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4.延辺 安図県 新村(上)

'ナムドチ'ら日本に騙されて苦労に苦労


▲新村の全景。慶尚道の人々が開拓したこの村は、まだ純粋な朝鮮族村として残っている。

'沃土とはいうけれど…

白頭山に行く途中にある安図県明月鎮で道を聞いて右側に入る。幅が10mほどになったように見える溝に沿って付いた道を走りながら 人に出会う度にまた道を聞く。低目の丘陵と溝の間に付いた道の左右には、しきりに分岐道が出て村が現われる。 しかし新村は簡単には現われない。

そうして随分と走ると、大きな村が現われ、村の中央でバスを待つのか、杖を抱きしめて道端に座っているお婆さんに会う。 ひと目で朝鮮族と分かる風体…。韓国語で'ここはどこか'と問うと、お婆さんは強い慶尚道訛りがまじった言い方 で'五峰村'と知らせてくれる。そのお婆さんからこの村は漢族と朝鮮族がまじって暮しており、朝鮮族よりは漢族の数が 多いという情報を得る。私たちが探している新村は次の村だという話も。

密陽出身だというお婆さんを後にしてしばらく走ると、たちどころに新村が現われる。五峰村とは10里ほど離れた距離だ。 かなり低い山の麓に陣取った村。周辺の自然景観が私たちの自然に似ている。しかし村の形は私たちのそれとは非常に異なる。 典型的な中国農村の姿をしている。ただ六角形の屋根の姿が漢族村ののっぺりした四角形屋根とは違う。延辺地域の朝鮮族村の 屋根は漢族村の屋根よりは少し複雑な姿をしている。

村の中を道路が通る。村長の家を尋ねたが、彼は外出中だった。菜園で働いていた村長の奥さんの駆使する言い方は咸鏡道訛り だ。慶尚道村だが延辺地域で相対的に多くの咸鏡道出身者との接触を通じ、地域色が徐々に薄くなるのは仕方ないだろう。

老人会長の職責を引き受けている李サンジュンさん(72)の家を尋ねる。李さんの家は村の上り口の最初の路地の一番内側だ。 路地に入って行く瞬間、鼓膜を裂くような騒音が聞こえて来る。村の青年達が耕運機に丸いトップを連結させて、木材を加工 しているところだった。木材は煙突を作るのに使うという。台所と部屋が同じ空間にある咸鏡道式の住宅構造では、煙突が 何よりも重要だ。ここの家毎に煙突がにょっきりと立っている。煙の排出にそれだけ気を使っているという証拠だった。

青年達と共に仕事をしていた李さんは尋ねて来た理由を説明すると"今忙しいのに…"といいながらも気経に家へ案内する。 陜川郡が彼の故郷だ。この老人は1938年、陜川40戸、密陽20戸など200戸余りが一緒に満州へ移住した当時、親に付いて来た 移民1.5世代だ。

"親父が他人の家の仕事もしていたが、満州に行けば土地が広くて、家もあって、土地も肥沃だというから来たのです。"

李さんが明らかにした家族の移住理由は、大部分の満州移住民たちと同じく、貧乏のためだった。

李さん達は当時、大邱に集結した後、元山、図們、安図を経る列車に乗り、満州へ移住した。その年3月28日、安図県明月鎮駅に 下りた移住民たちは、明月鎮の満拓会社の庭先に集まった。 3月といっても、ここの気候は韓半島南側とは大いに異なっていた。 まだ四方が眩しい限りの白雪の山野だった。寒さに震えて、後悔と恨みもして見たが既に遅かった。満拓は100世帯は福興郷へ、 残り100世帯は長興郷へ移住先を割り当てた。


▲慶南・陜川出身の李サンジュン新村老人会長

長興郷に割り当てられた100世帯はさらに40世帯、60世帯に分けられた。現在新村に暮す人々は当時60世帯に割り当てられた人々 だった。牛車に農機具などの荷物を積んだ後、見かけだけの開拓団は山里の道に入った。明月鎮から割り当て地区までは50里 の道。谷間を流れる小川の回りは草むらで、周辺の山は薄暗い原始林天地だった。日本が開拓団を募集しながら'肥沃な茂山千里' '好衣好食の楽土'と話したことは、真っ赤な嘘だった。しかし今となっては彼ら他の選択はあるはずもなかった。

割当区域に到着した60戸は、満拓が割り当てたとおり、他人の家への同居生活を始めた。当時、今の新村周辺には既に朝鮮人た ちが進出していた。五峰村は当時にも漢族と朝鮮族がまじって住む村だったし、その周辺にも他の朝鮮人村があった。一歩遅れ て来た人々には谷の地が与えられた。食糧では1戸当たり粟一麻袋ずつ配給された。もちろん秋に返さなければならない借金だった。 朝鮮にいる時はそれでも麦飯ぐらいは食べていたのに、満州へ来て粟とじゃがいもが主食とは情けなかった。野菜とは大根の切れ 端と白菜だけだった。

到着した三日後から家家の世帯主たちは人が住まない谷間で家造りに動員された。小屋は木を切る監獄だった。残りの住民たち は鍬とシャベルで荒地を耕し畑を作って、そのままじゃがいもととうもろこし、豆を植えた。しかし農業がうまく出来るわけが なかった。韓半島の南側とは気候が異なり、農業の方法も変えなければならなかったが一瞬にして新しい農法に 習熟することはできない事だった。食べることもままならず、粟ともやしのおかゆにて生き延びる家が数多くあった。 満拓は二つの家に牛一頭ずつを貸してくれたが牛を使うことができない'ナムドチ'(延辺で南韓出身者たちを称える呼称) らは、背負子だけですべての事を解決した。 50里ほどの距離の明月鎮から食糧を運ぶ時も、背負子で背負って運んだ。冬 には満拓からの借金を返すために炭を焼いた。耐えられずに逃げ出す家もあった。

このような状況で、日本はまた集団部落を作ると、彼らが開墾した土地と家があった隣近の山の中腹に土塀を積むことを強要 した。朝鮮の独立軍、中国の共産党と国民党などの抗日勢力から住民たちを隔離させるため、日本は1930年代中盤以後、 満州全域で集団部落政策を実施したのだ。

土塀が完成されると、その外側には奥深い窪みを掘って、さらに木柵と鉄条網をかけた。

谷間を開墾して耕地が増え、水田も開発して生産量が多少増えると今度は無謀な供出が始まった。日本は暮らしに必要な 食料も残すことなく無制限に供出、村の人々の苦労は前と変わることがなかった。じゃがいもで命を繋いだ住民たちは、 日本の目を避けて誰もが食糧を隠す術を覚えて初めて生き残ることができた。

光復の後、供出がなくなり、生活が多少は楽になったが、既に故郷への道も遠くなってしまった住民たちは閉じこめられ て暮した谷間の地を捨て、また周辺の住むに値する敷地を探しに出た。現在彼ら住んでいる新村が、この時村の住民たち が移住した所だ。移住は1949年に始まり、1950年に終わった。

(嶺南日報)


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