遼東地方の高句麗遺跡 (4)
遼東の金剛山、千山

遼陽から千山へ行くために鞍山行きのバスに乗った。高句麗山城を探すことが目的であるが、天下の 名山という千山があるところをそのまま通り過ぎることも出来ず、久しぶりに秀麗な景観を見て休息する余裕も欲しいと 思ったのである。鞍山に3時半頃到着、鞍山駅前は北京や瀋陽よりもっと複雑なようだった。バス、タクシー、電車など 全てがここに集まっては出て行く。千山は鞍山から南東に25kmしか離れていない近いところで、乗合車に乗れば30分しかかからないが、 市内バスに乗ると1時間以上かかる。5月7日の朝8時を過ぎて千山見物に出た。入口にとても雄壮な門を建て、入場料を取っている。 門に入ってすぐ右側に立っている案内板を見ると、大きな案内板の横にもう一つ小さな案内板があった。「唐代の古城案内図」 私は突然目を見開いた。唐代というなら、高句麗の時であり、唐がここに城を建てた記録がないので、もしその古城が本当に 唐の時代のものであるなら、高句麗の城に間違いないからである。これまで集めた資料には、千山に高句麗山城がある という記録はなかった。それが、古城があって、それも唐代だというなら、これは何という幸運か。まるで物見遊山において 大きな宝物を見つけたように嬉しかった。

古唐の古城は高句麗の山城だ

最初に行き止まりになるところまで行くと、古道関という大きな門が立っており、表示板には「唐の太宗がが高句麗を攻めた時、 ここを通じて入った」と記録されている。その周囲には、唐代の古城についての写真宣伝板が立っていたが、 最初に目に飛び込んで来たのは安市城の戦いで唐軍が高句麗を痛快に打ち破る写真(絵を撮影した写真)と、それに対する説明であり、 続いて当時、唐の大将であった薛仁貴を英雄扱いするものが大部分である。「ここがまさに歴史歪曲の現場だなあ」と思い、 一度徹底的に調べて見ることにした。「唐代の古城」と書いてある入口を過ぎ、険しい道をずっと登ると、入場料を3元徴収している。 ここまで来て見ないわけにも行かず、大部分は入場するが、若者達の何名かは舌打ちして引き返してしまった。 まず、唐の太宗が水を飲んだという井戸があった(表示板が立っている)が、水はなく、ゴミばかりが一杯入っている。 新しく築いた石台の上には中国式の城が作ってあるが、まるで三国志に出て来る平地城を山頂に建てたような不自然なものだった。 城内に入る門の上においた3つの石には、正真正銘の昔の城門であるという説明とともに「昔の古城があったところ」という 表示板が立てられている。高句麗の城か唐が建てた城かという議論は後にするとしても、千山に古代の城壁が残っているということ自体が 誠に新しい発見である。

商人達の歴史商売

1992年に新しく建てた中国式の要塞を見ると、まず真ん中の門を開いて 薛仁貴が唐の太宗に謁見している場面が再現されており、その横の門に入ると、両横と後ろ全てに薛仁貴を英雄扱いする 絵が並んでいる。薛仁貴が生まれる伝説から、幼い頃の武勇伝、戦争勝利談が神話のように続き、結局安市城の戦いの 現場模型で終わる話である。薛仁貴の個人像を作って置いてあるが、その目は本物の人間の目であるというのが案内嬢 の説明だ。本物か偽者かは知らないが、「目が薛仁貴本人のものだ」と言わなかっただけ幸いだ。出口に作り置かれた 安市城の戦いの模型を見ると、唐軍が疾風のように攻め、高句麗を滅ぼす場面である。唐の太宗が遠くの山から 眺める中、薛仁貴が城門を壊して入って行こうとしており、

要塞の中の人形。唐太宗に礼をする薛仁貴

白い甲冑を着た高句麗の将軍も走っていたが、高句麗軍はいずれも支離滅裂な状態に描かれていた。 特殊音響効果まで作って聞かせていたが、幸いにも今日は停電なので聞こえず、絵や説明も詳しく見ることが出来なかった。 手前の二つの絵を照らしながら説明するところを録画しようと思ったが、案内員に制止された。城を出て後ろの山に登ると、 頂上で薛仁貴が刀を抜いて口頭で指揮する石像が建てられていた。全てが自然保護に徹底して違反することばかりであったが、 現在、中国で進行中の下海(安定した国営企業を捨て、金儲けに飛び出すこと)と平仄を合わせるが如く、徹底して 商業的に運営されている。僅か1年前に莫大なカネを投入して建てた要塞の建物は、客引きのために、山が立ち去るように 音楽をつける。停電になると発電機を取り付けて歌を流しているが、これはもはや到底聞いていられない騒音公害である。 発電機がしばしば止まり、静かになることが多かったのは幸いだったが、何とも鬱陶しい踏査であった。

歴史歪曲の現場

薛仁貴が戦争を終えて高句麗の地に残っていた期間は、長くてもせいぜい30年である。30年後には高句麗の後裔達が 渤海を建国し、唐は完全に撤収する。30年といっても戦争の後処理をしたり、高句麗人の独立運動を防いだりで、 城を建てる時間も余裕もなかった。安市城は唐の太宗が目に矢を受けて逃げた現場ではないのか。それがここでは完全に逆の 歴史を見ているのだ。668年、高句麗が滅亡した後にも安市城は引き続き唐に抵抗し、3年後の671年7月にはじめて 城を明け渡すほどに、最期まで戦った朝鮮民族の自尊心である。しかし結局は高句麗が滅びたという歴史的事実のために、 最期の勝利場面だけを以って、全ての歴史を叙述しているのは如何なものだろうか?今、征服者達が徹底して消し去った 歴史的事実を蘇らせることが我々歴史家達の任務である。唐が30年も守れなかったこの土地に、700年以上も住んで来た 我々の先祖達の足跡を探し、高句麗の武人達の勝利と武勇談を蘇らせる時が来たのである。そのために、千山で起きている 歴史歪曲の現場は我々が避けるべきではなく、必ず行かなければならない所だ。若者達を出来る限り多く送り、現場実習の場 にしてはどうかと思う。

- 続く-

 

社団法人 高句麗研究会