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29.遼寧省 鉄嶺市 鉄嶺県 催陣堡鎮 小屯村 星州李氏村

"星州が本貫である李如松将軍がうちの先祖"


▲ 李如松将軍の墓碑の前で李テクミョンさんが文化大革命当時、家の人たちが碑石と石物を守った話 をしている。墓碑のハングルが異彩を放つ。

◇連載を終えて

2003年 5月12日、 '礼泉ウィソングポ' 話で初回を始めた '村' シリーズが 27日 '中国遼寧省星州李氏 村'の話を最後に終わる。 特別なことではないとしても、穏かな話をおさめた慶北道内の村と恨のこも った歴史を慶尚道特有の馬力で勝ち抜き、大陸に位置する中国の中の慶尚道村を捜し回ったこの連載 が、地域のマスコミとしては珍しく 1年7ヶ月間も続いたことは、読者の声援と地域社会の関心があったか ら可能であった。 取材旅行の毎に時間と苦労を惜しまず協力してくれた村の住民と行政政府関係者、特に 中国取材期間中、事前の資料収集と案内を引き受けてしてくれた現地の朝鮮族言論関係者及び学者、朝鮮 族村のリーダーなど、すべての方々に紙面を通じてでも深く感謝したい。 一方、嶺南日報はこの続物と関連し、 '中国の中の慶尚道村写真展'を新年 2月23日から 28日まで大白プラ ザギャラリーで開催する計画だ。

中国で暮している我が民族は普通、朝鮮族という名前で呼ばれる。彼らは中国の住民登録により '朝鮮族'と いう民族分類がされている。文化的に一番先に進んだ少数民族として供応を受けている今の朝鮮族が、中国 に根付いた時期は、およそ19世紀中葉以後。 満州地域が過去、我が民族の主要な活動舞台だったという事 実を勘案すれば、我が民族の血管がその所でも連綿として続いて来ているが、大部分そのルーツを忘れてしま ってこのように一転した歴史になってしまうのだ。

ところが、たまにこのような通常的な常識を飛び越え、言葉と文化は忘れてしまっても、ルーツは憶えている我 が民族の子孫たちが大陸のあちこちで発見されてニュースになったりする。

瀋陽市から東北の方へ 1時間30分以上行かなければならない都市、鉄嶺を訪ねた理由は、慶尚道に縁がある のに移住時期が 14世紀にまで遡る一家の集合村があるという話を聞いたからだ。 とうに漢族に同化された彼 らを訪ねる事は、 '中国の中の慶尚道を訪ねて'という今回の取材の主題から逸脱していると言うこともできるが、 彼らがまさに慶尚道に根を下ろした '星州李氏'の一分岐点であることを見ると、そのまま通り過ぎることは出来ない。

遼寧朝鮮文報記者出身である金チョルヨンさんと朝鮮族作家・金イェホ先生の案内で、鉄嶺県政治交渉委員で ある李沢綿さん(43、星州李氏鉄嶺宗親会副会長)の家を探した。 李さんは自分の家の歴史を十数年にわたり研 究している歴史学者だ。鉄嶺県外郭の農村地域にいる彼のやや小さい家に入ると、見かけとは違い、広い敷地 にこぎれいに掃除された室内が印象的だ。 李さんは "公式的な民族分類にかかわらず、自ら朝鮮族だと思って いるから、朝鮮族に恥ずかしくないように清潔な生活を維持しようと努力している"と言った。

このようにルーツを探すために努力する李さんは、自ら本貫が星州であり、 韓国人たちがよく知っている李如松将 軍が、自分の 13代前の先祖だと明らかにする。壬辰倭乱当時、明の援軍を率いて朝鮮に出兵したその李如松 将軍が、我々の血筋だという話は聞いていたが、本貫まで具体的に伝えて聞くのは今度が初めてだ。

李さんは、星州李氏の門中会報と碧珍李氏の門中会報を同時に見せてくれる。 面白いのは、韓国の梁氏姓が 、同時に鉄嶺李氏を自分の家だと主張していること。 しかし十数年間も家のルーツを研究しているという李さん は、 '研究の結果、私たちのルーツは星州李氏に間違いない'と主張する。 記者の故郷が星州だと伝えると、彼 は今更のように握手を請う。先祖の故郷から来た人だから、とても嬉しいと言いながら。

14世紀末、朝鮮から帰化−罪を犯して逃げたという説もある−した星州李氏、参知公派 9世の孫だった李潁(李 如松の 5代先祖)が鉄嶺に腰を据えて中国での星州李氏の歴史が始まったと李さんは主張する。

鉄嶺李氏は以後、中国の歴史で明らかな足跡を残した一人物を輩出し、遼東第一の名門家に浮上する。 李如松 の父・李成梁(1526〜1615)がまさにその人物だ。 40代に遼東総兵に上がった後、自分はもちろん息子である李 如松の代に至るまで、遼東地方は実際に彼の家によって治められたと言っても過言ではない位に、この家の威勢 は大変なものだった。 当時、明の王室は、異民族の跋扈が絶えなかった遼東地方の守備を全面的に李成梁に頼 るほどだった。李成梁の家臣として出発して後金を建国したヌルハチも、彼ら父子が生きている時は鉄嶺を越えるこ とは出来なかったと李テクミョンさんは誇った。彼の言葉を借りなくとも、中国東北地方の歴史で李成梁の占める 比重は、最近、中国政府が鉄嶺県蟠龍山に李成梁記念館を建てて開館したところからも覗うことができる。 記念 館には金州城(今の鉄嶺)に駐屯していた李成梁が常に花を鑑賞した楼閣・観花楼の礎などをそのまま移してあり 、建物二棟に当時の生活ぶりと歴史をうかがうことができる各種資料写真と絵などを展示してある。


▲ 小屯村の星州李氏。 老人たちは "幼い時から先祖が朝鮮人であることを知っていた"と言う。.


▲ 書斎で家の歴史を説明している李テクミョンさん。彼は星州李氏参知公派である李如松将軍が、自分の 13代前 の先祖だと紹介した。

李さんの家で彼の一家が集合村を成して暮す小屯村までは、再び自動車で 20〜30分走らなければならない距離。 低目の野山とポプラ並木、そして道路周辺の小さな小川…. 特徴のない中国農村風景をしばらく目を凝らして見てい ると、李さんが外診所で車を止める。 結構青い樹木の茂る大きな丘の横だ。 李さんはその丘を示して家の墓地だと 説明する。

畑と丘陵の境界を成す道に沿ってしばらく歩いて入って行くと、たちどころに武臣像と文人像、十二支神の像などの石 物がきちんと列をなし、その昔のこの家の栄華がどうであったかを説明してくれる。 そして続々と大きな碑石と数十 基の墓が現われる。 高遠祖李成梁之墓、高遠祖李如松之墓と刻んだ二つの墓碑石が特に目立っている。漢字を 大きく刻んで、 その横に小さなハングルで読みをつけてある。鉄嶺の李さんたちが朝鮮語もハングルも分かるはず がないのだが、墓碑にハングルを刻んでおくというのは、なかなか味がある。分かってみれば墓碑のハングルは 19 94年墓碑を建てるお金を寄付してくれた在日韓国人の韓チュンミンさんが、墓碑に必ずハングルを刻んで入れること を要求した結果だった。 墓碑石の後の李成梁と李如松の墓所墳は、セメントで包装されている。 韓国の星州李氏な らあり得ない事だが、数百年の歳月は風習を大きく置き変えた。 漢族化したのだ。

現在、ここの星州李氏の墓所にある各種の碑石と石像は、市級遺物として保護を受けているが、文化大革命時代に 消失する危機もあった。 当時の子孫たちはこの遺物を地中に葬って火を避けた。 ここの墓地の面積はおよそ 800畝 (1畝は 300坪)。 このように広い墓地を確保した祖先の徳のおかげで、この家の人々は中国の法律で埋葬を禁止し ている最近でもここに墓を作るという。敢えてここに墓を作るのは、墓地の形態が龍の模様に似ている良い土地だと 彼らが信じるからだ。

墓地に近い所に二つの村がある。 二つの村が合わさって小屯村を成し、住民の 70〜80%以上が星州李氏だから、 まさに集合村と言える。

村に近付くと、今まで訪れて来た朝鮮族村とは外形が似たり寄ったりながらも、どうもよく分からない、他の雰囲気 が漂う。 さほど高くない山を挟んで位置する村の敷地であり、周辺の広い野原、赤い瓦を乗せた家の形振りは朝 鮮族村とそっくりだ。 しかし稲作をする朝鮮族村は、どこに行っても家ごとに壁面に大きな藁束が積んであるが、 この村ではその代わりにとうもろこしの芯が積んである。 偶然に目立つ稲作の家は焚き火小屋のようにちっぽけ だ。 稲作はほとんどやらないという話だ。 村前の道路周辺には朝鮮族村の牛の替わりにロバが惰眠をむさぼって いる。 もうすぐ農作業が始まれば、あのロバも忙しくなるのだろう。漢族たちは牛を使うことができないが、馬やロバ を使うのは上手だ。

村の中央に位置する店に入ると、女性達が囲んで座り、盛んにマージャンをしている。 "もう忙しく働く時期が来 たのに、こんなに遊んでてどうするのか"と声を掛けると、女性たちは "まだ忙しくない"と返事をして、珍客の姿を じろじろ見る。

店のすぐそばの路地を通じて村の中に入ってみた。真っ直ぐに伸びた路地は、この村の祖先・李潁の家があると いう村後方の山につながるようだ。 700戸に 2200人余りが住むという大きな村らしく、路地は長い。 たまに見える 菜園はかなり低い石垣で阻んである。 一家の庭先には牛が六匹も横になっている。 その牛の中には全身に雑毛 が一つもない白い牛もいて、随分長い間眺めてしまった。

村の中の方へ入って行くと、慣れない臭いが疎ましく漂って来る。 山につながりそうだった道が途切れる。 山と村の 間には結構大きな川が塞いでいる。 水量は多くはないが、彼らが稲作をする術さえ分かれば、充分に活用できる水 源にはなるようだ。

車を止めておいた村の中央に帰って来ると、いつの間にか村の老人たちが集まっている。 朝鮮族に比べてずっと 見窄らしい身なりをした老人たちは、韓国から来たという話を聞いてからは自分たちの先祖が朝鮮の人だという家 の話を一言ずつする。 系図もあると言う。 この村の周辺には高句麗城もある、と韓国との縁を強調したりする。

韓国の親戚らに伝える話をしてくれと頼むと、李士勇さん(65)が黄金色の歯を店ながら "私たちはここで元気に暮ら しているから、韓国の親戚らも元気にうまく行くように願っています"と挨拶をしてくれた。

鉄嶺市に帰って来る途中、李テクミョンさんは、自分たちの希望は朝鮮族としての民族を回復することだと打ち明け た。先に言語回復をして、その次には民族回復をしたいというのだ。 このような彼の考えには、鉄嶺の家族たちも賛 成しているという。それで李さんは、村に朝鮮族学校を立てる方案、もしくは漢族学校に朝鮮族クラスを作る方案を講 じて見たが、費用問題のため鉄嶺市などの支持を得られなかったと残念がった。 彼らが韓国の星州李氏宗親会と 交流をしたがる最大の理由は、このような経済的な問題にもありそうだ。

別れの時、自分たちについての話を韓国に伝えることを頼む李テクミョンさんの顔には、心配が溢れていた。数 百年間断絶された血筋との縁をまた引き継いで、 民族を回復する事がどんなに難しいことなのかを彼は表情で語っていた。

(嶺南日報)


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