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22.黒龍江省 湯原県 湯旺郷(下)

初期は抗日勢力の根拠地…
日本人、水利を開くや否や追い出される


▲肥沃な湯旺の裏山。日本人たちが湯旺河の水をここに引き入れ、水が豊かな水田地 帯に変貌した。
写真は湯旺の若きリーダーたち。左側から金ドック民政助理、 ユ・フンソブ党副書記、南ソク黒龍江新聞記者、文ヨンキル公安局職員。

"ここまでいらっしゃったんですから…"と言いながら、ユ・フンソブ湯旺党副書記が 延辺夕陽歌舞団の公演をちょっと見物して行きなさいと勧める。室内から飛び出して 来たとたん、ぞっと寒気が回って襟をただして見たがだめだ。前日までふくよかで暖 かかった天気が、急に零下に下がって厚着を準備出来なかった取材陣は、ほんの僅か とはいえ、初期の移住民たちが出くわした満州原野の寒さを実感する機会に恵まれ た。

郷政府の建物から少し離れた安っぽい村劇場では、もう公演が始まっていた。何の考 えもなくユ副書記の後について劇場に入って行こうとしたが、制止された。ユ副書記 が、'韓国から来た記者だけど、5分だけ見せてから行くよ'と説明したが、頑固そう な顔をしたおじさんはにべもない。

いや、にべもないどころか、"韓国は文明化した所だというのに、これは何の真似か" と怒鳴る。このように何の考えもなく勧められるままに出て来たら、文明化した祖国 (?)まで非難されてしまうとは…。かっこ悪いことこの上ない。やっと票を手にし たら、おじさんの入場許可が下りた。

ひとしきり騒乱を経験した後に入った暗い劇場の中は、過去私たちの田舎で よく見られた劇場の風景と似ている。自由に煙草を吸う姿まで…。舞台では50代以上 の団員たちにより構成された延辺夕陽歌舞団の公演の真っ最中だ。派手な公演服と軽快な メロディー、早い動きが印象的だ。

湯旺の観客たちの間からは、面白いという反応とともに、あまりにも北朝鮮の公演みたい でつまらないという反応も出る。韓国のテレビに衛星で接しているため、こちらの人々の目も 随分と肥えたようだ。

少し劇場を覗いてから出ると、例のおじさんが今度は先に笑いながら声を 掛ける。 "後で我家に来れば、にこやかに迎えるよ。"善悪をきっぱり区別しよ うとする自分を理解してくれという意味だ。微笑み返して劇場を抜けて来た。

村の家毎に太い針金を編んで作った垣根が丈夫に出来ていて、ユ副書記の説明の ように殺風景になった当地の人心が推し量れるようだ。村の中を用水が豊かに流 れる。湯旺河から引き入れた用水には、最近、クレーン車を動員し、一度浚渫をした 跡がそのまま残っている。その横にはまだ乾かない田で、めんどりたちが頭 を突き合って餌を捜し、雄鳥はしきりに羽ばたきながらめんどりを誘惑している。

その時まで、青松郡が故郷である金ドクホさん(82)と義城郡が 故郷である呉ウンヒョンさん(79)は外出していなかった。老夫婦は突然の寒さ に身をすくめている記者にアレモク(オンドル部屋の一番暖かい所)を勧める。 アレモクにおいてある薄い布団の下に何かが隠してある。手を入れて触って見たら二人の 老人が食べる昼御飯だった。アレモクに保管するご飯とは…。その人情あふれた情景にそっとほほ笑みが浮び上がる。

金さんは耳が遠くなっただけで、まだしゃんとしており、皺の多いお婆さんは ほっそりした体つきにもまだ気力が溢れている。 14歳に青松から満州へ移住した金さん 一家が初めて定住した所は、吉林省懐徳県良家子。当時、良家子では700戸の漢族と朝鮮 人が満族の土地を開拓していた。満族に属して農業をしていれば、徴兵、賦役、挺身隊などの 召集がなかった。しかし土地は痩せており、塩分まで出て、農業はまともにできなかった。 金さん一家は7〜8年ほど辛抱した挙句、公主領へ移した。

"ねえ、そのおじいさんのお話、してあげようか?"黙って話を聞いていたお婆さんが、唇にいっ ぱいに笑みを浮かべる。あの厳しい時代、18歳の花嫁が若旦那の顔も分からないまま嫁入り して来たが、三日目に知らない人が突然部屋に入って来て、新郎の外套まで奪って行ったんです。 後で分かってみれば、外套も借りて着る位に貧しい家へ嫁に来たという話でした。


▲延辺夕陽歌舞団が村劇場で湯旺の住民達にとっておきの見せ場を披露し ている。
この歌舞団は皆50歳以上の団員たちで構成されている。


▲湯旺の田舍喫茶店

'もう嫌だと言って実家に戻ってしまえばよろしかったのに'と冗談を言ったら、 お婆さんは"あの時は私もバカだったから、みんなこんなもんだと思ってたの"と口を覆いながら笑う。

一緒に大笑いした後、金爺さんは湯旺の開拓過程を説明してくれた。湯旺 を初めて開拓した人は、日本の弾圧により、初期の抗日運動の基盤を失って内陸に 押し寄せた抗日運動勢力の人々だった。彼らは新しい根拠地を開拓するために穴蔵の家を 作って、蓬が一本生えるかどうかの荒地を開墾し始めた。その次に日本人開拓 団が押し寄せて来た。この日本人たちはくねくねと曲がって流れていた川を変えて、 水が乏しかった湯旺の裏山を潤した。しかし彼らは湯旺河の水利だけ開いた途端に 追い出された。水利が出来て日本人たちが退いた という知らせに、周辺の朝鮮人たちが湯旺に集まり、彼らによって開拓 は仕上げられた。金爺さん一家が1954年、金星村に足を踏み入れた時は、既に200戸の大きな 村が出来ていた。

暖かい部屋の中で昔の話を聞いているうちに、自然に身が溶け出すように眠気が押し寄せる。 眠気に耐えながら家をしげしげ見回すと、今まで他の朝鮮族た ちの家では見られなかったものなどが目立つ。サボテンなどの草花と、とうがらし、トマトなど の各種の苗の植えられた植木鉢が寒さを避けて家に入って来ている。老人たちの腕によるとは思えず、 家の状態を調べた。長男と次男は韓国に、末っ子は天津に出ていて、年寄りたちは今、長男の嫁(51)の世話になっている。

"お幸せですね。お嫁さんに感謝しなくてはね"と水を向けると、お婆さんはす ぐに"そうですよね、私たちは幸せですよね"と受け流す。

年寄りたちにあいさつをしてからまた外に出た。どの家も似たような同じ 位の規模で建てられているが、最近出来たいくつかの家は壁にタイルを付けるなど 一目で見てお金をかけたことが判る。家毎に皆同様に、庭先には大きな 菜園を一つずつ作っている。菜園の中やコーナーにはトイレがある。

家の前で花壇を作っている夫人の姿が目立つ。今度の取材旅行中、初めて 見る、余裕が感じられる場面で、通り過ぎながら'裕福なご家庭のようですね'と一言す ると、彼女は"これが裕福なんですか?"と言いながらクスクス笑う。それでもまんざらでもなさそうに 、昔は隣り町の娘たちがこの村に嫁入りしようとした、と村自慢をする。

今、この村の一番大きな問題は、やはり教育だ。 1997年までは湯旺の朝鮮族村 毎に一つずつ、合計8つの小学校を立てたが、98年には5つ、 2000年には3つ、 2001年には2つと、 徐々に減り、とうとう去年には1つだけになってしまった。8つが一つに減っても 学生数は217人に過ぎない。郷には中学校もあったが、これまた去年、県に 合併されてしまった。県までは25km。寄宿費を免除するという条件で中学の合併に 同意したので舍費はかからないが、男子学生150元、女学生130元 ずつ食代を負担しなければならない。何やかやと教育費の負担はこれからも ますます増えるしかなく、親たちは心細い。

歌舞団の公演が終わった後、村の食堂はお祝いの雰囲気。わざわざ郷所在地に集まった 年寄りたちが、そのまま別れることができなくて、あちこちから集まって杯と 人情を交わす。取材陣もユ副書記らとともに席につくと、年寄りたちは取材陣 の振る舞いだけ見ても韓国から来たことを知り、"よく来たね。気をつけて帰りなさ い"と言う挨拶をして来る。一杯のお酒と暖かい人情に、寒さで縮んだ心がいつのま にかふくよかに暖かくなる。

(嶺南日報)


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