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23.黒龍江省 チチハル市 龍沙区 明星村(上)

あの川が村を開いた
5月、田植えの季節にも氷…毎年、用水確保に奔走
'嫩江'に全てを投資、揚水施設を備え、富農に…


▲チチハルの外郭を回るように流れる嫩江。当地でしばしば<南朝鮮>と呼ばれる明星村の人々は、 この嫩江の水に頼って米作りを行う。

チチハルは黒龍江省では省都であるハルピンの次に大きな都市で、嫩江の下流に位置している。 このチチハルの市内には嫩江を間に置いて南北で向かい合いながらお互いを'南朝鮮'、'北朝鮮'と 呼ぶ二つの村がある。時には激しく競争し、時には暖かく交流したりする二つの村には、慶尚道出身 の朝鮮族とその子孫たちが暮らしている。

面白いのは、ここでも南朝鮮が北朝鮮に比べて人口が多く、経済力も優れているということ。体育大会 をしても大部分は南朝鮮が勝つというのも南北韓の状況と似ている。

チチハル市の外郭。狭い未舗装道路に沿って行くと、製紙工場などのある工場地帯が現われた後、ま だまともに整備されない田舎臭い村が姿を現わす。明星村。住民たちが自ら笑いながら'南朝鮮'と呼ぶ村だ。 村周辺の農地を脱すれば、すぐに嫩江が見え、その向う側には'北朝鮮'と呼ばれる鮮明村がある。

明星村政府事務室の門を押して入って行くと、老人会長のように見える年配の男が顔にふくよかで暖かい ほほ笑みをたたえながら手を差し出す。方サンドク書記(53)は太い皺のせいで実際よりずっと年を取ったよ うに見える。 '老人会長かと思った'と冗談を言うと、彼は"私がちょっと老けて見えるでしょう?"と言いながら笑う。

永川市が故郷である方書記は、まだ先祖たちの故郷には行って見たことがないと、家の話から始めた。 彼は温陽方氏27世で、朝鮮族としては珍しく系図も納めている。彼の家は慶尚道出身の中ではとても早い 時期に満州へ移住したケースに属する。清の末期である1910年代に、遼寧省桓仁市には既に彼の家を含め、 千戸余りの慶尚道の人々が移住していた。

つまり今では平安道の人々が集中的に集まって住んでいる桓仁市の朝鮮族居住地域も、実は慶尚道の 人々が開拓したということである。方さん一家は桓仁から黒龍江省甘南県、龍江県等を経てこの村に入って来た。

自発的に移住した方書記一家と違い、大部分の明星村の住民たちは、満拓が組織した開拓団に属し、 北満州らに移住した農民の子孫たちだ。チチハルから遠くない泰来、龍江、甘南などは、日本が1936〜38年頃、 大規模な開拓団を組織した所で、そこからかなり多くの住民が後に明星村に移って来た。

村の開拓当時の話が出たついでに、老人会館を訪ねてもう少し沢山の話を聞く事にした。朴ドス老人会長(74)な ど10人余りの老人は、久しぶりに昔の話が出来るというので取材陣を歓迎してくれた。

"あの両班主人が龍江で、また甘南で暮して見て、住むに値する所がなく、あちこち移住先を探しながらこちらへ来たのです。"

朴会長は李チョンボさん(71)を指差しながら、言葉を続ける。60年、59歳で亡くなった李さんの親・李ヨンキ 翁は、50年、共同墓地と畑がとぎれとぎれにあった明星村の敷地を捜し出した後、甘南から14戸を呼び入れ た。当時、甘南は土地が不毛で油分がなかっただけでなく、教育施設もないなど住むに値する所ではなかっ た。李さんらは小屋のような家を建てて住みながら、この地で土地を切り開き始めた。埋まった墓が多くて、 地を掘るだけで骨が出たりする原野を、大まかに掘り起こした後には、嫩江の水をすくい上げる揚水場を建てた。 しかし政府から借金をして設置した機械が故障して、最初の年は農業が出来ず、二年目は水害に会って再び 農業を台無しにされるなど、村の開拓初期は悪戦苦闘の連続だった。

北緯43度線が通る明星村は、当然寒い地方。その寒さのため経験した先祖の苦労は筆舌 に尽くし難いと、方書記も言い添える。今は地球温暖化のおかげ(?)で、冬の寒さもかなり和らいだが、 その時は零下35度は普通だった。


▲明星村の老人たちが老人会館の前でポーズを取っている


▲花札で遊んでいるお婆さんたち。彼女らの故郷は皆、慶尚道だと言う。

5月、田植えの季節にも田には氷がのんべんだらりと残っていた。裸足で田に入って行き、 種もみを撒こうものなら、たちまち足が薄赤く凍って裂けた。

1955年頃、中国政府が嫩江の堤防を完工、水害予防がある程度可能になったため、耕作 するに値する所に変わった。この頃までの村開拓の主役は李ヨンキ翁と83年に93歳で天津 で亡くなった宋ピョンゴン翁などだった。この頃、明星村は住みやすい所という噂が立ち、泰来、 甘南等と中ソ国境近隣の辺境地域からも人々が移住して来た。

当時、明星村に人々が集まって来たのは、嫩江の水をすくい上げるから、毎年用水路を作らな くても良いという理由もあった。それほど北満州の農民たちには、用水路を作るのはぞっとするほ どにうんざりする事だった。一年に一度ずつ、それも水が凍りついた川に入って行って用水路を作る事は、 過酷な仕事になるしかなかった。堤防が出来、揚水施設が揃ったことで、少なくとも明星村だけはその 苦労をしなくても良いという噂がいち早く広がって行き、人々を引き入れたのだ。

当初、村のリーダーたちは出身地を差別せずに群がって来る朝鮮族をすべて受けてくれたが、なぜか 慶尚道人々だけが寄り集まった。それほど西満州一帯に慶尚道出身者たちの集中度が高かったという わけだ。彼らは村に入って来て村の開拓資金300元だけ負担した。このお金は、さらに土地を広げて、 潅漑水路を作るなどの共同資金として使われた。

農作業ははじめから共同作業で行った。中国で完全な集団経済体制が整ったのは55年頃だが、明星村 ではそれ以前に既に集団経済体制が整っていた。このため、明星村は集団経済体制が義務化された当時、 省の模範村(省模範)として注目された。それに団結がよく出来ていて、農業の環境も良くて、生産量が多かっ たので、西満州地域では最高の金持ち村としても噂が立った。当時、この村では足を切断した独身男ですら、 結婚の心配がなかったという。

方書記は、先祖が土地だけはしっかり確保してくれたと、常に有り難がる。.過去の基準では水良し、 土地良しの条件を揃えたわけで、今の基準では大都市に近いという最高の条件を備えているからだ。

方書記と老人たちからあれこれ話を聞いていると、そばに黙っている李サンホさん(67)が大きな声で話し かけて来た。彼の故郷は方書記と同じ霊泉。この村にはなんとなく霊泉の人が多いようだという思っていたら、 李さんが"私は霊高出身です"と言って自分の学歴を打ち明けて人を驚かす。年齢で見れば中国生まれだろうに、 霊泉高等学校を卒業したとは、呆気に取られた。横で誰かが'その人は韓国人'と助言してくれたので、'アハ!'と 頭の中がスッキリした。

李さんは中風治療のためここに泊まっていると言う。韓国の一ヶ月の治療費で、ここでは一年の間治療を 受けることができるという話だった。それで見違えるように体調も良くなったというから、彼にはこれほど幸いなことはなかろう。

明星村の人口は312戸に1312人。労動力のある人口が860人だが、そのうち360人は韓国へ行っていて、 沿海や大都市にも200人が出ている。それで実際の居住人口は600人に農家は70戸余りに過ぎない。

"改革開放で中国社会は成長したが、朝鮮族社会は没落した"と言う方書記は、"多い時は学生が200人 を越えた小学校も、去年、門を閉めた"と残念がった。明星村はそれでもチチハル市にあるから、子どもの 教育の大きな負担にはならない。チチハル市内には、小学校はもちろん、毎年、清華大と北京大への 進学生を輩出することで有名なチチハル朝鮮族中学校もあって、教育環境は良い方だ。

(嶺南日報)


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