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3.延辺 汪清県 東新郷 太陽村<下>

初めは小屋に僅かな粟で生き延びました"


▲延辺朝鮮族自治州でも島のように孤立している慶尚道村、太陽村から、ある住民が牛車に乗って村の入口を抜ける。

"食糧が豊かで、じゃがいもも太くて、大根も大きくて背負い切れない"という日本の誘いに乗った住民たちがこの地に到着した後、 村を開拓した話を聞かせてくれと言うと年寄りたちは皆同様に"その苦労をどのようにして言葉で表現出来るか"と言う反応を見せる。

四方には木しかなく、土地は凍りついた泥沼だったが、刀をさした満拓職員達の監視の下、慶北の人々は荒れて寂しい満州の土地で 生活の糧を捜すしかなかった。まず木を積み上げ、その上をむしろで覆って、底には木を敷いた後、さらに覆った小屋を作って寒さ を耐えなければならなかった。周辺に薪が十分にあるということが、それでも幸いだった。腹一杯食べることを夢見た住民たちに 配給されたものは、僅かな粟。 その粟でおかゆを炊いてやっと空腹を満たした住民たちを急き立て、満拓は村をぐるりと囲む土塀を積むように命じた。 土塀の外には木柵をかけ、それでも足りずに鉄条網までかけろというのだった。夜盗を阻むためという名分だったが、 人々が逃げだすことを阻むための目的であることも隠さなかった。

村の東には駐在所の分所が立っており、巡査一人と朝鮮人の岡っ引きたちが人々を見張った。言うことを聞かない住民たち は分所に引かれて行って鞭打ちに耐えなければならなかった。

"背負って運んだ土嚢を何枚かずつ積んで土塀を築きました。それが賦役でした。"ユン・ヨンギュさん(75歳、安東市出身)の証言だ。

大人二人分の高さの土塀を積むには3〜4年かかり、日本はその事を早く終わらせるために妊婦と病弱者たちまで強制動員した。 土塀を積む一方で、住民たちは凍った地をくわで耕し、氷がそのまま残っている水中に入って行って水路を開き、田を耕した。 手足は忽ち薄赤く脹れ上がり、凍傷患者が続出した。食べ物がなくて常に飢えたうえに、病魔まで重なって住民たちが死んで行く ようになったが、彼らの仕打ちは止まなかった。

'家を作り、土塀を作り、畑を耕し、食べ物を作り'、死ぬほどの苦労をして少しずつ食べるだけ食糧が出ると、今度は供出が始まった。

尚州郡から親といっしょに三歳の時こちらに来たというウ・チャンドク婆さん(73)は、その後還暦になるまで爪を切ったことが ないと言う。

遅れて独歩室に入ったキム・ソンニムさん(78)に'故郷がどこですか'と声を掛けると、"聞慶だと言う。私は故郷にも行けないまま 随分と老けましたね。聞慶鳥嶺の麓にところどころ家があって尖ったような軒先があるところに行って見たことありますか?"と問い返す。 去年、延辺科学技術大アン・ビョンヨル教授の斡旋により、ここの老人10人が故郷を訪問したが、あの時参加することができなかったことをお婆さんはつくづく残念がる。

独歩室の壁にかかっているチャンゴが目についた。今も農楽をしているのか気になっていると、年寄りたちは異口同声に"チンもあれば ケンガリもあるが、今となっては叩く人もいない"と物悲しく答える。

村長の家でお昼を調えたという伝えられて村長のジュ・キジョンさん(47)に付いて出ながら、韓国へ働きに行った人々の状況を聞いて 見る。この村から韓国に行って来た人が5人、現在行っている人が10人だという。お金をたくさん稼いで来ましたか?という質問 には"金儲けしたんでしょう。いえ、判るもんですか"と答える。いくら同じ村に住んでいても、詳しい内情は分からないと言い たい様子だ。

新たに板をつけて盛土をした村長の家庭にはかなり低いビニールハウスがある。 苗代だ。 あまりにも寒い所なので風を阻んで くれる垣根の中に設置したのだ。 ビニールハウスの横には木で壁を作った深い窪みが見える。 少なくとも 2〜3mはあるように 見えるこの窪みは、ここのキムチ冷蔵庫だ。 あまりに気候が寒くて深く掘り下げてキムチを漬け込んだ壺を埋めるしかない。 その代りに 6月までは安心して食べることができる。

村長の家も独歩室のような姿だ。 長い部屋の中では昔、引き戸で部屋を二つに割って使った跡が見える。

台所の鋳物釜では白い蒸気がしきりに吹き出ている。 豊かに調えた上には珍しいナムルが載っている。漬け込んでないタンポポ で作ったおかずだ。 この寒い所で若菜が


▲ ある住民が村の倉庫地下にあるキムチ甕からキムチを取り出している。 土中深く保管されたキムチは、6月でも新鮮だと自慢する。

珍しい時、タンポポは立派な野菜の役目をして来たのだろう。

敬虔なクリスチャンであるアン教授とよく接触をして来たせいか、お酒を飲むことができないと遠慮すると、一緒に囲んで座った 村の人々は"それなら無理しないで"と言って無理強いはしなかった。

酒席を避けて外に出て東を眺めると、村の外れに貯水池の堤防のように見える土塀がそのまま残り、苦難の歴史を無言のままに 証言している。

村の西の方にはこの村では一番大きな建物がある。去年閉校になった太陽小学校だ。 20年前、住民たちの手で建てた学校だが、 歴史は20年で締め切った。村の規模が縮小し、とにかく学生が不在で閉校されたのだ。運動場には学生の代わりに柳がグルリと 取り巻いていて、学校の壁には勤勉・誠実という教訓がはっきりと書かれているが、この教訓を学ぶ学生はこの村にもはやいないのだ。

村の中の原っぱに青年逹が集まっている。新たに買って来た播種機を前にしてメリット・デメリットを論じて押し問答をしているが、 簡単には結論が出ないようだ。ある青年がとうとう牛をひいて来る。 "とにかくやってみよう。やってみれば判ることだ。 牛を待機させると、青年両名が播種機を持って近付きながら吐き出す言葉も慶尚道訛りだ。 "周りの人、どいてくれ。"

牛に播種機を繋いだ青年が豆を一握り播種機に入れた後、5mくらい駆って行き、止まると青年達は一斉に腰を曲げて種子が 植えられた深みを確認する。それからはまた口論が始まる。もっと深く植えつけなければならないとか、土地が乾いている からであって雨が降れば大丈夫そうだとか….確かに私たちの農民たちの姿だ。

彼らの中で一番若く見える人に会った。李ジュンクンさん(28)。彼も農民だ。 "こちらにはもう娘がいないといいます。 どうやって結婚しますか"と水を向けると、"そういう時代なんですから、仕方ないでしょう"と目障りそうに答える。 独身の李さんは農業をやり、母親はソウルで食堂の仕事をすると言う。自分も韓国へ金儲けしに行きたいが、 ビザが出ないと残念がる。それだけでなくこの村に残っている青年・壮年は都合さえよければ皆韓国に行きたがる。 一度韓国に出て、11ケ月ぶりに不法滞留者の身分がばれてお金も儲けられずに送還されたチャン・テヨンさん(54)も同じだ。 彼は韓国に嫁いだ娘が病気になった知らせを聞いて、二度三度韓国領事館の門を叩いたが、不法滞留の前歴のため、 いつも無駄足になり地団太を踏んでいる。

ちょうど横町を通り過ぎた李チョルミン君(14)を呼び止めた。平日なのにどうして学校へ行かないのか気になったからだった。 もぐもぐ言葉尻を濁ごす李君に代わって周りが説明してくれる。李君の事情は簡単だった。東新郷の所在地にあった朝鮮族の 中学校が門を閉めたせいで、漢族の中学校に移ったが、適応できなくて遊んでいるというのだ。この村の子供達は大部分の 大人たちのように中国語をまともに喋れないという説明だ。隣近の村から10里ほど離れた、陸の孤島・太陽村で教育を受 けた子供達だから、仕事なら理解出来るが、それでも中国人として生きなければならない子供達ではないか。 何ともいたわしい事だ。とにかく将来のためにも諦めてはいけないと諭し、恥ずかしそうにうつむく李君を放してやった。

少しのの出会いだったのに故郷の親戚でも会ったように喜んでくれた太陽村の人々と別れるのが辛い。 うちの連中が去ってからは老人たちは再びしばらく郷愁に苦しむはずだ。ところが記者に元気でという。 それでこそまた故郷を尋ねる日があるはずだという儀礼的な挨拶しか彼らに与えることが出来ない。車が村を すり抜けて来た後に振り返ると、老人たちはずっと見送っていた。

村の外道向こうには67年前からこの村の人々が開拓した農土が拡がる。農道に牛の放牧場が過ぎ去り、 その横にはちいさな小屋が見える。あの小屋の中には、異国で故郷を想いつつやるせなく死んだ慶尚道の 人々を葬った名残があるだろうし、この土地を迷う悲しい魂たちがまだその周りにとどまっているかも知 れないという思いに今更ながら感懐が深くなる。

(嶺南日報)


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