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17.黒龍江省 尚志市 河東郷 太陽村(上)

"朝鮮人は二鬼子!" 漢族ら恐怖の略奪
日本敗走の後、着た服まで奪われて
藁束かぶった避難民たち追われる
行列では暴行恐れて顔に炭塗り


▲太陽村1組村にある河東朝鮮族小学校

黒龍江省に暮す朝鮮族の原籍地は慶尚道が大部分だ。そのうちでも五常市と尚志市周 辺は慶尚道出身の朝鮮族の密集度が特に高い。それでここではよく慶尚道人が苗を植 えたという冗談も言われる。咸鏡道の人々が先に獲得した吉林省や平安道出身者の数 が多い遼寧省の地域を脱し、水と土地、そして故郷が同じ人々が住む所を捜し、内陸 へ深く移住した結果だ。

河東郷太陽村はハルピンの東の尚志市から30分余りの距離だけ離れている朝鮮族村 だ。その太陽村を尋ねる日、朝から春雨がしとしと降る。 4月中旬、吉林市で雪に降 られたが、5月初のハルピンでは春雨がうら悲しい。有り難くも黒龍江新聞の金テサ ン記者と李ファ記者が案内を引き受けてくれる。 9日間も続くメーデーの連休期間に もかかわらず、迷惑をかけるのは申し訳ないが、仕方ない事だ。

太陽村は全部で8組に分けられた朝鮮族村だ。 '組'という単位は一つの生産単位を示 す集団経済体制時代の名残。決まった距離をおいている8つの村を一つにまとめて太 陽村という名前で呼ぶ.村を通る未鋪装道路に沿って、順に1組、 2組、 3組などの順 序に分けられる。

太陽村の全所帯数は400戸、そのうち60戸が住んでいる太陽1組は、朝鮮族の小学校が ある中心村だ。河東郷の所在地に一番近い地理的な位置のせいで小学校がここにあ る。メーデーの連休で休校中である上、雨まで降るせいで学校の運動場には人影がな い。太陽1組村は学校の向こう側と右の方に優雅で淡白に佇んでいる。

戸数が60戸だが、登録された所帯数がそうだというだけの意味で、現在暮している住 民数はわずか80人に過ぎない。やっぱり韓国ブームのためだ。

"家族全員が韓国に出た家もあり、およそ平均して一家に二人は韓国に出ているよ うだ。"純朴そうな1組村の責任者・朴ヨンジン氏(38)は、どもりながらも韓国ブーム を説明する。

どこへ行っても聞く話だが、このような韓国行きのせいで朝鮮族が経験する副作用と後遺症 は深刻だ。お金を稼ぐ事が出来ぬまま戻って来て、借金のため離婚する事例など、10組のうち3、4組は 離婚したはずだなど、簡単には信じられないほどその後遺症は深刻だ。満 州の原野の冬の冷たい風も、韓国ブームの風の冷たさに比べれば何でもない。

'雨を避けよう'と朴さんが自分の家へ取材陣を案内する。道から路地裏に少し入って行っ た所にある簡単な草家が彼の家だ。台所とくっ付いている奥座敷に入って行くと、部屋と 台所の間の天井のすぐ下に穴を開け、電球一つで二つの部屋を照らしている。 20〜30年前の 私たちの田舍でよく見た慎ましい知恵が目立つ。その姿を見て、記者が"私たちも昔は そうしてました…"と言いながら面白がると、朴さんの夫人は"他にも電球はあります" とすぐ言い返す。もしや我々が狭苦しい思いをしないかと心配し気づかう様子が感じられ、何だか申し訳ない気持ちになった。

"韓国のために大変な事になった"と言う朴さんは、しかし自分も韓国に行きたいという本音を 隠さない。奥さんも"韓国にあまりにも多く出過ぎています。韓国に出ている人々が たくさん帰って来れば良いと思います。私たちも少しは楽に出られるよう に…"と言いながら韓国ブームに参加したい気持ちを現わす。米作りを10haもやっているという 大変な農業夫婦でも韓国ブームに惹かれるのだから、決して大それた事ではないだろう。

朴さん夫婦はこのような希望にもかかわらず、まだ韓国行きを試みることができない。韓 国行きを取り持ってくれると言いながら、お金だけ受け取って雲隠れしてし まう詐欺師にかかって身を滅ぼしたりしたらどうするのかという恐れのためだ。慶尚道出身者 の中には韓国にいる親戚の助けを受ける


▲太陽村全景


▲踊って取材陣を喜ばせている成ピルオクさん(右)とチョン・パンニョさん

場合も多いが、朴さんはそんな立場でもない。もしかしたら韓国に親戚がいるか も知れないが、原籍地が慶南か慶北かも判らない朴さんが親戚を頼る希望は今のところない。

話題を変えるため、お年寄達に会いに老人協会で行って見ようと言うと、朴さんが 難色を示した。行く日が市場の日なので、郷の有力な朝鮮族の還暦宴があり、年寄 りたちが皆そこへ行ったというのだ。朝鮮族村で結婚式が珍しくなりながら還暦がと ても大きな宴として歓迎されている。とにかく残っている老人がいないか捜して みる、と朴さんが雨の降る村を走ってくれた。

しばらくして、彼は老人二人がいた、と村の中央にいる成ピルオクさん (77)の家に記者を案内した。朴さんの家に比べれば現代式の屋敷みたいな(?)成さんの家 には釜山の亀浦が故郷である成さんと一緒に全羅南道の潭陽が故郷であるチョン・パン ニョさん(82)が韓国から来たという我々を待っていた。

チョンさんは延辺大の副総長を務めたチョン・パンリョン先生(1931〜2001)の姉 だと自己紹介した。チョン・パンリョン先生は'故郷を去って50年'という本を発行 し、故郷である全羅南道潭陽から満州へ移住して経験した家族史を世の中に残 し、記者も今度の取材旅行中にその本を読んだ。おかげで今再びお婆さんの 話を聞かせていただく必要がない。

成さんは13歳だった1940年、満州に移住した。満拓が黒龍江省延寿県 の山里を開拓するために釜山の亀浦と金海一帯で募集した貧しい農民300戸 のうちに小作人をしていた彼女の父親が含まれていたのだ。

"日本の奴らが集落を三つ作って人々を分配したんです。木と雑草 だけが生い茂る荒野で、雑草を抜いて種籾を撒いたら、根も生えずどんどん枯れます。 5年の間、凶作で米は全く出来なかったです。"

そんな状況でも、食べるものもお金ももない農民たちは逃げること ができなかった。父親は小作人だった亀浦がまだマシだったと地団太踏んで後悔した。 豆、トウモロコシ、塩など満拓の配給と草の根、木の皮にて延命し ながら堪える惨めな生活が続き、今度は腸チフスが流行し、全住民の3分の1が 死んで行った。1945年の事だった。その渦中に光復を迎え、責任者たちは中国人の服 を着て逃げだしてしまった。朝鮮人を二鬼子(二番目の日本人)と呼ん で敵愾心を現わす漢族の復讐が恐ろしかったのだ。

予想どおり、ぼろを着て力無い可哀相な朝鮮農民だけが住む村にも、朝鮮人 を日本人と同一視する漢族土匪たちの略奪が行われた。彼らは夜中に村 に入って来て婦女子たちが着ていた服類まで奪った。服といっても5年前、彼らが朝鮮か ら入って来る時に着て来た古ぼけたものだったが、彼らの暴力と欲望は限りがな かった。耐え切れなかった人々が一人二人と散り始め、 300人位だけが残るように なると、農民たちは議論のあげく、住む場所を求めて一緒に去ることで合意した。

麻袋を着て、それすらもない人は藁束をかけて、女達は襲われるのが恐ろしくて 顔に炭を塗った化け物みたいな形相をして、人々は朝陽を 経てその年9月1日、河東に到着した。河東には当時1千戸余りの朝鮮人が満拓が 開拓した農場で農業をしていた。周辺の山里の朝鮮農民たちが河東に集まったの は、同じ血縁者がより多くいる所を尋ねればお互いに意志も通じ、生活も開けるのではないか という考えからであった。

しかし成さんの家族など、延寿県から群がって来た農民たちが力を合わせた時、河東の朝鮮 農民も不安に震えていた。秋の収穫をしなければならない時期だったが、原野には黄金色 に熟した稲がそのまま立っていた。明日どうなるかも知れない状況で、秋の収穫をする意欲も 出せなかったのだ。

(嶺南日報)


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