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10.吉林省 梅河口市 山城鎮 華豊村(下)

慶尚道の企業が私たちの街辺りに来てくれれば良いけどね…



一日も息つく暇がなかった華豊村の人々の漢族との争い事は、最近は収まった。昔のように水利権争い をすることも、秋の収穫を守るために不眠不休で番をする事もない。 852畝(1畝は200坪)の水田と70畝の 乾田は、そのまま村の住民たちの所有として残っているが、これらではこれ以上農業をやって行けない。 昼夜を問わず働きながら田を作り、漢族との民族紛争まで起して土地を守った昔のその苦労は、今では 思い出としてのみ残っている。

とはいえ、漢族との感情の溝が一瞬に消えるはずもない。他人に農業を任せながらも、周辺近隣の 漢族に任せず、遠く梅河口から農業を営む人を呼び入れた。やはり漢族だが、化学肥料工場のリーダ ーの経歴を持った彼はこの村長などの信用を得て、村全体の土地を引き受けて農業を営む。こうして、 里人たちの気持ちは楽になった。 '我々同士、水利権争いをするとかないとか、秋の収穫を盗むとか 盗まないとか'だ。先祖たちが必死に守って来た土地を漢族に任せた華豊村の人々は、'子どもも大人も 飲み食いや遊びばかり'という。マージャンもしながら…。

華豊村の人々がわざわざ農業をやらない理由は、他の朝鮮族村と同じである。家族の中に一、 二名は韓国や中国内の他の大都市に出ているので、わざわざ農業をやらなくても経済的な余裕 があるからだ。人々が一人二人と去るのは心配だが、里人たちが村をしっかり守っていれば、 いつかは帰って来るはずだという希望を抱いている。都市に出たところで、何が面白いのかという話だ。

現在、韓国へ出稼ぎに出ている華豊村の人々は120人余りと推定される。行って来た人も70〜 80名にもになる。この村の書記として働いている朴テギュ氏(48)も韓国で11ケ月働い たし、李村長は息子と甥など8人が現在韓国で働いている。 "韓国でお金を儲けて来な ければ、子どもに勉強もさせる事が出来ない"と話すほどにここの人々の韓国行きに対する期 待は高い。ところが韓国に出ることが難しくなって行くほど、ブローカー経費が高くなるという嘆き も当然付きまとう。 6万〜7万元もかかるブローカー経費を勘案すれば、2〜3年ぐらいは不法滞留 をしないと何も残らないとのこと。この村には韓国へ行ったものの、怪我をしてしまい、まともに身動き できない人もいる。モ・サンホさん(28)は、韓国のアパート工事現場で働く20階のエレベーターから落ち 、一命はとりとめたものの、脊椎を怪我したため、今も重労働は出来ない。

このような韓国行ブームと共に、華豊村の人々は家毎に衛星アンテナをつけ、韓国TVを視聴してい るため、いい加減な韓国人よりも韓国事情に明るい。特に韓国の政治状況については、各々一家見 がある。それで韓国記者に会っても細かい韓国事情についての質問はしない。不法滞留者の強制送還 問題が彼らが私たち一行に投げた質問だ。

華豊村の人々のこのような韓国進出のお陰で、隣りの漢族村の中国人たちも韓国行に目覚めた。仲 が良くないといえども、それでもいろいろな情報を得て韓国行に成功する事例が増えているという。

"漢族たちも韓国に行って来さえすれば人間になる"と言うのが李ヨサム村長の寸評だ。中国人たちも 韓国に行って来れば朝鮮族を見る目が変わるということ。 "丁寧な礼節を学んで来て、朝鮮族の老人に 会えば頭を下げて挨拶もできて、自ら周辺を清潔にするなどの衛生的な習慣も持つようになる"と李村長は仄めかす。

韓国がいろいろな面で優れているから、朝鮮族たちも尻馬に乗って肩に力が入るというのだ。

そして李村長と朴書記は、韓国の企業、特に慶尚道の企業が当地に進出する


▲華豊村村長、李ヨサム氏

ことがあれば良いという希望を話す。吉林省一帯を歩き回っているが、韓国企業の誘致を希望 する朝鮮族の村に出会ったのはここが初めてだ。それだけ開放的ということでもあるが、働く所が ないということが大きな問題であるということに、年老いた里人たちも気付いているからだ。

朴書記は、山城鎮には潰れた工場が多く、人力も豊かであるなど、いろいろな面で慶尚道の企業が 進出するための環境が良いと強調する。土地もタダ同然の価格で貸すことができるし、山城鎮一帯の 朝鮮族は慶北人が多く、一緒に働くにも楽だろう。加えて山城鎮は中国でも'小さな奉天'と呼ばれるほど に名声高い鎮で、それに周辺に高麗城もあって、韓国人がここに投資すれば、さらに意味が出て来るはずだと説明する。

話を交わしつつ村をあちらこちら見回して見ると、ぽつんと離れた大きな建物が一つ見える。 1989年に閉校 になった小学校の建物で、今は老人協会が使っている。近付くと李ヨンギさん(77 青島郡出身)などの老人 たちが10人余り飛び出して来る。子供達が遊び回らなければならない学校から、老人たちが出て来る姿にため息が出る。

どこの朝鮮族村でも、一番大きい建物は学校で、後代のために一番広い地を運動場として提供しているが、 いずこも同様に使い物にならなくなっているのが現実だ。せいぜいのところ逞しい華豊村の人々を見て楽しく なった心がまた憂鬱になる。

*李ヨサム村長の悲劇的な家族史

華豊村の逞しい村長、李ヨサム氏の家には悲しい家族史が隠されている。

60年前、柳河県に住んでいた彼の家はとても貧しく、それで子たちを飢え死にさせるよりはましだという考え で親たちが当時六歳だった長女ヒャンラン(66)を他人に与えたことを長らく後悔した。親たちが'それでも、 そんなことをしてはいけない'と思い直して再度娘を探しに行った時は、再び他人に移った後だった。

この娘にまた会ったのは10年後。娘を捜すのをあきらめ、近隣の梅河口市に移って暮していた 李村長の親家に、ある漢族の女人が'ママ'と叫びながら尋ねて来たのだ。彼女は驚いた李村長の親の胸に 跳びこんで中国語で自ら'ヒャンラン'と明かした。

このようにして一生の心残りになった娘を見つけたのだが、親と他の兄弟たちは彼女の行動を見て、また 慟哭するしかなかった。既に漢族に嫁入りし、朝鮮語を忘れてしまい、漢族の女性になっていたが、 "母さん、懐かしかったんです!"と言いながら見せてくれたすね肉が真黒に壊死していたのだ。

漢族の家に引かれて行った後、毎日戸外で親が尋ねて来るのを待っていて、凍傷にかかってしまった のであり、彼女は泣きわめいた。家族たちも言葉を失って同じく悲痛に泣くだけだった。 13歳で漢族に嫁 入りした彼女は、夫に親を捜してくれるよう訴え、その後夫婦はこの村あの村を彷徨った。親の名前も姓も 分からないのに、朝鮮族村を数年の間迷ったヒャンランさんは、とうとう梅河口市で幼い時に目に焼きつい ていた飛行機の残骸で作った洗面台を見付け、なつかしい親の胸に抱かれたのだ。

この村長の親はその後死に、娘が住む柳河県の山に埋めてくれという遺言を残した。遅まきながらでも娘の 姿を常に見守りたいと言い残して。しかし両親の切ない気配り(?)にもかかわらず、ひとり身になったヒャンラン さんは最近、幼い頃の苦労のせいか、いつも病んでいて兄弟たちを焦らせている。

一方、彼女の弟・李ヨチュン氏は、最近この話を小説にして文学賞を受けた。

(嶺南日報)


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