遼東地方の高句麗遺跡 (10)

桑なしで育つ蚕

1994年8月19日、今年に入って既に4度目の中国東北地方を訪問し、 満州地域にある高句麗山城を探し回っている。今回の踏査では、遼東地方を集中的に踏査しているが、今回計画された 日程もそろそろ終わりに近づいた。岫厳県のある田舎の旅館、明け方5時に起き、朝の瞑想を終えて昨日踏査した山城について記録を作成しているが、 6時頃、一緒に回っている朝鮮族の青年クァン・ヒ君が戻って来て山に登ろうという。瀋陽空港を出た初日から 10日間毎日登った山、もはや私が起さなくても自ら進んで早起きする。外に出て最初にしなければならないのは、 高句麗山城の位置を知る現地案内員を探すことである。今日もいつもと同じく、簡単に探し出した。クァン・ヒが旅館のすぐ前で父子で作業をしている老人 に少し話しをしたところ、鄒さんという74歳の老人が協力してくれるという。10日間も田舎を渡り歩き、山城を知っている案内人を探し出すクァン・ヒの実力は 驚くばかりである。会う人ごとに皆大声で声をかける力強い鄒さんは、その声ほどに軽く山を登る。 韓国から買って来た 7万ウォンの登山靴も、お爺さんがはいている何千ウォンの長靴に歯が立たず、 露に濡れて靴下までビッショリ濡れて来て不便なことこの上ない。山の上ではあちこちで蚕が飼われているが、桑の 葉で育てているのではない。クヌギを植えて、苗のうちに先端を千切って横に低く育つようにした後、 その木の葉に乗せ、蚕がその葉をかじって育つようにする珍しい方法だ。山城の中が全て蚕畑で、 えさは桑ではなく、楢柏葉だ。桑の葉を使うという概念もない。蚕が周囲の葉を全て食べてしまえば、蚕が付いている 枝を折ってカゴに入れ、他の木に移せばよい。私たちは「蚕は桑を食べて育つ」とよくいうが、そうではない。 世の中を広く回ってみると、我々が常識と思っていたことが全くの間違いであることに気付くことが多い。

淵蓋蘇文の烽火

鄒さんが案内する城壁は、全て土で築いた土城である。城壁の姿が 比較的完全に残っており、蚕畑なので大きな木がなく、小さな木ばかりで簡単に城の規模を確認出来た。 大きな渓谷の尾根に沿って築いた山城で、城壁の両側に馬が走れる道が続いているのが実に特異だった。 「ここで蓋蘇文が烽火を上げた」聞きもしないのに歴史の話が出て、驚いた。蓋蘇文とは淵蓋蘇文のことである。 唐の太宗の父の名が「淵」であるため、中国の史書では淵蓋蘇文を「淵」という姓を外して蓋蘇文と呼ぶのである。 中国の山間僻地で夜明けに偶然に会った一老人から淵蓋蘇文の行跡を聞き、ここが明らかに高句麗の山城であるという 確信を持った。この老人はただ昔から伝えられる話を伝えただけであるが、それだけに信憑性がある。 「どこへ行っても淵蓋蘇文の神話はこんなに根強く残っているのに、我々は三国史記の記録だけをもって王 を殺した悪人とだけ見ているが、これは正しい歴史評価なのか?」という思いが起こってくる。ここでも そこかしこ、虫に刺された。刺されるたびに赤く腫上がり、最初はすごく痛く、やがて痒くなる。 刺された時は一瞬、虫を恨みもするが、考えてみると虫が悪いわけではない。 普通に生活している虫を私が邪魔したからそうなったのだ。土城をぐるっと回って下りて来ると7時40分、郵便局へ行き、 電話しようとすると、磁石式電話機の受話器をとって電話局に申請しろという。申請したが、いくら待っても連絡が来ない。 結局諦めた。国際電話はもちろん、市外電話もこのように難しいのが農村の現実である。都市と農村間の経済的格差が いかに大きいかを実感する瞬間だ。ちょうど旅館の横にマーケットが開き、ブドウ、桃などの果物を沢山買った。

高句麗山城に行くムクゲの道

朝食をして9時に出発、11時40分頃、庄河に着くと黄河が見える。山間ばかり探し回り、久しぶりに開けた海を見ると 胸がさっぱりする。我々は庄河にとどまらず、そのまま市内を抜けて北西に走った。今日の二つ目の目標である旋城を 訪ねるためだ。庄河から西側へ大連へ行く大道を行き、平山郷から右側に曲がり、5km走ると商店が一つあり、ここでまた 左に曲がり田舎道を2kmほど行くと、旋城村に至る。村で探した王金祥という48歳の中国人は、日中なのに顔が薄赤く酒に酔っていたが、 ここの事情についてだけは精通している。王氏はよく喋ったが、山によく登るので知っていることも多く、 我々には最高の案内人だった。山城がある頂上に登る道は、案外良かった。1988年から公園を造るため、平山公社で30万元 を投入して3ヶ月間の工事をしたためである。しかし観光地を作っても、観光客を誘致することにはあまり成功しなかったようである。 まっすぐに綺麗に磨いた道は雨に洗われ損壊した部分が多く、手入れもせずに長い間放置していたことがすぐにわかる。 「ムクゲ、ムクゲ、わが国のムクゲ」道端に街路樹のように植えたムクゲの木には、ちょうど健康的で華麗な花が満開で、 踏査に疲れた旅人を力づけてくれた。しかしこの歌詞を心の中では歌ったものの、外には出さなかった。8月の猛暑 の下、山に登るのは簡単なことではない。あまりにも暑くて王氏の麦藁帽を借りて使ったが、帽子が小さくてしきりに 風に飛ばされる。まっすぐな道が終わる地点から左に曲がると、すぐ頭上に山城が見える。山城を見た筆者は、 その瞬間、暑さを忘れ、新しい道を見つけてすぐに登ったが、山城を見てひどく失望した。 全てが観光地として新しく作られた城壁ばかりだったからだ。ぐるりと回って、やっと昔の跡の痕跡を探し出したが、昔の城 の築城方法を知るには、あまりにも徹底的に破壊されていた。新しい城を築きつつ、もともとの城壁から少し積み上げた ところを見ると、専門家の考証を得て昔の山城を再現しようという意志は全くなく、ただ観光地の見所を造るために 誠意なく築いたものであることがすぐにわかった。しかし新しく築いた石は全て昔の高句麗城に使われていた石 だというから、全く残念なことだ。こうして、観光地という名目で高句麗山城の一つがまた消えてしまったのだ。 登るのは難しかったが、山城に登り東側を見ると、ずっと開けた風景が本当に美しかった。山の麓に貯水池が涼しげに 広がり、広い平野をゆったりと流れている三叉河の向こうには旋馬山があり、そこは公園であるが、高句麗山城を 原型に近く復元していたらどんなに良かったことかという思いを消し去ることが出来ない。

城山へ行く道

平山郷旋城村にある山城を踏査し、午後3時になった。ついでなので 城山山城まで行くことにした。筆者が探し回っている高句麗山城についての記録は、住所しか書いてないので、 訪ね行く先々で出会うこと全てが新しい。今回行く城山山城に関する情報も庄河県、城山郷、沙河村 萬徳屯 という住所が全てである。庄河から大連に行く大道を走ると明陽というところに出て、ここから北に曲がってしばらく行くと、 城山郷に着いた。城山郷所在地の集落が終わる地点で左に回った田舎道は、かなり綺麗にされていたが、 最後の萬徳屯で橋が壊れ、それ以上進めなかった。今回の洪水で流失したところが多い。こんな場合、中国の運転手達は それ以上行こうとはしない。しかし今回引き受けてくれたキム・ヨンビン氏は、本人が言い張ってとうとうこの難しい道を渡った。 彼も檀君の後裔・朝鮮族だからだ。思ったより時間がかかり、ごご5時になって城山に到着した。 最後の村を過ぎて北側に山道を走って上がって行くと、雄大に建てられた中国式の城門があった。高句麗 山城になぜ中国式の城門が?細菌、入り口を塞いで入場料を取るため、中国人が建てた建物で、 1993年から高句麗山城があるここを観光地として開発し、94年5月18日から一人5元づつ取っている。入場料を 払って少し登ると、臨時に建てたものであるが、宿所と食堂がある。まず部屋を予約し、中外合作( 中国と外国の資本合作)開発会社の社長とともに車で城内に入った。まだ道を直しているところなのでダメかと思ったが、 経済学者という筆者の名刺を見た社長は喜んで同行してくれた。韓国の資本が開発に参加してくれることを望んでおられるようだった。

海岸防衛の要地、高句麗石城

我々が辿り付いた南門入り口には文化財管理局で立てた表示板があり、その表示板には「石城」 という名前が刻まれている。高句麗時代の石城であるという表示だ。高句麗の石城は三国史記や中国の史書に はっきり出ている高句麗の城である。674年、第1次の高句麗侵略に大軍を率いて来て失敗した唐の太宗は、 再度高句麗を侵略する計画を立てる。この時、大方の論議は「高句麗は山に城を作ったので、早期に陥落させることは出来ない」 というもので、皇帝が大軍を率いて直接攻めるのは危険なので、小さな軍をもって突き、高句麗の国内情勢を 混乱させる作戦を立てた。

今もし僅かな軍勢をしばしば送り、その領域を交互に侵略し、彼を防御に疲れさせ、 隙を見て戦場に出るようにしたら、数年内に千里の平野は静かになるはずであり、 民心は自然に離反するはずだか、そうになれば鴨緑江以北は戦わずして奪うことができるでしょう。

高句麗を侵略する時、陸軍と海軍に分けて攻撃した。

皇帝がこれに従い、左武衛大将軍の牛進達を丘道行軍大ハ管に任じ、牛武衛将軍が海岸補佐官を務め、 1万名余りの軍勢を出動させ、軍船に乗って莱州から海路進撃し、また太子・事・李世勣を遼東道行軍大ハ管 に任じ、牛武衛将軍の孫などを補佐官とし、3000名の軍勢を送り、営州都督府の軍とともに新城から進撃した。 この2つの部隊にはいずれも水戦に慣れ、戦闘に優れた者を選抜して配属させた。7月、牛進達、李海岸などが 高句麗国境を越え、100度余り戦った。彼らは石城を撃破し、積利城の下にまで進撃して来た。高句麗軍1万名余りが 出て戦った。しかし李海岸の攻撃により高句麗軍が敗北、死亡した高句麗兵は3000名余りであった。 太宗は宋州の王波利などに命じ、江南12州の職人達を徴集して大型船数百隻を作り、高句麗を攻撃させた。 当時、唐の混乱作戦に参加して海軍を指揮した牛進達と李海岸が山東半島にある莱州を出て、遼東半島に 上陸した地点こそが、石城から近いところにあるということで、この時に牛進達と李海岸が上陸して 高句麗軍と100回余りも戦った後、石城を作ったことが判る。659年、唐の薛仁貴が攻めて来て高句麗の大将・ 温沙門と戦ったところもまさにこの石城である。奉天通志によれば、石城は淵蓋蘇文が築いたという。 ほぼ山頂に近いところにある道教寺院まで登った後、山頂へ登ると、山城の北側の姿が一目で見える。 残っている状態も完璧だが、城の規模も大きかった。日が沈むまでずっと撮影し、ほぼ満月になった月の光を 受けて8時になってから下山した。ここは既に観光地の形態になっていて、騒がしくなり始めている。朝食を終えてから 工事の責任者がここを開発するために山城の構造を把握した地図を見ながらいろいろ説明してくれた。 韓国からも投資が可能であるとのことだ。筆者は投資は二の次で、何よりも石城について詳細に作成した地図が欲しかった。 学者達が調査して作成した概念図よりも、はるかに詳しい設計図であるため、この地図一枚あれば、石城の構造 を正確に把握出来るためだ。まず、地図を一枚コピーしてほしいというと、明日市内でコピーして来ると約束した。 11時頃、疲れた体を安っぽい臨時宿所のベッドに横たえて眠りについた。この日はとても疲れ、虫に刺された ところもとても痒かった。

鴨緑江以北で最もよく保存された高句麗山城

8月20日(土)、朝早く起きて向こう側の山に登って写真を撮ろう かどうしようかと迷い、結局やめたが、それがここでもう一日逗留することになるきっかけになった。 もともとの日程に従えば今日の朝、向こうの山に登って全体写真を写した後、ここを発つことになっていたが、 いくら考えてもこの山城はもう一日残ってじっくりと調べ、写真も完全に写さなければならないと思い、日程を変更した。 7時30分に登り始め、1時30分まで6時間にわたり、山城全体を撮影した。暑い日差しに耐えられず、大きな傘で ある程度直射日光を防いだものの、本当に大変な一日だった。山頂に森が少なく、夏の暑い太陽の下に露出した状態で 大変だったが、その一方で山城のいろいろな構造がそのまま露出し、写真を撮る上ではとてもよい条件だった。 最後には力尽きてレンス一つ替えるにも、アシスタントのジュンファにカメラを渡してしまい、レンズだけ受け取って 嵌めようとするぐらい朦朧としていた。そこでクァンヒ君が病気になった。昨晩遅く酒を飲み、夜更かししたということもあったが、 やはり無理な日程のためである。そのためにジュンファとチヨンが苦労させられた。チヨンはまだ若かったが、 夜は早く寝るためいつも健康だった。最初から最後までカメラの三脚を持って歩く仕事をしっかりとやった。 城山山城は本当にすごい城で、保存状態も良かった。城山は北西が高く、南東が低かった。南東の城壁には、 二つの門があり、現地では正門と呼ぶ南門を見てから来たに1500mほど行くと、東門がある。正門や東門が 比較的当時の城門の構造がよく判るほどに良く保存されていた。鴨緑江以北の高句麗山城の中では、西豊の 城子山山城とともに高句麗の山城の城門を観察出来る非常に貴重な現場である。二つの門にはいずれも焼けた ところがあり、戦争において火攻めにあったことが判る。南門から道が二つに分かれるが、東に行くと 東門を過ぎて牙城と将台がある方に行き、左側を引続き登って行くと、池がある。長さ7m、幅5m、深さ3mという 相当に大きな貯水池で、ここが当時城内に住んでいた農民や馬の水源になったのだ。現地からは罪を犯した兵士 を閉じ込めて処罰するところだという。そのまま続く寺院へと登る道に沿って少し行くと、内門があるが、内門は正式の門 ではなく、秘密裏に敵を討ったり、撤収する時に使う非常門である。西側の内門周囲には、高句麗の築城法がよく判る 場所が多い。前門はもちろんのこと、絶壁に絶妙に築き上げた城壁、特に大きな岩をそのまま置き、築き上げた 築城法をよく見ることが出来る。

旗台峰 - 現地の人々はここに将軍が旗を刺すために石で築いたものだというが、よく見ると隅に段があって石が倒れている姿がまるで石積墓のようだった。

 

天壇 - 江華島摩尼山にある 天壇とあまりにも似ており、雰囲気が同じである。

 

淵蓋蘇文が築いた前城と後城

前門付近で城壁に沿って登り、見下ろした景色は本当に壮観だった。はるかに碧流河が悠々と流れ、城山山城 から流れる夾河が碧流河に注ぐ姿が地図を見るように一目で見える。白雲台の頂上に上ったように奇妙な形の岩 を見下ろすと、景色に見惚れて時間が経つのを忘れるほどである。ここで急に曲がる城壁に沿って傾斜が若干きつくなる道を登ると、、そこが現地で 旗台峰と呼ばれるところに着く。現地の人々は、ここに将軍が旗を立てるために石で築いたものだというが、 よく見ると隅に段があり、石が倒れている姿がまるで石積墓のようだった。 こんな施設は、他の高句麗山城では 見られないものなので、もう少し詳しく調査してみる必要があるところである。旗台峰を過ぎて北側の渓谷の 壮快なパノラマが胸に迫る。「渓谷の向こうの山をよく見て下さい。あそこにも高句麗の山城があります。」もし案内人が教えてくれなければ、そのまま通り過ぎて しまうところだった。詳しく見ると、しっかり築かれた城壁が限りなく続いている。城山は前城と後城に分かれるが、 前城は長さが2,878mで城児山もしくは紅赤山と呼ばれる山の上にあり、北西側の城壁の下に渓谷の向こうにそびえている岩山 の上に後城がある。子山の上にあり、子 とは、中国語で絶壁という意味である。5,000mにもなる大きな城で、直接行けずに遠くから眺めるだけであったが、山頂にはてしなく続く城壁がはっきり見える ほどに、まだしっかりと保存されている。現地の伝説によると、淵蓋蘇文が後城を完成するまでに侵略され、唐に敗れたという。 言い換えると、唐が攻めて来る前に後城を完成していれば、唐を撃退することが出来たのかも知れない。

 

あ、天壇だ

旗台峰から北西側の城壁に沿って400mほど行くと、とても綺麗に作られた四角い段がある。筆者はこの段を見た時、「天壇だ」と思わずつぶやいた。 江華島の摩尼山にある天壇とあまりにも似ていて、雰囲気が同じであるためだ。現地の案内書には淵蓋蘇文の 妹が住んでいたところだとあったが、どうみてもここは人が住んでいたところではない。位置からみてもてっぺんの 形から見ても、天に祭祀を捧げる天壇に見えた。

高句麗は城に東明神(建国の祖・朱蒙の神)を招いたという記録があり、広開土王碑に東明は「皇天の子」「天帝の子」と信じたとあり、 山の上の高いところに神壇を造って迎え入れ、祭祀を執り行ったであろう。天壇に上がって見ると、城の中が全て見え、前後が開け、 それこそ天壇である。片側の長さがおよそ5.5mぐらいの四角で、下の辺は8mほどでさらに広く、上に上がるほど少しづつ小さくなる絶妙な築き方である。 高さは2.5mほどと高くはないが、絶壁がある北側は1m以上さらに下がって築き、基礎工事をしっかりしている。 このような神壇は筆者が今まで100以上の高句麗山城を踏査して、初めて発見したものだ。そのため、この山城は 淵蓋蘇文が直接住んでいたという説が相当に信憑性があり、重要な戦争の時には高句麗の広開土王が居住した可能性もあると思う。

 

淵蓋蘇文の牙城

天壇を出て北側の城壁をたどる道は、楽に行けるように良く出来ている。北西壁の端に着くと、尻尾のように狭い山頂があり、 ここに重要な施設を沢山築造してあった。東側の壁に沿って北側の端からすぐの頂上に牙城、即ち内城の跡がある。 山城全体の周囲に沿って外城を築き、主に山の頂上の高いところに小さな内城を築いたが、ここはこの城で最も地位の高い将軍が 直接居住して守ったため、最も重要だという意味で牙という字を書き、牙城といった。将軍は外城が落ちても最後までこの城を 死守し、救援兵を待つところなので、ここを取られるということは完全な敗北を招くことになるため、こんな場合、 我々がよく言うように「牙城が落ちた」という。現地では、この牙城を中国式に紫禁城と呼び、淵蓋蘇文と彼の妹・ 淵蓋蘇貞が一緒に暮らしたという。牙城の西側には門があり、この門を通して見ると後城とはるかに碧流河が一目で見える。 小さな門だが、東門や南門のようにラッチをかける穴が残っており、高句麗山城の城門を研究する上で大きな資料を提供してくれている。 牙城の北側の一番高いところは烽火台である。四方から伝えられる現場の状況を最終的に受付け、事案による命令を烽火で 知らせるために牙城はまさに横に烽火台を建てたのである。ここで再び北側に見下ろせるところに9mを越える高い将台 を築いた。牙城から将台までは城壁を築いて繋ぎ、人工的に築き上げた高句麗山城の将台の中ではその規模が最大であるといえる。 将台の上の平らな部分の面積も相当に広く、それだけ見てもこの城の規模と位置を知ることが出来る。東門から下りて来ると、 軍の兵営跡の傍の岩の上に人工的に掘った穴が発見されたが、用途は判らなかった。もう少し下りると、完全に近い 雉城が一つあった。詳しく見ると、下の部分は観光地開発のために新しく築かれ、むしろ原型を把握巣上で妨害になる ものであった。東門は左側を丸く突き出すように築き、見張り台のような役割をするようにしてあったが、 ここは南門の右側も同じである。まっすぐになっている時よりも両面から攻撃出来るようにする一種の甕城の原型であるといえる。 ここは高句麗の城壁の外積みについての標本を見ることが出来る。ちょうど味噌玉麹をきちんと積んで上げたように隙間 のない城壁を眺め、「高句麗人達は石を積む魔術師だったんだなあ!」と感嘆せずにはいられなかった。

 

ここでも唐の将軍・薛仁貴の聖域化

城山の山城は鴨緑江以北に残っている高句麗山城のうちでも最も良く保存された山城で、高句麗時代の山城構造を しっかり把握出来る最適の地である。山の名と行政区域の郷の名が「城山」であるほどに、完璧な高句麗の山城が残っている。 食事をして2時30分頃に出発したが、遠くから眺める景色がとても素晴らしいので、全面写真を取らずにはいられず、戻って来た。 3時半頃に戻り、休んだ。実はこの時も休んでいただけでなく、貴重な事業が進んでいた。この時、開発会社から地図を 購入出来たのは大きな収穫だった。地図に出ている観光地造成計画を見ると、城内にホテルや遊興場を作り、しかも山頂 には将軍像を立てるという。将軍像とは、千山で見た薛仁貴の石像のようなものであることは間違いなさそうだ。 となれば、今後、韓国からの観光客達はこの様子を見てどう思うだろうという心配が先に立った。むしろ社会主義や貧しかった時は 手をつけられずにそのまま残っていた高句麗山城を、熱くなった社会主義的資本家達が薛仁貴を英雄化し、金儲けを始める中、 中国東北地方に突然にして薛仁貴が英雄として再登場するのだろう。もちろん城を放置して村の人々が城郭を崩して 家を建ててしまうことよりは、観光地を開発して保存する方がマシかも知れない。しかし問題は昔の城の上に考証もせずに 東屋を作ったり重要な城の上に薛仁貴の銅像を作るなどの、つまらない歴史操作が問題となるのだ。 入場券を受け取る中国式城門の外で、城内全景の撮影をしながら詳しく見ると、中国式城門に翻る旗には全て「薛」の字 が書かれている。まさに高句麗を侵略した薛仁貴の霊気がなびいているのである。高句麗山城に唐の将軍の旗とは? 歴史は最後の勝利者の占有物なのか?さまざまな思いが旅人の心を千々に乱した。

- 続く-

 

 


社団法人 高句麗研究会