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20.黒龍江省 五常市 民楽朝鮮族郷(下)

根前嶺南大総長、孔鎭伉前農林部長官、彼らが農民を集めた理由は?


▲拉林河から引いた堰が田植を控えた民楽の平野を潤している。

"李根が韓国では親日派として目茶目茶に叩かれているそうですが…."皇甫チャン郷 長が民楽の歴史を一番よく知っている村の元老と言って紹介してくれた李サンヨンさん(6 4 聞慶市出身)の口から思いがけない名前が飛び出す。しばらく混乱する頭の中を整理 して見る。つまり今、李さんは記者が当然知っているはずだと思って'李根'という名前を 出したはずであり、すると光復以前にしばらく満州で活動して、日本降伏後に本国に帰り、 立身出世した人物の中でその名前を捜さなければならないだろう。記者の記憶の中でその ような条件に符合する一人物が浮び上がる。嶺南大総長、文部大臣、初代精神文化研究 院長などを歴任した史学者・李根博士(1905〜1983)。李さんは自分の言う人がその人だと確認してくれた。

思いがけない所で聞いたその名前は聞き慣れない名ではないが、彼の具体的な行績に対 してはあまり知らないはずだと雲のように疑問が起きる。彼とここ民楽に何の関係があるのだろう?

驚いた記者の気配を感じた李さんは、満足したように大きな声で李根博士と関連するた民楽の歴史を打ち明け始める。

1939年に設立された民楽朝鮮族小学校の歴史を記述するなど、誰よりも民楽の歴史 に明るいという李さんによれば、民楽郷一帯の朝鮮族村を切り開き、水田を開墾した主 役は'満蒙産業株式会社(以下満蒙)'。孔鎭伉(1900〜1972 前農林部長官、農協中央会 長)と李根などが日本統治時代に満州へ移住した私たち同胞たちの労動力を活用、大規 模農場を建設するという野心を持って設立した会社だった。当時としてはおびただしい金額で ある50万元の資本金で関東軍基地があった公主領に事務室を設けた満蒙は、30年代中盤、 平安鎮に初の農場を開拓した後、これを南満洲鉄道会社に渡して安家農場(民楽)でまた事業を進めた。

近隣の駅名を取って安家農場と呼ばれた今の民楽一帯が開拓され始めたのは38年。拉林河から 水を引いたのがその年の冬だった。この一帯の土地5千町歩余りを買い入れた満蒙は、草創期に 100戸余りの朝鮮農民を募集、農場を始めた。当時、李根が責任者であった安家農場の目標は、 所帯数500戸の農場を作ること。そのため500戸農場という名前でも呼ばれ、その目標は44年頃 達成された。あの頃、580戸、2900人余りの農民が1500町歩の水田を耕作する大規模農場として成長した。

安家農場で農業を作るために寄り集まった人々は、大部分慶尚道出身だった。 20年代、吉林省 梅河口、磐石、樺甸一帯に集中していた慶尚道の人々の内陸移住経路が磐石〜樺甸〜蛟河〜 新站〜平安鎮〜民楽〜その奥(黒龍江省西北部と内モンゴルなど満州内陸を意味する言葉)コースだったからだ。

当時は満州事変を起こした日本が満州の占領に成功し、独立軍の抗日運動の基盤が瓦解、 これにともなって今の吉林省中南部地域に大挙して追われていた慶尚道出身の移住民たちが本格的 に黒龍江省等の土地への移住を決行した時期だった。 20年代中盤まで独立軍の補助基地の役目を した朝鮮人集団居住地域も徐々に内陸に移動する傾向を帯び始めたのだ。


▲民楽の老人たちは大部分、子どもたちが残して行く孫を一人ずつ引き受けている。


▲民楽村のある民家。保温のために窓を塞いだビニールが、ここの冬の寒さを物語ってくれる。


▲皇甫チャン郷長(左側)とチュ・ドンス書記(右側)が村の元老たちと一緒にポーズを取っている。

このような状況で、日本が抗日運動勢力の根拠地を初めから抹殺するためにとった政策が、 安全部落政策である。外部から隔離された集団村を作り、抗日勢力との接触を基本的に封鎖 するという戦略だった。朝鮮人集団移住村の周りに強制的に土塀を積むようにし、外部と遮断させたのもこの頃の事だった。

日本のこのような集団部落化を通じる抗日勢力抹殺戦略と満州の食糧基地化政策は、朝鮮移住民 たちを一ヶ所に集めて大規模な農場を作ろうとしていた満蒙の事業と利害関係が一致したと見られる。 満蒙は用水を引いて荒地を開墾する一方、水田研究所を設けて満州の気候と土質に適当な種もみを 選択し、栽培方法を研究し始めた。選択された品種は、満州の気候を勘案して寒い日本の北海道で 植えられる品種を選択した。水をつけた田に手で種もみを振り撤く原始的な農法ではあったが、水が 良くて土地が良いから農業には適していた。 安家農場の人々は稲作をしてはいたが、米飯を腹一杯食べることはできなかった。生産された米は 全量供出され、代わりに粟が配給された。粟とはいえ、飢え死にしなくて済んだのは、それだけでも幸いな事だった。 民楽村の中の道を金ウォンギョンさん(67 老人会長)などと一緒にぶらつき、李さんから村の歴史を 聞いている姿が、いつのまにか町内の子供たちの見世物になってしまった。つい先ほどまで見えな かった子供達の姿が一度に現われ、路地が騒がしくなる。家にいた年寄りたちも、一体何の騒ぎな のかと出て来る。老人たちは大部分、子供たちを一人ずつ連れている。外地に発った子たちが任せ て行く子供達だ。親の顔も分からないまま親と離れて暮さなければならない子供達は、いつ見ても 不憫だ。この村のチュ・トンメちゃん(10)は、韓国にいる母親と毎週土曜日に電話をするという。懐か しくなるたびに書いておいた手紙を、母親にいっぺんに読んで聞かせるというのだ。

盈徳郡が故郷である朴チャンシクさん(70)の庭先に設けられた背の低いビニールハウスの中では、 三日後に田植をするという緑色の早苗が欲をそそる程に見事だ。

"李根が光復後、韓国から見れば大きな功労者だったが、日本統治時代だけをみたら'大きな 漢江(大変な率先者という意味)'と見なくてはならない…。"まだか弱い早苗を撫でながら、立ち上がる 記者を見守った李サンヨンさんは、切られた話をまた引き出す。

安家駅の列車を意のままに止めることが出来る力を持つほどに、李根が'日本の奴らの大きな岡っ引き' であったと言う李さんは、しかし自分は彼を無条件に日本の奴らの岡っ引きだったなどと売り渡すつもりは ないという考えを打ち明け、記者を驚かせた。

まず農地を切り開いてくれて、我が民族が集まって暮せるようにしたのだから良い人だと見なければならないし、 無理な供出も阻んでくれたし、徴用逃亡者と夜学で朝鮮の歴史を教える人も知らん振りをしていたことを見れば、 それなりに民族主義の面も備えていた、というのが李根に対する彼の考えだ。

それで李さんは、韓国人たちがどんな評価をしようとも、自分達に李根を評価せよと言われたら、 仕方なく'保留'と答えるしかないと言って笑った。

(嶺南日報)


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