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28.内モンゴル自治区 興安盟 札賚特旗 綽勒鎮 鮮光村

情報が遅く、交通不便 '韓国ブーム'の恩恵も見られず


▲ 綽勒鎮朝鮮族中心学校の授業風景。 5〜6年生の合同クラスだが、学生は 6人だけ

道端に人々が集まり、古いトラックと耕運機エンジンの騒音がいかにも創造しい。空と直接触れ合った 果てしなく 荒れて寂しい丘陵が単調につながった内モンゴルの道路の端で、ざわめくように人々生活音がする市場に出会う 感じは、一味違う。 そしてその傍らの、埃深い内モンゴル自治区の不毛で油気のない乾いた土地を濡らし、低い ところを流れる小さな水路が記者の視線を捕らえる。堰の水。人為的に作ったに違いないこの水は、結構たかに 流れながらこの近くに水田を耕作する朝鮮族がいることを教えてくれる。350km離れた綽爾河から流れて来た水は 、綽勒鎮に到着した後、遠く韓半島から生計を求めて来た朝鮮族の農民に小さな水の恵みをもたらしたのだ。

ざわめく市場の煩雑を後にして、しばらく堰の水に沿って行くと、たちどころに優雅で淡白な村が現われる。 札賚特 旗 綽勒鎮 鮮光村。北満州でも奥まった内モンゴル、その内モンゴルでも外郭に隠れている小さな村、鮮光村では 今ちょうど草木に春の日差しが溢れていた。

村の入口の安っぽい田舎学校、鮮光朝鮮族中心学校の廊下に入ると、黒板に '熱烈に韓国記者先生を歓迎'と大 きく書いた文が私たちの一行を感激させる。 たぶん前日に連絡をとった金ジョングン校長(42)のアイデアなんだろ うと思いながら、授業中のある教室へ用心深く入る。定年を控えた康ジョンリョン先生(61)が 6人の 5〜6年生の 子供を教えている最中だった。数学を勉強中のチャン・ボクシルさん(13)は、来年にウランホト朝鮮族中学校に進学 する予定だ。 そうなれば親は 1年に少なくとも 4千〜5千元は新たに負担しなければならない。

一番後の席に無表情に座っている金リョンさん(14)は、9年前に父親と離婚した母親が韓国に嫁いだため、叔母、祖 母と一緒に住んでいる。父親の消息は分からず、母親は 2年前に一度戻って来ただけだ。その間に韓国の弟も二人出来た。

世の中を知らない子供を座らしておいて憂鬱な話をあれこれ問い詰めるわけにも行かない。康先生と教務室に 向かった。すぐ定年を迎える彼は、鮮光村の老人会長も引き受けていて、札賚特旗一帯の朝鮮族の歴史につい ても明るい。

札賚特旗の近隣に朝鮮族村が初めて出現したのは、1919年旧暦 2月。ソウルの金持ちシン・ジェソプが鮮光村か ら60km離れたポアンジョ村の荒れ地を買受けた後、一家を連れて来たのが始めだった。彼ら湿地を選んで農地を 作り、水田農業をした。 農業がよくできるという紹介で、朝鮮人が寄り集まった。 村が大きくなると 26年には学校 も立てた。 ポアンジョのこの学校は 44年まで維持された。

鮮光村には 45年、全羅道農民 500戸が開拓団という名で第一歩を踏み出した。 しかしポアンジョとは違い湿地 もなく、潅漑が出来ず、その年の農業を台無しにして、日本が敗走する中、彼らはバラバラに散らばった。 その次 に群がって来た人々が今の敷地に住む慶尚道出身者たちだ。彼らは当時、ここから 120里離れた曙光村に開拓 団を立てた人々で、水を求めてあちらこちらを彷徨っている途中、全羅道の人々が去った鮮光村に腰を据えるよう になった。彼らは綽爾河の水を揚水機ですくい上げて農業をした。 綽爾河に堰が作られたのは、 57年頃。 金ス ボク鎮長が先に立って綽爾河を阻んだ。今はもちろん自然潅漑施設が揃っていて、農業もするに値する仕事になった。

しかし最近、この村は大きな困難に直面している。 大洪水が起きた 98年を含め、 3年の間梅雨が続き、その 次の 4年の間には日照りの続く自然災害が相次ぎ、農民が困窮したのだ。 低地帯で水田を持つ朝鮮族はそれ でもましな方に属する。 牧畜と乾田を運営するモンゴル族は、動物に食べさせる初志も失って、畑から収穫も出 来なくなった。草がないため、羊の群れと馬、牛が消え、燃料に使うために家の大門と壁に動物の糞を塗っておい たモンゴル族村の珍しい風景も消えた。

引続く水害と日照りで、朝鮮族の中には農業を諦める人が続出した。 彼らの諦めた土地はモンゴル族たちが耕す 。朝鮮族 180戸のうち、農家は60戸にしかならない。


▲ 田に撤く種もみを選んでいる鮮光村の農民


▲ 鳥の尾が切られたニワトリと路地に放し飼いにされた豚

里人たちは多分 10年も経てばこの村が朝鮮族村の姿を失うと考えている。 どこも同じだが、朝鮮族でなければ 稲作は分からなかった、ここ内モンゴルでも、朝鮮族は稲作だけ普及しておいて、既に去って行きつつあるのだ。 "思う存分開拓しておいて出て行き、思う存分教えてくれてから出て行く。 中国で朝鮮の人の功労が本当に大き い"と康先生は皮肉たっぷりに笑う。

このような状況へやって来たのが韓国ブーム。 交通が不便で情報も遅れ、鮮光村には 2000年頃になってよう やく韓国ブームがやって来た。 遅れて来たブームに飛びついても、当然、そのメリットはまともに得られなかった。 韓国へ働きに行った人も少なく、お金を儲けた人はもっと少ない。

村を見回して、老人たちにもちょっと会ってみようといいながら立ち上がろうとすると、康先生がにこりと笑って "トイ レには行かないのか"と問う。 必ずトイレに行かなければならない理由でもあるように…。 訳が分からない記者に、 彼は近隣のモンゴル族学校が崩壊危機に瀕して、施設が残る朝鮮族学校で一緒に勉強をしているために起こった 事を説明してくれる。

ここのモンゴル族は、トイレの後始末は木の枝を利用するというのだ。そのため、昨日まで、学校トイレには後始末 用の木の枝が一杯だったが、康先生は韓国からのお客さんにその体たらくを見せるのが心配で、一人で何時間も かけてそれを片付けた。ところが我々一行の誰もトイレへ行かないから、自分の苦労が無駄になってしまったというのだった。

学校のすぐ東の土壁だけ残った家の跡地が菜園に変貌している。 その南側が朝鮮族村だ。 細かく切って積み上 げた土レンガで建てた家が多い。 菜園にはりんごとスモモの木が派手に花を咲かせている。

康先生は先に自分の兄である康ウェリョンさん(63)の家に記者を案内した。黄海道の信川康氏であるウェリョンさ んは、泰来〜五常〜双清〜曙光を経て鮮光村へ移住したと明らかにした。庭先には低いビニールトンネルを作っ て、ニンニクや長葱を植えた。 すぐ隣家が康先生の家だ。 石と木の枝で境界をつくった敷地であり、康先生は "こ こは石が多くて、家を作るには良い"と笑い話をする。 家にはポンプが室内に入って来ている。 ここの寒さを思えば 理解できる風景だ。 家庭の先端には引っ越して来てから植えたという杏の背丈が家よりも高い。隣りの背の低い 垣根をつかつか越えて、あちこちの家を覗いて見たが、老人たちが今日に限って皆、外出中だ。

仕方なく町内の路地に出ると、変な姿のニワトリを見つけた。 詳しく見ると、ここのニワトリは一様に尾を切ある。 腹を抱えて笑う私たち一行に、康先生は菜園の垣根を越えられないように鳥の尾を切っておいたのだと説明してく れる。 この村では大きな黒豚も路地をぶらつく。 豚も放牧するわけだ。

村の中を横切って流れる溝には種もみをいっぱい入れた麻袋が浮かんでいる。 このように芽を出させた種もみをそ のまま無水田に振り撤く農法−散種と呼ぶ−が、ここではまだ主流だ。

康ジェサンさん(41)の家庭には、ブルドーザーと脱穀機などの大きな農機械が整然と並ぶ。 ブルドーザーも農業に 使うようで、注意深く眺めていると、奥さんの郭ギョンランさん(37)が家に入って来なさいと招く。郭さんは人気を感じ て、 '漢族の商売人かと思った'と口を覆って笑う。 ここはやはり漢族なら皆、半分ほどは泥棒と見るようだ。.

農機械を揃えているところで見当をつけたが、康さんはここでは大きな規模の農夫だ。 5haの農業をして 1年に 1万 元位の収入をあげる。 そんな彼もやっぱり子どもの教育問題で困難を経験している。 既に初等中学1年生である 二卵性双生児を遠くウランホトへ留学をさせている。康さんの母親・洪ボンソンさん(73)は、老身に再び孫の世話を するために外地生活の苦労に耐えている。

自分たちどうし一言二言混ぜる中国語も慶尚道の言葉のように聞こえる康さん夫婦と別れ、学校に帰って来ると 運動場には授業を終えたモンゴル族の学生たちが遊び回っている。 その間に相対的に少数である朝鮮族の学 生たちがなんだか傷々しく感じられる。

(嶺南日報)


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