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26.内モンゴル自治区 札蘭屯市 成吉思汗鎮 洪光村(上)

この堤防の石一つ一つが朝鮮族の力
1998年、川の水が溢れるほどの大変な水騒動、全住民が心を一つに堤防に砂袋 2mも積んで村を守る



▲ 雅魯河の堤防で趙オクジャ書記が 1998年の大洪水当時の緊迫した危機を説明している。
紅光村の人々は当時、固く団結して一番危険な区間の堤防を守り通した。

雅魯河の堤防で趙オクジャ書記が 1998年の大洪水当時の緊迫した危機を説明している。紅光村の 人々は当時、固く団結して一番危険な区間の堤防を守り通した。

ふくよかで暖かい印象、ふっくらした体つき、 明るく笑う趙オクジャ氏(55)は、私たちの隣り近所でも一日 に何十回でも見られそうな、そんな顔をしている。 自分の原籍が慶北とだけ分かっている趙さんは、札蘭屯 市 成吉思汗鎮 洪光村の堂々たる党支部書記だ。

朝鮮族村で女性の党書記は初めて合った時、握手しながら、 "利口な人はみんな韓国へ出て行きます。 人 がいないから私みたいなのがこんな仕事をしているんです"とボヤく。 いくら人がいないといえども、家父長制 の伝統が生きている朝鮮族村で、党書記として働いているところを見れば、趙さんが大抵の男をしのぐ活動力 を持っていることはすぐに分かる。

やはり原籍が慶北だと明らかにした村長の禹ガンソブさん(56)は、 '慶尚道村を尋ねていたというのなら、うま い具合にここへ来られたわけだね'と言いながら仲間を歓迎してくれる。 この村は慶尚道出身の割合が 100分 の 99だというのだ。

紅光村は遠く離れた 3つの村を一つにまとめて呼ぶ名前だ。 だから過去の中国式集団経済単位である 1・2・3 隊に分けられているわけだ。 成吉思汗鎮とつながった 1隊は、漢族と混在して住むが、町並から少し離れた2・3 隊はまだ漢族が足を踏み入れることが出来ない、徹底したな朝鮮族村を固守している。

1980年代の初め 1090人にまで増加した紅光村の公式的な人口統計は、現在 236戸 879人。 しかし実際の居 住人口は 130戸 300人余りに過ぎない。 このように人口が減りながらこの村の成吉思汗朝鮮ぞ学校は、小学校 と初・中課程まで教えているが、教師 20人に学生数は 40人に過ぎない。村が賑やかだった時は、学生数が 300 人を越えていた。

村の農土は豊かだ。水田が 7500畝(10畝が 1ha)、 乾田 300畝、林地 100畝などがこの村の所有だ。

趙書記に、'中国で暮しながら漢族を拒否すれば、どのようになるのか'と聞いて見た。すると趙書記は、'我が民族 はまじめで手まめできれいな民族なのに、漢族がまじれば秩序が乱れ、衛生も維持出来ず、泥棒に入られる'と雄 弁をひとしきり続けた。 一言で、漢族とまじれば村が滅びるという話だ。

それでこの村は村の規約を作った。 漢族を受け入れば、家主は無条件に罰金 5000元を払わなければならないと いう規約だ。 もちろん、既にまじってしまった 1隊を除く 2・3隊にだけ外套する。

このように漢族に排他的ながらも、ますます働く人が減るため、農業は漢族に依存している。 村所有地の 65%を 漢族が耕作する。そうしたら苦労も増えた。 100年来最悪の日照りを記録した去年、水が豊かだという噂の立った この村でも水不足が深刻で、水のために頻繁に民族紛争を経験した。

東北3省と内モンゴル自治区に住む漢族の共通した特徴は、手のつけられない状態、 道理も分別もなく、 無条件に 自分の欲望だけ突きつけるのだという。 このような性向の漢族農民たちが、自分たちと同じ農業の隣地に来て、臆 することなく鎌を持って水の出入り口をいじり出したので、趙書記は夜も寝られずに水争いの仲裁に出なければなら なかった。 こんなわけで、朝鮮族は漢族を未開だといって見下す。

しかし今年は春雨が多く、このような苦労はしなくても良いので、趙書記は空が有り難いという。

水準の低い漢族と交わりたくない村住民たちは、最近になって外地の朝鮮族を呼び入れて村を育てるために あちらこちらに噂を流している。 既存住民たちとまったく同じ待遇をしてくれるという噂のおかげで、二つの家が 増えはしたが、住民たちの評判は良くない。


▲雅魯河の水を紅光村に引き入れる用水。紅光村までの長さは5〜12kmにもなる。


▲朝鮮族学校で遊んでいる子供たち。一番前の子供が趙オクジャ書記の姪・厳ヨンソンちゃんだ。

"大きな日照りになっても穀食を食べたし、汚染もない財宝の地だから、必ず守らなければならない"という 趙書記と禹村長の駄目押しが心強い。 "ここの米は汚染がないと北京、上海でも認める"と自慢も後に続く。 どこへ行っても朝鮮族の自分の町の米自慢は同じだ。

学校の前庭で幼い子供五人が遊んでいる。 その中でも厳ヨンソンちゃん(6)は目立って可愛くて、 賢く見える。 厳嬢は "お爺さん、お婆さん、叔母さんと一緒に暮す"と言った。 つまり母方に住むという話だ。 父親は一歳 の時、 母親は四歳の時、韓国へ行った。 "ママがお金を沢山儲けて来る"と自慢する。 分かってみれば厳嬢 は趙書記の姪だ。 韓国へ先に働きに行った父親が厳嬢の母親と離婚し、他の女性と暮しを始めたという話を 聞いてからは、その時から誰がさせたわけでもないのに、父親の姓を捨てて母親の氏姓である '厳'を使ってい たと言いながら、趙書記は姪を誉める。 しかし記者にはその利口さが殊勝であるというよりも、あまりにも早く 世の中の苦みを知ってしまったことに対する哀れさが、より重々しく感じられた。

1998年、松花江が氾濫する危機に瀕するなど、中国の東北地方に大変な水騒動が起こった時、成吉思汗鎮の 横を流れる雅魯河の事情も深刻だった。 川筋左右の 1kmを越える遊水地と沼がすべて水没し、 木が 倒れた、今にも堤防を越えて村に水が溢れ出して来るような危機が続いた。 村と外部を結ぶ橋はどんどん 水面が近付いて来る。全ての住民たちが堤防に張り付いた。 村別に守らなければならない堤防が割り当て られた。紅光村には一番危険な区間 1kmが割り当てられた。 危ない区間を任せられはしたものの、住民た ちはそれだけ朝鮮族を認めてもらったのだと信じながら不平を言わなかった。紅光村の住民たちは今にも水 が溢れそうな堤防を砂袋で 2mも高くした。 このような奮闘のおかげで成吉思汗鎮の堤防は守り通すことが出来た。

ところがそれは川の向こう側には災いだった。 こちらの堤防が裂けずに堪えるから、結局は反対側の堤防が 決壊し、多くの人が死んで、 残りの人々は山へ避難しなければならなかった。

趙書記とともに雅魯河堤防に立ち上がった。今は川の水が堤防から遠く退いているが、その内側の遊水 地と沼には大洪水当時の緊迫した跡が数年経った今でも残っている。 ところどころ底がぼこぼこと穴だらけに なっていたし、根こそぎになった木があちこちに倒れている。

砂袋を積んで築き上げた川堤防は、その後、石で丈夫に補強された。 "これは全て私たちがやったことなので す。" 趙書記が自慢する。 一番危険な区間の堤防を朝鮮族の団結力でこれ見よがしに守り通したその事が、 誇らしくないわけはないだろう。

堤防をもう少しさかのぼると、背の高いセメント構造物が堤防横にニュキッと立っている。 紅光村へ雅魯河を 引き入れるために設置した堰だ。 今はこのようにセメント鉄筋構造物の堰が出来ているが、朝鮮人たちが初めて この地に定着して農業を始めようと心に決めた当時、今のような堰は夢にも考えられなかった。

"私たちの先輩は本当に苦労しました。"とめどなく流れる雅魯河が人工の堰に阻まれて溝へ流れこむ光景 を注意深く見ている記者に、趙書記は先輩達の苦労話を始める。今は中国政府が作ってくれたこの堰のおかげで 苦労は減ったが、過去には毎年春ごとに里人たちが十日ないし半月ずつ堰を作るために働かなければならなか ったし、 水路の手入れもしなければならなかった。 この堰から一番近い紅光村 1隊までは 5km、 そして一番遠 い 3隊までは 12.5km。 頼りになるのが人力しかなかった時代、この遠い距離を水路で繋ぐ事はどんなに疲れ、 しんどかったことだろうか。 そしてどくどくと堰の水が流れ込む溝に沿って彼らの望郷の恨も流れただろうか。 彼らの苦しみを一つ二つ振り返って見ると、自然に感懐が深くなる。

(嶺南日報)


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