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25.内モンゴル自治区ウランホト市三合村

朝鮮・モンゴル・漢族'三合' 坡平尹氏、大挙移住


▲村の小学校の朝鮮族教室の風景。この学校の朝鮮族の学生は皆で6人だ。

ウランホト(烏蘭浩特)市街地を脱すると、内モンゴル自治区特有の荒れて不毛でボロを着たような丘陵 と山々が現われる。市の外郭の東の2車線舗装道路を20分余り走った後、舗装された狭い道を右折すると、 ポプラ並木の裏手に崩れた家がとぎれとぎれに現われる。それからは、たちどころに三合村が現れ、 ゆっくりと見物出来なかった黒竜江省とは違い、ここはいちめんの岩場だ。家々毎に菜園の垣根も済州島 のように石で囲んである。ところどころ崩れた家が目立つ村の風景は殺伐としている。

村の端に陣取った老人会館男性活動室の門を開くと、一方にはマージャンが、また一方には花札が行われている。 向う側の部屋にはお婆さんたちが何人か集まっている。 "あの部屋(男性老人活動室)はあまりに暑苦しいから" はやく入って来なさいと手招きしながら、あるお婆さんが吐き出す言葉で、ここが慶尚道村であることを実感する。 外の老人たちもマージャン版を仕舞って寄って来た。

黒い角縁眼鏡のせいか、田舎の老人らしからず知的に見える尹ジンモさん(75)は、14歳だった1933年、 父親に付いて何も知らずに二万里離れた遠いところへ移住して来た。彼の故郷は慶州市。親戚に付いて 一人二人来て見ると、慶州から来た坡平尹氏が光復の頃には40戸を超え、その後は死んだり散らばったり して今は10戸余りが残っている。

白髪とは対照的な黒くて太い眉毛が印象的な尹スヨンさん(72)も慶州が故郷。 "駅で汽車に乗る時、 小雨が降ったが、ここは既に川が凍って川底に砂を振り撤いて馬車が通っていた"と述懐する。 1938年、 彼の家がこの場所に到着した時、既に満拓の立てた開拓団が落ち着いていた。開拓団の規模は三合40戸 、近隣西山家子12戸、南三合7戸、北山家子1戸などだった。当時、満拓は来る人毎に家一軒づつを与えると か、家が足りなければ住み込みの仕事まで斡旋し、家毎に牛と鋤も渡したという。

今まで満拓と日帝のあくどい収奪話だけ聞いて来た記者には、ここの優しい(?)満拓が意外だ。尹スヨンさん はさらにお酒を一杯飲みながら、"当時、満拓の責任者は朝鮮人たちによくしてくれたし、それで光復前ここ の住民たちが功徳碑まで立ててあげた"と証言する。

尹ジンモさんが補足説明を自ら望んだ。当時、侵略戦争を繰り広げながら、日本がウランホトを砲撃したせい でモンゴル族の反日感情が深刻になり、仕方なく選ばれた朝鮮人を送った。だから、よくもてなしてくれるしか なかったというのだ。

初期の開拓団は現在の三合村一帯で低い地だけを選んで開墾し始めた。東北三省の他の地域とは違い、 内モンゴルの地は砂利と砂が多く、水を撒けばそのまま染みこむ'スポンジのような土地'のため、他の所より もっと多くの水が必要だった。彼らはまず綽爾河と帰流河を阻んで堰を作り、用水を引いた。堤防は柳とススキで塞いだ。

水路を作るのは簡単はなかった。石が多くて土地を掘り起こすのはさほど大変ではなかった。男たちは水路 のそばに天幕を張って、塩水にご飯を混ぜて食べながらと一心不乱に働いた。このように死力を尽くして作っ た水路は、その後にも洪水さえ出れば崩れ、移住民たちの生活基盤を破壊することもあった。

一心不乱に働いたおかげで、初期の開拓団は成功をおさめ、その後にも、他の地域に開拓団で来たにもかか わらず土地が確保出来ない各地の慶尚道人々が噂を聞いて一人二人群がって来始め、村は朝鮮族230戸に 960人が居住する大きな村に成長した。漢族とモンゴル族が130戸いるが、まだ村の住民の3分の2は朝鮮族だ。

黙っていた金ナムスンさん(女性 79)が記者を示して、"この人の言葉、本当の慶尚道の言葉だね。ソウルの言 葉はよく聞きとれないが、この人の言葉は全部聞きとれる"と面白がる。他のお婆さんたちも尻馬に乗って記者 の口から懐かしい訛りが出る度に"そうだねえ" "本当に私たちと言葉が同じだね"と頷いた。

三合村では本当に村の名前のとおりに三つの民族がよく和合しているのか。老人たちは"モンゴル族は私たち とまったく同じだ"と好意を現わす。しかし


▲村の入口で眺めた三合村全景。今は衰落しているが、三号村は胡耀邦が訪問した事があるほどに内モンゴル・ ウランホト近隣では有名な朝鮮族村だ。


▲初期の開拓民が立てた三合村のある民家が崩れている

漢族の場合には話が違う。たちところにあちこちで漢族の悪口が聞こえる。 "漢族のために門の前には何も 出しておけないよ" "漢族が悪いんだろが" "あいつらも苦しいからそうするんだろ" "文化水準が低いようだ" "怠け者ばかりだ"など…。蛇口から大門まで持ち去る漢族たちの盗みに対して三合村の人々は容赦ない。

漢族に対する悪口も少しの間だけ。お婆さんたちは記者の手に余るお願いをして来る。この所、老人たちもす べて死に、20人余りが残ったが、死ぬ前に故郷に一度でも行けるようにして欲しいという注文だ。

また故郷が北である延辺人たちは韓国からよく招き入れながら、どうして故郷が南側である三合村の人々は 来られないようにするのかについて、激しく追及された。この村には家を売り、畑を売って何としても韓国へ行こう と努力したのに、8回もビザが出ず、家庭崩壊した家もあると言う。

"帰国したら、そうだねー、大統領によく話してよ。延辺の人達にばかりいい仕事させずに、故郷の人達もちょ っとは呼ぶように伝えてちょうだい。親戚がいなくてはならないとかいうけど、捜しにくいし、いたとしても招請状 の話をした途端に連絡を切ってしまうんだから、話にならない。希望どおりに行けさえすれば、どんなにいいことかねえ。"

'この村の人がもう100人以上も韓国に出ているという話ですが、どういうことなんでしょうか'と聞き返すと、ただち に"ここの村人がたったの100人だけですか"と語調を高める。韓国へ行って金儲けして来る人がいなければ子ど もに勉強もさせることができないのに、彼らのこのような憤りは当たり前の事かも知れない。

"韓国の人々は、いつも嘘ばかりつく" "今度もまた嘘つくんじゃないの" "嘘ついちゃだめですよ""また騙されるか も分からないでしょう"何の約束もしなかったが、約束をしてあげられる状況でもないのに、人々はややもすれば 記者が自分たちを韓国へ連れて行ってくれる約束をしたかのように言い出す。

村見物をして来ると言って、逃げるようにすり抜けて来た。尹スヨンさんが、ついて出て来た。 "なんか見るもんあるか"と…。

目も開けにくい程に強い風が吹きまくる村の横町に入ると、珍しい姿の住宅があちこちにある。丸い屋根にセメントを 塗った家があるかと思えば、土を塗った屋根も目立つ。風のせいでこんな格好の屋根が生まれた。風が強いため、 草家は耐えることができない。甚だしくは瓦さえ飛ぶ事もある。不恰好ではあっても塩と土を塗っておけば雨水も漏れない。 雨が少なくて風が強いせいで、初めから屋根が偏平な家も見える。

この村で朝鮮族と違う民族の家を区別しようと思えば、庭先を見れば良い。朝鮮族の庭先は踏み所もない位に 菜園で作られているが、漢族とモンゴル族の庭先はそのままがらんと空いている。手まめさが身についている我 が民族の勤勉さは、庭先さえも掘り起こしてしまう。

村の一番東には小学校がある。 '一切は学生たちのために'という掛け声が壁にかかっている学校は、40年余り 前の韓国の田舍の学校を持って来たようだ。この学校は1947年、朝鮮族小学校として出帆したが、文化大革明 の時、連合民族小学校に併合された。 38人の学生のうち、朝鮮族は6人に過ぎず、,残りは皆漢族だ。朝鮮族教 師は2人。朝鮮族であるこの学校の朴チュンファ校長(49)は、学校の未来に対する自信がない。荒れた運動場の 周辺に立っているポプラが風に吹かれて危なげに揺らぐ。

学校の南に農業科学実験場の建物が見える。 1982年、胡耀邦が訪問して1時間の間住民たちと話し合ったとい う所だ。当時、中央政府の要人だった胡耀邦が訪問するに値する村を尋ねたが、モンゴル族の村の中では党中 央に誇るに値する所がなく、仕方なく三合村が選定された。この事で三合村は中央級(全国的な)の模範村という 名誉を得た。

ひと頃はそのような栄誉を持った村だが、今の三合村は若い人がおらず、老人達だけが守る寂しい村に転 落した。 "とにかく大きな村だから、何とかここまで持ちこたえたけど、そうでなければとっくに亡びたよ。人が いないんだから、どうしようもない"金ビョンマン村長(49)の力無い声が取材陣まで気抜けさせる。

(嶺南日報)


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