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7.吉林省阿拉底(上)

金泉出身の民族指導者、金龍九先生。あなたの熱情は偉大でした!


▲吉林省吉林市龍潭区阿拉底村の全景。吉林市から車で40分余りで行ける都市近郊の朝鮮族村で住民たちの所得と 生活水準が高い先進の村だ。

'沼の上の奇蹟'

阿拉底村は吉林省だけではなく中国全国でも先進的な農村として有名だ。ひと頃、中国全域から先進地域の 見学に来る人々の足が絶えなかったし、中央党幹部たちの来訪も頻繁だった。 長い間に発展した朝鮮族村のモデルで、東北三省の朝鮮族はもちろん漢族たちの羨望を集めて来た阿拉底村を 尋ねる日、 4月下旬なのに早い夜明けの吹雪が舞った。びっくり仰天して上衣をもう一枚着こんで、道を出る。 しかししばらく後、日が昇り'春の雪が溶けるように'雪が溶け始め、気温も上がって、着こんだ服が邪魔になる。

阿拉底村は吉林市から40分余りの距離に位置している。舗装道路が続き、阿拉底村の入口で短い未鋪装道路になる。 そして現われた大きな村。聞いていたとおり、阿拉底村の姿は今まで訪れた通常の朝鮮族村とは違う。やはり未来に 向けて進んで行く村という印象を受ける。きちんと区画整理されたところに一糸の乱れもなく並んだ家々の姿は、 延辺では見つけにくい風景だ。横町と村の中心の通りは広くてきれいだ。動物の糞などで汚なかった今まで見て来た 朝鮮族村とは比較にならないほど清潔だ。この村には放し飼いしている動物がいないせいだ。阿拉底村の農耕で家畜 の役目はとっくの昔に消えた。

都市化された村の入口には大きな村政府の建物とアパート三棟がどっしりと立っている。中国では村毎に中央政府 の縮小版の人民政府がある。党書記がいて、村長がいて、財政会計担当などの幹部たちがいる。彼らによって村の政策が決まる。

村政府の建物の2階会議室では、朴サンレ村長(40)と李ドンボム財政会計担当(52)が取材陣を喜んで迎えてくれた。 朴村長は先祖の原籍地が尚州で、李さんの原籍地は安東だという。

挨拶を交わした後、朴村長に村の現況を説明してほしいと要請した。現在、この村の戸口(住民登録)は2500人。 そのうち80%ほどが慶尚道出身で、安東と尚州など慶北の人々が主流を成している。

村の歴史は1931年に始まる。慶尚道出身であるチョン・キホ一家など7世帯がその年に移住して小作を始めたのに 続き、翌年さらに10世帯が合流して沼地を田に開墾した。彼らは36年、松花江支流である隣近の小川から水を引 き入れ、本格的に稲作を始めた。 45年の光復当時、村の規模は83戸。もちろん今と比べて見たら比較にならない小さな規模だった。

その後阿拉底村が繁盛を続け、今のような指折り数えられるほどに都会化した村として名高くなったのは、ある民 族指導者の献身的な努力が決定的な役目をした。故・金龍九先生(1914〜80)。金泉出身である彼は、54年軍か ら除隊した後、錦州郷党委員会副書記として働いてから、下級職である阿拉底村の党書記に志願した。

当時の阿拉底村は住民たちが古くさい草家で暮し、やっと食事を間に合わせる程度のつまらない村だった。金党書 記は60年代初、松花江の日照り対策に乗じて灌漑水路を利用し、発電施設を揃え、村に電気を引き入れた。引き続 き彼は近隣の11の沼を埋めて田を作る大事業に取り掛かった。ぶっ続けで3年にわたって里人たちと共に100万立米 の土で沼を埋め立て、田に作り変えた。


▲阿拉底村のアパート前の舗装道路を耕運機が通っている。延辺地域の朝鮮族村と違い、農業から家畜は70年代に駆逐された。

こういうわけで阿拉底は田が360ha、畑が40haに至る富裕な村になった。 65年頃、 村の規模は大きくなり360戸、1300人に至るまでになった。各地の朝鮮族を受け入れた結果だった。 つまり阿拉底は我が民族の初期の移住地域ではなく、2次的な移住地域ということになる。

71年には耕地整理に取り掛かった。また3年がかりの努力のあげく、土地が生じたまま荒れていた田が、 平たく四角く整えられた。機械化されたのだ。 78年頃、阿拉底村の米生産量は1人当り1200kgに至る。国家 に納めた税金だけでも米1千トンに達した。当時、吉林省政府はこのような驚異的な阿拉底村の成果に驚き、 これに習い普及するという決断を出した。

中国全域でおぞましい破壊が進んだ文化大革明(1966〜76)も、この村は免れた。外部の勢力が村の指導者であ る金龍九先生を売り渡そうと画策したが、住民たちは村の仕事は村で決めるという意向を曲げなかった。 おかげでこの村では闘争の対象になったとか監獄へ行った人は一人もないという誇らしい記録を残した。

文化大革明の渦中にも阿拉底村の発展は止まらなかった。レンガ工場、瓦工場、木器工場、農機具修理工場 などをこの期間に立てた。集団体制経済が成功をおさめると、今度は住宅建設と幼稚園、病院、町内会館など を建設する事業に取り掛かった。レンガ工場などもこのためのものだった。住宅建設事業に入って行く当時の68年、 阿拉底村の所帯数は362戸。住民たちが新たにレンガと瓦で建てた家に金党書記が一番先に入居しなければならない と申し立てたが、金党書記は"私は362番目に建てた家に入る"という固執を曲げなかった。

80年までに新たに建てた住宅は317戸。阿拉底村繁栄の礎石を作った金党書記は、結局新居に入れないまま、 草家で死んだ。もちろん彼の死後、阿拉底村人々は目標どおり所帯数位のレンガ住宅を建て、それでも足りず今は アパート団地まで立ち並んだが、まだ里人たちは彼の功を忘れることができない。

対価を望まず、不毛で油気のない土地で我が民族が根付くように献身した民族指導者の生涯が、記者にも言い表せ ない感動を呼んだ。ふと満州で収集した本で読んだ詩が思い浮かぶのも、その強い感動のせいだろう。

この世の中、そのどこに行き着くのか/私は本当に誇りたい/私が学んだ一番重い言葉で/ 私は朝鮮民族だ! …中略…私が行く道/私が担う荷物があまりにもよく分かる/たとえば私が/この世の果ての名もない谷で/はかなく 煙のように消えるとしても/私は間違いなく忘れないだろう/私がこの世の中で/朝鮮民族として生きたということを! (キム・ハクソンの'私は朝鮮民族だ'より)

*阿拉底村の名前の由来は。

阿拉底という珍しい村名は、満州語に由来する。'阿拉'は満州語で'丘'という意味で、 '底'は'下'という意味がある。つまり'丘の下の低い地'という意味になる。実際に阿拉底村は 周りで一番低い地帯の沼だった。それで水はけが悪かったし、農業開墾にも有利だった。

(嶺南日報)


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