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9.吉林省 梅河口市 山城鎮 華豊村(上)

聞いて下さい、まともな家を11軒潰してしまった事情を


▲漢族たちが自分勝手に占めた空家11軒を潰して作った畑。おかげで華豊村は純粋な朝鮮族村として残っている。

"ここからあそこまでトラックターで家を11軒も潰したんです。あの光景は見応えがありました。 "今思い出しても痛快なのか、李ヨサム村長(55)の声には迫力があふれる。

吉林省 梅河口市 山城鎮 華豊村。2千坪余りになるか。珍しくも村の南側真ん中に菜園と 言うにはとても大きな畑がある。ここがまさに11軒の家をトラクターで潰して作った畑だ。 この村長は今、まともな家を潰してしまった事情を記者に説明しているところだ。

通常の朝鮮族村と同じく、この村もやはり人々が韓国へ、中国内の沿海都市へと出て行き、 漢族たちが'家主が家を守ってくれと言って来た'などのいろいろな口実を設けて、空き家に入って 来て暮し始めた。朝鮮族村が漢族村に比べてきれいで、土地も良いなどのさまざまな環境が優れているため、 どこに行っても朝鮮族村に入って来ようとする漢族は多い。

'このままでは華豊村が漢族の土地になる'と言う危機意識を感じたこの村長は、たまりかねて2002年、 村の住民と一緒に漢族たちに話を持ちかけた後、彼らが住む家を初めからトラクターで押してしまった。 "どこからでも私たちの街に漢族たちが入って来る。問答無用です。"漢族が絶対多数である中国でどう してそんな事が可能なのかと思うが、その後にもこの村長達には何事もなかった。彼はその事を 韓国人に誇れることが、とても気持ちが良いらしい。

"家は個人所有だが、家がなくなっただけのことで、その土地はまた村の所有にな るのです。そんな家だけ潰してしまえば、問題がすべて解決されるということです。"私たち一行としては すっきりとは理解出来ない、初めて聞く論理だが、民族のアイデンティティを守るためにそんな無理な事さえ やってのけた里人たちの勇気に自然に痛快な気分になる。血縁というものはどうにもならない。記者まで も損得抜きで、いつの間にか華豊村の人の味方になってしまう。この村長の話が続く間、'まったく!' 'ひどい!' 'それで、どうしました?'などの感嘆詞が記者の口からし全に飛び出してしまう。まるで久し振りに楽しい昔話を 聞くような気持ちだ。

新らしく生まれた土地は、議論のあげく老人協会の所有に決まった。その畑から出る収入は老人協会の 暮しに大切に使われている。急に住む家を奪われてしまった漢族は、その後、この村長と党書記の家の 前に箪笥と布団などを積み上げ、'ここで暮す'とふんばったりしたが、すぐに諦めて村を去った。

このような騒ぎの末、華豊村は純粋な朝鮮族村を固守することができるようになり、,漢族たちはこの村への 無断移住をあきらめた。

華豊村の朝鮮族戸数は90と。このうち86戸が青島など慶北出身の慶尚道村だ。面白いのは、この 慶尚道村を守るために奮闘しているこの村長の原籍地は慶尚道ではないということ。彼の家の原籍地は 江原道原州という。8人兄弟の長兄がこの村の教師として赴任したせいで、自然に慶尚道村人になった。

ところが排他的な気質が強い慶尚道人々との間で、江原道人が一緒に暮すのは容易ではなかったようだ。 私たち一行を案内してくれたこの村長の弟・李ヨチュンさん(50、長白山雑誌社副主幹)は、"幼い時、どうし て我家は慶尚道ではないのかと深刻に悩んだこともあった"と笑いながら打ち明ける。

村にはところどころ窓さえレンガで隠した家々が目につく。


▲李ヨサム村長が、泥棒が入らないかと心配して玄関に釘を打ち付け、窓もレンガで隠した空家を見回している。

空家が全戸数の半分にもなり、それで泥棒が出没するのを防ぐためにそうしておいたという説明だ。

"こんなことしても意味ないでしょう。窓まで塞いでますが、この方には漢 族たちが屋根を壊して盗みに入るかも知れません。門も壊してね。ひどいもんだよ!" 天下の李村長も、漢族の盗みには頭を悩ます。このような盗癖と一緒に相対的に衛生 観念がなく、1戸を受け入れれば親戚まで引き入れて、村を漢族の土地にしてしまう、と 里人たちは漢族が絶対に足を踏み入れないようにしなければならないと念をおす。村が 空いても漢族に家を売ったり金品を与えれば、土地を没収するというのがこの村の指導者 たちの意志だ。朝鮮族固守政策が里人たちには損失でも、出て行って暮らす人々には都合が良いから大丈夫だと言う。

漢族に対する里人たちのこんな感情は、昨日今日の事ではない。ごつごつした感情の溝は、 土地分配が始まった1962年から、修復不能なほどに深くなってしまった。

漢族に比べて当然一歩遅れて住み始めた朝鮮族は、土地分配以前には同じ生産隊の所属 であった。しかし土地分配が始まって生産隊が朝鮮族と漢族に 分けられ、両民族間の紛争に火が付いた。当時、田は朝鮮族が、畑は漢族が占めるということに 土地分配の方針が決まっていたが、困ったことに、牛一匹が残ったことが発端だった。この牛が 朝鮮族の手に渡ると、漢族たちは激怒し、両民族は農機具を持ってにらみ合った。遂にはこの 村のムン・チャンユン氏(2003年、78歳で死去)が漢族の農機具で頭を叩かれ、多くの人々が棒 叩きにあうという事態が発生した。当時、朝鮮族は50戸だったが、漢族は200戸にもなり、数的に 不利な朝鮮族がやられるしかなかったのだ。

結局、中国政府が介入、牛は朝鮮族の所有になり、両民族は以後、ささいなことでもいつも 葛藤を経験する犬猿の仲になった。子供達も一緒に遊ばず、漢族を避けた。

漢族との民族紛争の最中、村を守った一等功臣は青島郡出身の朴ビョンジュ党書記(2003年、75歳で死去)。 中国政府が功労を認めた軍人だった朴さんについて里人たちは、躊躇なしに'この村を作った人'と、彼の功績を認める。

漢族たちは当時、朝鮮族だけの独立村が生じれば自分らは水田開発ができないなどの損害が生ずると考え、 何としてもこれを阻止しようと努力したが、朴さんは土地はもちろん家も変えるなどの徹底的な朝鮮族アイデン ティティ確保政策を固守、この村の今日を築いたのだという。連日無理なけんかが起る中、彼は常に中心に立っていたし、 そんな彼に漢族たちは手出しできなかった。

凶作の時や村の経済が苦しい時には、朴書記は税金も免除し、食料を備蓄して里人たちが飢えないよう に気配りした。たとえ告発にあっても彼は'では里人を飢え死にするように放っておけというのか'と,堂々と 抗言し、免罪符を受けたりしたということが里人たちの証言だ。 "国家的な功勲のため、私たちが朴書記 に随分お世話になりました"とこの村長も付け加える。

漢族たちとの葛藤は最近まで続いた。春には水利権紛争をしなければならなかったし、秋になれば収穫を 守らなければならなかった。水利権紛争が毎年起るので、村では水の監督者を選出、漢族たちと水を どのように分けるかについて交渉した。

(嶺南日報)


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