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18.黒龍江省 尚志市 河東郷 太陽村(下)

"あの時はそうだった。中国共産党が私たちを救ったのです"


▲田植え準備がたけなわの太陽村の裏山。ここの人々は蟻河の水を引き入れて米作 りを行う。

小規模な朝鮮人村を相次いで掠奪した土匪たちも、朝鮮人が集中的に集まった河東は 簡単には侵犯することができなかった。しかし土匪の勢力はずっと大きくなってお り、日本人と結託して自分らの土地を奪った朝鮮人、という彼らの反感も衰えておら ず、いつ襲撃があるか分からない状態が続いた。

不安に震えながらどうすればいいか分からなかった朝鮮人の間でも、徐々に自らを守 らなければならないという自覚が芽生え始めた頃、その年9月中旬、河東のある朝鮮 村がとうとう土匪たちから襲撃される事件が起った。夜中に数十人の武装土匪が村を 不意打ち、人を殺して、財物と家畜を全て奪った。被害にあった村は河東の中心集落 近隣にあった15系村だった。

太陽村を含む河東一帯を開拓する当時の満拓は、水田が耕作できない漢族を追い出し て朝鮮移民たちを30〜40戸ずつまとまった生産単位である系を22個設置した。面積が 広く、一番西の方の1系から東の22系までは数十里にもなった。これによって11系が 自然に中心地の役目をしたが、比較的安全だと信じた11係隣近の15系が襲撃にあった のだ。

目覚めた河東人たちは、稲穂を扱き、藁を石に打ち付け遅い秋の収穫をする一方、大 規模な武装自衛隊を組職、自らを保護することができる最小限の基盤を構築した。太 平洋戦争に徴用されてから運良く生きて帰って来た青年達が主軸になった。武器は日 本軍が捨てて行ったものと、近隣に駐屯しているソ連軍に訴えて貰って来た粗悪なも のなどだったが、それさえも住民たちには大きな慰めになった。

武装自衛隊は11係に駐屯しながらどの村が襲撃されても出動する準備を整え、各村で は青少年まで動員、村の入口に歩哨を立てた。土匪が現われれば鐘を叩き、音だけは 大きい火薬銃を備えた。その程度でも小規模の土匪は退けることができた。大きな集 団の土匪には交渉を通じて食糧と財物を捧げることで問題を解決した。

このような騒動と朝鮮農民たちの気苦労は、その翌年1月、八路軍所属の朝鮮義勇軍 第3支隊の一部の部隊が河東に入って来たことで初めて終息した。朝鮮語で歌を歌っ て行軍をする軍隊を迎えながら朝鮮人たちは各々'これで助かったなあ'と安堵感で感 激の涙を流した。これと共に河東地域に大きな社会的な変革が始まる。既存の高麗人 会が解体されて、民主連盟という共産堂組職が作られ、太極旗と青天白日旗が消え て、赤い旗が掲げられた。国共内戦が続く中で幾多の河東青年たちが東北民主連軍に 編入された朝鮮義勇軍に志願入隊するなどの大きな社会変革の波が押し寄せたが、土 匪が掃討されて、河東の地域社会は安定を取り戻すようになった。

"それはもう、すべて共産党のおかげです。共産党がなかったら私たちがどうやって 生きられたことか"成さんは釜山亀浦から黒龍江省延寿県に移住した後、河東に定着 するまで多くの危機を乗り越えて生き残れたのは全てが共産党のおかげだと言い切 る。チョン・パンニョさんも同じ。学校どころか食べる物もなく、全羅南道潭陽から 瀋陽、遼河近隣の永久農場、河東等の地を転々とした自分の家からチョン・パンリョ ン先生のような傑出した学者が出たのもひとえに共産堂の恩恵と言いながら頷く。本 当にお婆さんの表情からは、もう故人になったが弟に対する自慢話が溢れ出てくる。 共産堂の配慮がなかったら、朝鮮の貧農の子にモスクワ留学はもちろん中国内の大学 進学も難しかっただろうから、彼女のこのような反応は当然だとも言えよう。


▲堰で洗濯をする太陽村の夫人。私たちの昔の風景と似ている。

共産党の称賛を果てしなく続ける成さんだが、今、彼女は韓国国籍の回復を夢見てい る。亀浦で暮した姉は世を去ったが、何回かの韓国訪問を通じて八人の姪たちと暖か い気持を交わしているし、戸籍も韓国に残っていて、息子三人も今韓国に出ていると いう。次に韓国に出れば必ず韓国国籍を取り戻し、故郷で余生を送るというのが彼女 の夢だ。

二人の年寄りと一緒に交わした過ぎ去りし歳月の話がそろそろ終わろうという頃、 さっきから聞こえて来た子供達の声が気になり、隣室へ行くと、二人の子供が目を丸 くする。成さんの孫娘・朴ウンヒャンさん(12)と友達の韓チュンランさん(12)は手に 一冊ずつ韓国童話の本を持っている。ウンヒャンさんは父母がいつ韓国へ行ったのか さえよく分からない。それだけに、ずいぶん前にいなくなってしまった親が懐かしく ないはずもないが、懐かしさを慰めてくれるのは電話だけだ。 '早くお金儲けて来 て、2階建ての家作って、幸せに暮らそう'と何十回も電話で念をおしたが、まだ親は 帰って来る日を言わない。10晩寝たら、20晩寝たら…という約束がもう数えきれ ないぐらい繰り返された。童話の本のように自由に行き交うことができれば良いの に、そんなふうには出来ないのでウンヒャンさんは悩み苦しむ。

村の食堂には既に酒のテーブルが調っている。黒龍江新聞の金テサン記者と太 陽村1組の朴ヨンジン屯長、そして朴屯長の友達ユ・ギョンリョルさん(38)は既に 酔ったような目付きだ。毒々しい中国酒のビンがどんどん空になる。

1992年から97年まで韓国で働いたユさんは、当時、暮らすに十分なお金は儲けて来て、今は食 べて遊ぶだけだと韓国での経験話を楽しく話してくれる。ソウルのあるホテルに投宿した朝鮮 族が親戚から'ロビーで待っている'という電話を受けてからは急いでホテル玄関をすり抜けて来て タクシーに飛び乗り、'早くロビーに行きましょう'とねだったという笑い話が面白かった。 初めにには言葉が通じず、おしになったりしたが、韓国生活4〜5年ぶりに 遂に話の糸口が出来て、結局は一生使えるだけの悪口も習って来たと、自慢(?)がすごい。 彼は今年の秋に再び韓国に出る機会をつかんだと付け加える。 そんなユさんの話を聞く朴さんの表情には羨ましさが一杯だった。

酒席がすぐには終わりそうもなかったので、村の見物をもっとしなくちゃいけないと言う言い訳 をして食堂を抜けて来た。春雨にたっぷり濡れた村道は、とうにぬかるみに変わっ ていて、道の傍の溝の堰は勢い良く流れ、町内を脱するやいなや一斉に周辺の田に流れ こむ。蟻河の東だから河東郷という地名が生じたというから、この水も蟻河から 引き入れたはずだ。雨に降られながらある女性が堰に浸しておいた篭の中の若菜を整 えている。タンポポナムルだ。春にタンポポナムルを好んで食べるのは、延辺や黒龍江省 も同じようだ。

酒席がさらに長くなることを阻むため、タクシーを先に呼んでおいて、もうそれ 位にして行こうと言う意思表示をすると、朴さんが目覚めた。尚志市のカラオ ケに女達を呼んでおいて一緒に一度遊んで見ようと思ったのに、何を言い出すのかと言うのだ。 窮屈なタクシーに乗ろうとする彼を無理やりに頭を下げてお いて旅に出ると今度は携帯電話が鳴る。 "御兄さんたち本当に行ってしまわれるのですか? お願いですから、尚志でもう一杯だけ飲んで遊んで行きなさい。."

二万里離れたところで今やルーツさえ失いかねない状態にあるが、心を開くやいなや人情を抑えられない 朴ヨンジンさん、やっぱり慶尚道人なんだなあと思うと胸の中が暖かくなる。

(嶺南日報)


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