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5.延辺 安図県 新村(下)

半世紀守って来たルール'漢族達を入れるな'


▲雄大な木の垣根が打たれた新村の菜園。あるお婆さんが垣根にもたれて休息を取っている。

李サンジュンさんに元々日本によって作られた場所を見せてもらえないかと頼んだ。村の前の道路を 少し外れて山裾を右側に曲がり、5里ほど上がると、移住民たちが当初開拓した村の敷地が現われた。 まさに村の住民たちが当初連れて来られ、土塀を積むために田畑を開墾するために、手足の指の爪が すべて抜け腰を伸ばすことができなかった場所。しかし今は土塀と村の痕跡は跡形も無く消え、大きな草むらに様変りしていた。

この老人はあちこちを示して、当時の情況を説明してくれる。土塀の大きさは四方150mほどはあったもの と思われる。その土塀の前後には大門があって四隅には見張り台があった。草木が繁茂した平地でもない この谷間を開墾し、日本の監視の下、自分らを閉じこめる土塀を積んで、木柵と鉄条網をかけた当時の移住民 たちの苦労がひしひしと伝わる。向かい側の山裾にも、当時、彼らの開墾した畑が残っている。この土地は まだ彼らが所有している財産だ。向かい側の畑の隣近には当時、彼らが飲んだ、美味しい水の湧く泉があった。 村の人々は故郷慶尚道で飲んだものと同じようだったその水の味を忘れることができず、新村までパイプで連結 して今もこの水を飲んでいる。

下りて来る途中、道路周辺の山裾に20基ほどの墳墓があった。一団となって集まっている墓地には光州盧氏、 草渓鄭氏などの碑文が目立つ。セメントと岩の碑石が生々しい。墓場には牛糞と馬糞が散乱しており、 たまに墓参りに来た人々が残したプラスチックのボトルや花も目立つ。新村の人たちは清明(春の節日)と 秋夕に墓参りをすると言った。今更のように墓を一つ一つよく見るこの老人の表情が暗い。

黙々と墓を眺めた老字に、故郷へ行って暮したい気持ちはないのかと聞いて見た。 1992年、故郷に行って 来たという老人は首を横に振る。

"普通に暮らすのがいいでしょう。韓国は随分と発展しましたが、それでも経済水準が低いからなのか、楽な 暮らしを望むならここの方がよいでしょう。食糧に困ることもないし…。"しかし言葉を濁ごす老人の表情が寂しい。

村に帰って来て隅々をしげしげと観察した。ここの家々は専ら壁土の家だ。水田を耕作しながら奮闘した ここの住民たちの努力の結果だろう。家毎に菜園があり、その菜園には板垣根が巡らしてある。板垣根は 放し飼いしているニワトリたちから野菜などの農作物を保護するためのもの。せせこましく鶏小屋を作って 閉じこめる私たちとは違う豊かな余裕が感じられる。

それでもわざと惚けて住民に"鶏小屋を作る方が楽なのに、どうして菜園を板垣根で囲うのか"と聞くと、 "鶏小屋を建てるのは大規模に養鶏をする人々がすることであって、私たちは何匹も育てないからこのまま過ごすのだ"と言う。

新村は過去から周辺の中国人たちから羨ましがられて来た裕福な村だ。今も中国人が入って来ては住まわ せてくれと頼んで来るが、断っている。何年か前、ある住民が中国人に家を売ったが、'税金をたくさん 払わなければならない'などの理由をつけて諦めさせた。もちろん家の代金は村で返した。村の政策は漢族 が入って来れないようにすることだと住民たちはきっぱりと釘を刺す。そして住民たちは、純粋な朝鮮族 の村は私は延辺広しといえどもここしかないと自慢する。他の地域で朝鮮族だけの村を見たと話しても無駄だった。それほどに


▲食膳を囲んで座り、酒を飲む新村の人々。ここも家屋構造は台所と部屋が一緒にある咸鏡道式だ。

朝鮮族村を守ることに対する住民たちの自負心が強い。

住民たちはまたこの村ほど私たちの伝統風習をよく守っている村が他にはないという自慢もしていた。農楽を 延辺一帯に広めたのが、まさに新村だと主張する。このために朝鮮族農楽競演大会に行って見れば、旗竿など すべてのものが自分達のものとまったく同じだというのだ。

満拓時代にも農楽を楽しんだこの村の人々が、その後農楽を納めるために労力して来た情況は感慨を催すのに 充分だ。文化革命の最中で少数民族固有の風習が民族主義に追われて批判され、農楽もこれを避けるこど出来 なかったが、この村の住民たちは鉦を屋根に隠すなどの苦労のあげく、これを守り通した。文化革命が終わって また農楽が出来るようになると、彼らは牛の皮で太鼓を作るなど、楽器を新たに新調して服類と帽子などを揃え て延辺に新しい命を吹き込んだ。もちろん今も節日になれば農楽で新村周辺の山野が賑やかになる。

このような自負心にもかかわらず、老人達は村の未来を心配する。韓国ブームに影響されて若い人々が仕事をし なくなり、金儲けして来る人々はより条件の良い所に行ってしまい、村の姿がますますみすぼらしくなって行く のだ。村の若者の中には、今も韓国に行って長期滞留したまま帰って来ない人々が多い。親にまともにお金も送 ってくれない場合もある。残っている青年や中年も出て行くことばかり考えている。だから空き家が増えて行く…。

ますます劣悪になって行く教育環境も、新村など朝鮮族村の解体を促進する要因。近くの五峰村の朝鮮族小学校が 閉校になるなど朝鮮族の学校が相次いで門を閉め、子どもの教育問題がもはや気にならないのか。まだ隣近に朝鮮 族小学校が残っているのが、せめてもの幸いだ。この村では初等学校に通う子供達が三、四名はいる。ところが 問題は小学校の後、通学するには距離が離れた長興郷の朝鮮族中学校や延吉等へ留学するしかなく、親の経済的 負担が並大抵ではないことだ。そのため、少数民族は二人まで出産することができるようになっているにもかか わらず、子供を一人以上生む朝鮮族家庭が珍しく、その結果、農村地域の朝鮮族村の人口は激減している。

一時は70戸全てが慶尚道人で満たされた新村で、今は慶尚道人はやっと半分を越える程度。慶尚道人が去った後 を咸鏡道出身者たちが代わりに入っても、空き家が十軒余りにもなる。若い方に属する李キョンヨル氏(52)は、 "私たちはまだ慶尚道の言葉を使うが、これからは言葉も変わるのではないか"と心配する。

去ろうとする一行を李キョンヨル氏が引き止めた。 "私たちのマッコリ(濁り酒)の味を一口味わって行きなさいよ"と言いながら。

まだマッコリを作って飲むという話で、その味が気になり座りこんだ。食事をしながら囲んで座った人は、私 たちの一行まで合わせて合計10人余り。煙突を作るために鋸で切断をした人々が皆集まる。ある家で仕事をし てくれればその家でご飯を食べるという慣習も私たちと同じだ。食べ物の味と人情も。李キョンヨル氏は"我が村 には今でもゴボウを食べるし、穀物をつく臼も使うのです"と言いながら慶尚道出身であることを誇る。

そのような自負心がこれからも続くことを希望しながら車に乗る一行に、この老人が別れの挨拶をする。 "次に私たちが農楽をする時に来て、一緒に遊びましょう"と。

(嶺南日報)


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