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6.発財村(延辺 安図県 明月鎮)

まったく!苦労に苦労して土地を掘り起こしておいたら漢族がしきりに入って来て暮せなくなる
漢族が村の住民の半分を占める
朝鮮戦争参戦も彼らには自慢の種
金日成部隊も一帯で活動



▲藁束を持って村道を歩いている黄ミョンシクさん。彼は朝鮮戦争に参戦、烈士の称号を受けた。

中国朝鮮族村の名前には住民たちの夢が込められている。自ら開拓した村であり、 考えて見れば昔から伝わる村の名前などあるはずもなく、それで頭を突き合わせて相談してつけた 名前には子々孫々幸せに暮らせるように願う希望が込められるのが当たり前だった。太陽村、紅光村、 金風村、朝陽村、民楽村….白頭山に行く途中、財物が集まるようにという意味で村の名前を発財だと 名付けた慶尚道村があつた。ここも村の前に小川が流れ、背後には低目の山が視界を遮っている典型的 な背山臨水の地形になっている。既に朝鮮族の村を数多く訪ねたので、村の形には何の興味も感じることができない。

村長の家を尋ねて行くと、老齢の男が赤んぼうを抱いて立ち上がる。 "いらっしゃい、座りなさい"と言いながら。 しっかりした慶尚道訛りだが、なんとなく言い方が少し訥々としているなと思い、朝鮮族かと聞いてみた。漢族だ そうだ。朝鮮族村、それも慶尚道の村を尋ねて来たのに、漢族の村長とは驚いた。

ところがその漢族の村長が慶尚道訛りを使うという事実が、ある意味で好奇心を刺激する。チャン・ドゴル村長(53)の夫人 ワン・ヨンミさん(49)もやはり漢族だが、韓国語がうまい。彼らはこの村に住みながら自然に慶尚道の言葉を学んだのだ。

ワンさんが老人会長を呼んで来ると言いながら出る。すぐにワンさんと一緒に入って来た老人会長の朴サンギさん(67)は、 既に酔っ払ったように一杯お酒を引っ掛けた姿だ。慶南・山清郡が故郷である朴さんは"母の腹の中にいる時に満州に来た"と言った。

1990年と95年の二度韓国を訪問した事があるという彼は、自分の姉のところに行くと詳しい話を聞くことができると記者を 案内する。獣の糞が散らばった村の横町を通って彼の姉を尋ねる途中、朴会長は"以前にはみんな朝鮮の人だけだったのに、 よそ者達がしきりに入って来る"と大声で不満を打ち明ける。声がなにしろ高くて、もし漢族たちが聞けばどうするのかと 不安になる。ここの漢族は韓国語をすべて聞き分けるというのに…。

ところが"よそ者達めが!よそ者達のせいで、たまらんわい!"と彼は声をさらに高める。横町の小さな菜園で働くある老人が 腰を伸ばす。そしてにこりと笑って"よそ者で悪かったのう。今更どうしろというんじゃい!"と言いながら茶々を入れる。 それでも朴会長は平気だ。 "よそ者だからよそ者と言うたんじゃい。朝鮮の人を見てよそ者と言うたかの?ところで! 韓国ではよそ者を見て何ていうのかね?"と言いながらからから笑う。

朴会長の姉の家は草家だ。出世した子たちが都会から一緒に暮らそうと勧めても、姉は一人で生活をすることにこだわる という朴会長の説明を聞いて、入った家は外形のとおりに狭苦しい。部屋と台所が一緒になった一つの空間。家に入ると 粗悪な容貌の朴会長と違い小さなお婆さんが"はやく来なさい"と言いながらほほ笑む。一行が腰を据えると、 たちどころに町内の年寄りたちが一人二人尋ねて来て席を共にする。

朴ジョンスクさん(78)。 11歳の時、1937年、親に付いて慶南山清から移住した彼女は、当時をはっきりと憶えている。 故郷で食べる事が出来なくて苦労した記憶からここに来て経験した事まで。

"私たちの父の名前は進出です。父が私の手首を放したり取ったり、怒ったり小言言ったりしましたが、結局は私を 連れて来たんです。"あの時、山清から30戸が移住して来た。彼らは満拓の指示に従って、当初には現在の村からちょっと 離れた所に一応居所を決めたが、漢族たちが畑に水が入って来ると言って田の開墾を阻むものだから、8戸がここ発財に移りました。

当時、発財はいちめん木と草だけの荒地だった。しかし水は豊富だった。彼らは先にこちらに来ていた金海と居昌地域 の住民40戸と力を合わせ、荒れ地を田に開墾し始めた。幸いにも開墾した土地が肥えていて、農業に適していた。

しかし日本の横暴が問題だった。農業をやってさえいれば食糧も残さずにすべて奪って行った。日本の岡っ引きに成り済ました '張'という人の横暴は村の人々が今でも嫌っているほどだった。

日本人たちが盗賊が来ると警告する度に、常に隠れなければならないのも苦役だった。日本は本当の盗賊と抗日勢力を ひっくるめて土匪と呼んだ。当時、金日成部隊もこの一帯で活動をしたと住民たちは回顧する。金日成部隊も他の土匪たち と同じくひと晩に7つの里を襲い、食糧を盗んだりもしたが、意外にも発財の人たちは彼らに敵愾心を見せなかった。

'共産党があったから私たちが生活出来るのです。なかったらどうやって暮せたのか'と言う住民たちの言葉で、ここが中国 であることを実感する。抗美援朝(朝鮮戦争)参加も、彼らには自慢の種だ。慶尚道出身でありながら故郷の人々に銃口を向けたこと を申し訳ないと思う意識は彼らにはない。ただアメリカの侵略に対抗して母国を支援したという自負心を持っているだけだ。 黄ミョンシクさん(78)はこの村から朝鮮戦争に参戦した6人の中の唯一の生存者で、烈士の称号を受けている。 中国政府が去年、新たに彼の家を建ててくれたりした。抗美援朝当時の武勇談を披露してくれた黄さんは、 朴会長が"韓国の人々にそんなことを自慢してはいけませんよ"とたしなめると、恥ずかしそうにうつむき黙ってしまった。 仕方なくぶつかった歴史のくびきで、我が民族はまだ自由ではないんだなという物悲しい思いになりながら老人たちに続きの話を求めた。

光復、中国の共産化、抗美援朝など歴史の渦の中でも慶南人たちは力を出して発財一帯の地を全て田に作り変えた。 噂が立つ中、70年代まで他の朝鮮族たちの移住がずっと続いた。村の規模は付近では皆が羨ましがる位になった。戸数も70戸に達した。

漢族たちの移住は50年代の初めからだった。チャン村長の父親が最初だった。医者が必要だというので、里人たち が医者である彼の移住を容認してくれた。それがきっかけで漢族が一人二人と移住し始め、既に漢族が半分程になる。

一緒に暮して見ると、今は漢族たちも稲作をするし仕事もする。ところが朝鮮族たちは食べて遊ぶことが仕事だ。 若い人々が韓国に出て働き始めながらもたらした事だ。耕作して儲けるお金がいくらにもならないから、初めから 漢族たちに任せてしまう。それで大変な苦労をして作った田が、また畑に変わっている。

韓国でお金を儲けて来た人は村を離れる。現在、韓国で働いている人も帰って来れば村を捨てるのが確実だ。 生活環境と教育環境が、仕方なく若い人々を外地へ追い払うのだ。発財小学校は87年に門を閉ざしたと、 近隣の小学校からも朝鮮語クラスが消えた。

"以前は我が家みたいだったが、今は雑菜みたいになってしまった。"金ヨンウンさん(73)がため息をつく。

村を離れる時、'元気で行きなさい'としっかりと両手を握って挨拶をする朴婆さんの姿を見て、なんとなく胸が切なくなった。

(嶺南日報)


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