遼東地方の高句麗遺跡 (5)
安市城を訪ねる

「さて、今から安市城へ行くんだ」筆者が海城を次なる目的地に選んだのは、まさに海城に 我々の最大の関心事である安市城があるためである。海城から7kmのところにある入り口には、 英城子村という表示板があり、初めて来た人でも容易に探せる。村とは言っても100戸を越える大きな村である。 英城子村はもともと高麗営城子と呼んだという。即ち高句麗の兵営があった城という意味で、遼寧省で 高句麗という意味を持つ「高麗」を除いて「営城子」と表記し、「営」の字が「英」に誤って伝えられて現在の名になったという。(遼寧史跡資料57ページ) 運転手はソ連製という車で城内に入り、道が途切れる山の中腹まで連れて行ってくれた。


安市城

そこかしこでリンゴの木を手入れしていた人々が、手を休めて見知らぬ人々を眺める。 ある若者が声をかけて来た。「どこから来たの?」「カメラ見せて」「中国語できるの?」などと、好奇心は旺盛である。

 

トラジ畑から高句麗の瓦

「あそこが頂上ですよ」向い側で仕事をしていた老人が、聞きもしないのに親切に教えてくれる。 見ると、右側の山頂だった。中国人達がいう頂上とは将台のことで、城内で史記する武人が 上って命令する台のことである。まず将台に上ってみることにした。将台がある山頂には畑を作り、 トラジが植えてあった。ちょうどそこで瓦を発見した。丸都山城で見た赤褐色の高句麗瓦であることは明らかである。 碁盤柄や腰繩柄など一目で高句麗式と判る。安市城が高句麗山城であることを自分の目で直接確認出来て嬉しかった。 山城は自然な稜線に沿って土で築いた土城だが、周囲の全長が4kmで、東西南北にそれぞれ一つづつの門がある。 城内では、高句麗の城であることを証明するいろいろな遺物が何年にもわたって出土しているという。 高句麗の瓦片は、筆者でも簡単に見つけられるほどだったし、陶器のような土器破片、刀、矢尻、 石砲弾のようなものが沢山出たという。

   
安市城の築山作戦

記録によると、城跡の南東コーナー外側に人工的に積んだ小さな土山があるという。将台から見ると、まさに外側である。 この土城は、安市城についての史料の記録と一致する。645年、軍隊を直接率いて攻めて来た唐の太宗は、 死に物狂いになって全力で守っている安市城を簡単には陥落出来ず、新しい戦闘方法を採択した。安市城の 城郭の高さとほぼ同じ規模の土城を築いた後、少しづつ城壁に近づき、軍隊が一度に城内に突入出来る ようにするという攻撃である。60日間、のべ60万名を動員して安市城の南東方角に積んだ土城は、 城内を見下ろせるほどに城に接近した。安市城の高句麗人達もこれに対抗し、唐軍の土城の高さに合わせて 城壁を高くし、東軍が城内を覗き見出来ないようにした。このように両軍が競争して土城と城壁を高くして行った。 そのうちある日、突然に土城が崩れ、その影響で安市城の南東の城壁の一部も崩れた。この隙をついて 高句麗軍数百名が崩れた部分から出て行って戦い、土城を守っていた唐軍を撃滅し、あっという間に土城を占領してしまった。 唐軍が莫大な時間と人力を投入して構築した土城が瞬時にして高句麗のものになり、逆に唐軍の動きを監視する 高句麗軍の防塁になってしまったのだ。頭に血が上った唐の太宗は、責任者の首をはね、軍に命じて城を攻撃させた。 唐軍が総力を挙げて3日間攻撃したが、莫大な人員と装備ばかりが損失し、結局土城を奪還出来なかった。 9月18日、ついに太宗は撤収を命じた。

唐の従軍記者の記録

中国側の文献には唐太宗の敗戦を隠す出鱈目な記録が多い。その極致が太宗の撤収場面である。 「軍を安市城の下に集め、旗をふるいながら去ったら城の内からは皆影をひそめて出なかった。 ただ、城主だけは城に登って額づいてお別れをした。皇帝におかれては彼が城をしっかりと守っている ことを殊勝に思し召され、絹100巻を与え、仕える者達を激励なさった。」戦いに敗れて逃げ帰る唐の太宗に安市城の城主が額づき、 太宗が絹を与えて敵軍の王にしっかりと仕えよと命じたという描写は、全く漫才もいいところである。 太宗が安市城から退却して3日後に慌てて遼河を渡り撤退した後、高句麗への侵攻を大変後悔したという点から 推し量るに、唐軍は間違いなく大敗したのであろう。三国史記にて高句麗と唐の戦争記事を読むと、 まるで唐の従軍記者が、それも御用記者が書いた記事を読むようで、腹が痛い。

唐の太宗は帝位簒奪者

唐の太宗が高句麗を攻めるのに使った名分は、「高句麗の淵蓋蘇文が主君を殺し、百姓達を迫害しているというが、人間の道理として、 このような者をそのままにしておけるか」であった。しかし唐の太宗こそが人間の道理をわきまえぬ代表のようなものだ。 唐の建国者である父・李淵は、隋の王室から受けた唐国公という職位においてクーデターを起こし、国を奪い取った。 李淵の次男で、皇帝にはなれない太宗・李世民は、皇太子である長男の李建成の一派を除去し、帝位を簒奪する。 これが有名な「玄武門の変」である。こんな破倫的な唐の太宗に対して、金富軾が三国史記に記録した賛嘆は優にきらめき輝いて美しい。

「唐の太宗は善良で明哲な不世出の主君である。 乱を平定したのは湯と武王に比べられるほどで、理に通じる点は成王・康王と似ているし、兵法では奇妙な戦術が 無限に出て来るし、向かうところ敵なしであった。しかし東方征伐の功が安市城で潰えたわけで、その城主はいかにも 物凄い豪傑だと言ってよかろう。しかし史記は彼の盛名を書いていない。これは楊子がいわゆる"能ある者は歴史に名を残さない" としていることに相違ない。とても残念なことだ。」

金富軾が唐の高祖と太宗の謀略を知らなかったはずがないが、 歴史家として峻厳な批判が出来ないばかりか、彼を不世出の主君と賞賛しているところを見れば、情けない気がする。 当時、城主であった梁萬春が唐太宗の目を矢で射抜き、太宗が片目を失って敗走したという話が高麗後期の文献に伝わっている。 それが三国史記には、引き返す際に額づいた城主に対して城をしっかり守っていることに感服して絹100巻を与えて行ったと 書いてある。目を射抜かれた人がいかにして絹まで渡して行くのか。中国が皇帝を守るために使った美辞麗句を 敵国のわが国でそのまま伝えるということこそ、事大の極致ではあるまいか。

 

千年生きて来た安市城のなつめの木

将台から東側の城壁に沿って北側を過ぎ、最初に入った城門のところへ戻ることにして、将台を出発した。 東壁に沿って将台を降りて来ると、後ろに壊れた門があり、壊れそうな門も沢山ある。ここがまさに東門である。 東壁に沿って北側へ歩き始めた。通常、山城を踏査する時は、城壁の上に出来ている道に沿って歩くのが一番楽である。 いかに険しい地形に築いたとしても、城壁に沿って歩けば疲れないということを山城踏査をしながら体得したのである。 この城はまだ草が大きくなっていないので、ちょっと見ると簡単に歩けそうだったが、城壁の上を歩くと楽ではなかった。なつめの木、アカシア の木が道を塞ぎ、名前のわからぬある木は指ほどの長さのあるトゲを持ち、道をさらに進みにくくしていた。 風霜に苦しみ大きく育つことが出来ずにちんちくりんになってもしっかりと堪えながら生きているなつめの木が印象的だった。 この山頂まで来てなつめの木を植えた人はまずいないだろうし、自然に生えて育ち、千年、いや数千年もの間生きて来た 野生のなつめの木こそが、安市城の戦いをはじめ、数多くの安市城の哀歓をひっそりと見つめて来た証人である。 東壁の中間を過ぎ、また越えなければならないところがあり、底が岩になっている広く平らなところがあり、 建物や他の将台があったのではないかと思った。北壁を降りて来るのに1時間以上かかった。海城駅に戻ったら5時を少し過ぎていた。 車が遅れて来たので、7時20分頃に蓋県に戻った。

- 続く-


社団法人 高句麗研究会