xxxxxxx
朝鮮族通信 中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト Search by Google:
ホーム 朝鮮族概要 地域紹介 政治 経済 歴史 観光 ショッピング コミュニティー お問合せ


目次][BACK][NEXT

12.吉林省 九台市 龍家堡鎮 紅光村(上)

"子ども達に教育させるため、まだ草家住まい"


▲特に草家が多い紅光村の風景。この村の人々は子どもの教育に投資するため、家への投資は後回しだと言った。

吉林省の省都長春から北朝鮮との国境都市である図們に繋がる長図線鉄道40km地点には、紅光村という 朝鮮族村がある。新たに作っている長春国際空港の近隣だ。

盛んに進入路を舗装するための工事が進行中の村の赤い瓦の家の間には、たまに草家も目立つ。その 草家のせいか、ふと見るとあまり裕福に暮らす村には見えない。ただ今まで経て来た他の朝鮮族村とは違い、 にょきにょきと伸びた背の高い木の多いことが印象的だ。

村の入口には広い小学校がある。しかし見掛けだけ見ても既に閉校されたと見当をつけることができる。 運動場には端から黄金色に萎んだ雑草がところどころ頭を持ち上げ、長々しく伸びている学校の建物は一目 見ても長い間手をつけていないことが明らかだ。学校が門を閉めなかったら、ここをこんなに捨ててお くはずがない。朝鮮族の熾烈な教育熱を勘案すればなおさらのことだ。運動場には立ち去った学生に替わ るかのように背の高い白楊木が列をなし、その下では若菜を摘んでいる村の老人達が見える。この村が 朝鮮族村だから当然朝鮮族のおばあさん達だろうと思い、"おはようございます"と挨拶すると、意外に も"ティンブドン(分からない)"という中国語が帰って来る。 'いまだに朝鮮族と漢族が見分けられな いのか'と思うと水くさく笑ってしまう。

学校の建物の廊下に入って行くと、村政府の事務室が現われる。朴サンファ会計(53)とイム・ドンジュ さん(53)が人なつこいほほ笑みで嬉しそうに迎えてくれる。

'学校がなぜこうなったのか'という質問に彼らは異口同声に"清華大生も輩出した学校なのに、学生が減って 去年閉校された"と嘆く。 親の故郷が義城郡だと明らかにした朴会計は、1943年、先に中国に渡り、1年間農業をした父が家族を呼んで 吉林市に住んだと家族史を話してくれる。イムさんの原籍地は蔚珍郡だという。母親は慶州の人である。

挨拶を交わして取材手帳を取り出す時、電話のベルが鳴った。受話器を取った朴会計は"お前、誰?そうか、 ちょっと待て…"と言いながら手帳をいじくり回し、電話番号を教えて切った。彼はまるで私たち一行に 見習えとでも言うが如く強い慶尚道訛りを駆使する。それだけでなく、彼らはまだ若い(?)年にもかかわらず、 家族史だけではなく村の歴史についても詳しく知っている。

この村の歴史は48年から始まるという。現在、吉林市内に編入されている当初の場所には当時、 土地が少なく、そこに住んだ大邱、義城、軍威、礼泉、霊泉など慶尚道出身の60戸余りが今の紅光村 に集団移住した。ここに万宝山の慶尚道出身10戸も合流、 70戸で村を作った。

村の建設を主導したのは現在、九台市に住んでいる李ヨンチョ翁(85)。当時管理副主任を引き受けた李翁は、 ここの朝鮮族を団結させて、手のつけられなかった周辺の沼を開墾、米の生産量を大きく増やした。1958年、 人民公社が設立され、飲馬河郷人民公社副社長に就任した李翁は、全国労動模範に選抜され、毛沢東に接見する栄誉も受けた。


▲紅光村の草家。この草家は村の開拓当時に建てられた家だ。


▲紅光村の草家にある梅がつぼみを開いている。


▲去年閉校された紅光村の小学校。学校の建物は村政府の事務室として使われる。

当時、現在の紅光村周辺の長図線鉄道の北側は沼で、人が住まなかった。もちろん周辺には漢族村があったが、 彼らは水を避けて高地で乾田を掘り起こしているだけで、沼だった紅光村一帯の土地には関心を持たなかった。

"漢族たちは水に入って行けば死ぬと思うんじゃないの?漢族はお冷やに足を浸せば大変な事でも起こるかのよう に水を避けるため、朝鮮族が入って来てから初めて米飯の見物をしたんだ"と笑って朴会計は説明する。

土地があっても芝草と雑草、楊柳が生い茂った沼を開墾する事が簡単なわけはなかった。初期の定着民たちは まず近隣の漢族たちの家で下働きをしながら、飲馬河(康熙帝が馬に水を飲ませた場所で、このような名前が 付いた)の水を堰き止めて溝を作った。その一方で家を建てて、真黒な泥地を乾かし始めた。その土は粘りがひどく、 シャベルですくい出せばそのままくっ付いてしまうので開拓民たちは大変な苦労をしなければならなかった。 かといって装備の支援を受けられる状態でもなかった。

こんな苦労をしながら土地を作った甲斐あって、飲馬河米は中国全土で有名な米になり、今もその有名税 として偽物の飲馬河米が出回る。村には噂を聞いた朝鮮族が70年代まで一人二人と集まりはじめ、 遂に400戸の大きな村に成長した。うまく行った時代、紅光村の人々は朝鮮族に村を開放しながらも'慶尚道出身で なければならない'と言う条件を掲げた。気質と言葉が同じで肝っ玉が太い故郷人たちばかりの'慶尚道村'を建設し たかったのだ。その結果、中国の改革開放以後、この村もやはり住民の外地転出が増え、村の規模が縮んでいるが昔 ながらの慶尚道村として残っている。

飲馬河米と共にこの村の自慢の種は、どの村よりも先に進んだ教育熱だ。それほど後世の教育に対する投資も大 きかったし、その結果すぐれた人才も倦まず弛まず輩出し、周辺村の羨望を買った。紅光村の人々は近隣に学校 があるにもかかわらず、72年、村に学校を建立した。.このような熱意はそのまま子ども達の成績に現われた。 文化革命の余波が残っていた70年代後半、その難しい時代にも村の小学校からは13人の大学生が輩出された。 もちろんその中には北京大、北京師範大など中国内で最高の名門として指折り数えられる大学に進学した学生も いて、里人たちの自負心をさらに高めてくれた。

去年、清華大化学学部を優秀な成績で卒業した朴オクダンさん(25)もこの村出身だと住民たちの自慢がすごい。 彼は長春市の朝鮮族中学校が輩出した初の清華大生という記録も残したと言う。今も紅光村には他の村に比べて ひときわ大学生が多いと住民たちは付け加える。

まだ草家が多いのもこのような教育熱と無関係ではない。子の教育が先であって、住む家は多少不便でもどう と言うことはないというのが里人たちの共通した考えだ。

ちょうど、村の前の長図線を通る汽車の汽笛が騒々しく聞こえて来る。親の果てしない教育熱と共に、 もしかするとあの汽笛もこの村の学生たちの向学熱を刺激したのかも知れないという思いがした。

(嶺南日報)


Copyright(C) 朝鮮族ネット