」だと教えてくれた。5月11日、山裾の東側の城壁に咲いたライラックは、女性的には見えなかった。 筆者が数多くの山に登り高句麗山城を探したが、ここ鳳凰城でのみ見たためだ。その後中国人が書いた「烏骨城考」 という論文に「烏骨城の上の丁香花」という節を設け、特別にススコッタリを扱ったのを見て驚いた。この一帯の ライラックは、その香りが何里にも飛び散る。我々が烏骨城を考古学調査する時、ちょうどライラックが満開の季節に出会った。 胸の中に入って来る香りは、我々が調査する全過程の間、続いていた。烏骨城のライラックは普通の花と異なる。この城と 特別に近いものに見える。烏骨城の内外に、この花はそれほど多くはない。ライラックは城壁が走る方向に沿って咲いているのだ。 城壁が続くところに花も付いて行く。我々が森の中で城壁を探して城の痕跡を見失い、方向が判らなくなった時、ライラック さえ見つければ必ずまた城壁を探すことが出来た。烏骨城のライラックは決して偶然のものではなく、ライラックと人の 培育が直接関係があり、人が何らかの意図で植えたものだと断言出来る。5月の早春(満州は5月が早春である)、筆者に香りと 感動を与えてくれたライラックは中国人の発掘者が極めて異例的に学術論文に一節を割くほどに深い感動を与えたものだった。 千年前の高句麗の魂を込めたライラックは何となくひっそりと秘めた事実を語ってくれているようで、なかなかその場を離れる気にはなれなかった。

再び行ってみた鳳凰山城、珍しい縁

1994年8月17日の早朝、筆者は再び鳳凰山城を訪ねた。 「高句麗特別大展」に書く鳳凰山城を写真に写すためである。古城里に着いてすぐ、村の前で話をしていた石氏という人物が 案内を引き受けてくれた。石氏の18歳の末息子まで併せて総勢6名で登山を始めた。村人達と一緒に行くと、やはり多くの事実を 新しく聞くことが出来た。12時半に下り、食事のために石氏の家に入ると、昼食の準備をしていた夫人がすぐに私を見付けた。 まさしく、昨年来た時に道を教えてくれたおばさんだった。凄い因縁である。たまご和えもの, きゅうり和えもの, 茄子のように、主に農村で出るものだけで作った料理だったが、とても気に入った。

ある物を全てあげたいという心遣い
石氏宅での昼食時間

水も冷たいものが美味しく、一袋取ってくれた梨も既に味が乗っていた。 昨晩蒸したトウモロコシをいくつかくれたが、その味も良かった。山から取って来たものも出してくれた。 とにかく、あげられるものは何でも全てあげようという態度である。本当に美味しく、楽しい食事だった。 川べりに流れる冷たい水で気ままに頭を洗い、浸けておいた梨も食べ、今日は完全にピクニックの日だった。 お金を50元渡そうとすると、ビックリしていた。友人の間になぜカネなのかというのだ。「友人の家に遊びに 行く時は、贈り物を買って行かなければならないが、今日は贈り物を買って来なかったから、替わりに贈り物だと思って 受けて下さい」とやっと説得。「今度来るときは、私達の家に来たら山も案内して食事も宿泊も提供する。友人を送ってよこしても同じように対応する」 としっかり言ってくれた。食事を終えて名残惜しそうな夫人と母親を後にして、将台を見物しに行った。将台の上には 昔、淵蓋蘇文が座ったという場所、馬の足跡、小便が流れた跡などがあり、大部分の中国人は、高句麗を倒した将軍・ 薛仁貴の跡だといって笑う。しかし石氏は高句麗の将軍のものだと認めている。

 

 


社団法人 高句麗研究会