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2.延辺 汪清県 東新郷 太陽村<上>

"どうして来たのですか?"親しみ深い訛りそのまま


▲村の住民たちがこの村の後援者であるアン・ビョンリョル教授(前列右から二番目)と一緒に村の独歩室前で記念撮影をした。

1937年2月、吉林省汪清県天橋嶺駅にぼろぼろの白衣を着た一群の人々が到着した。 目を開けて見られないほどのボロを着た人々の中には、年寄りと赤ん坊もまじっている。安東、 礼泉、聞慶、尚州等の地で非常に暮らしにくかった植民地の貧農218戸が、住みやすい満州の土地 をを無償で与えるという満州拓殖会社の言葉に導かれて二万里、不慣れな所へ希望を抱いてやって来たのだ。

数日間の汽車旅行でくたびれた、気力の失せた人々は、心配そうな表情で汽車から降りるやいなや、 生まれて初めて経験する零下30度の寒さにびっくり仰天しながら身をすくめた。そしてその寒さ程に 自分らに迫って来るこれからの運命が甘くないことを悟った。

周りの山河は皆雪で覆われていて、小川には厚さのわからない氷が複雑な心さえ凍り付かせるほどだった。 すぐに一団の引率者たちが現われ、人員点検をした後、数百人の群れを道もまともにない山里に連れて行った。 今になって帰ることもできない人々は、真っ青に血の気のひいた顔にわなわな震えながら諦めたように続々と出て行った。 外に出た子供の足は忽ち真っ青に凍り、年寄りたちはすぐに気力を失ったが、引率者たちはものともせずにしきりに怒鳴 りながら道を急き立てた。

67年前、日本の誘いに乗り、二万里の彼方で生活

大部分、1、2着の上着で身をくるんだ人々は。過酷な寒さと殺伐とした周辺の冬の山河を見てはじめて '騙された'と直感した。あちこちで咽ぶ泣き声が出た。何時間かけただろうか、空だけパックリと見える 谷間に到着したが、既に見当をつけたとおり、彼らが約束した家も、一家当たり40坪の土地も、特に これというものは何もなかった。満州へ行けば土壌が良く、じゃがいもも子供の頭ほどに大きく育つという 話だったのに…。大根も背負いきれないほど取れると聞いたのに…。全てが嘘だった。その代わり原始林と 小川の傍の乾いた草むら、ススキの原だけが彼らを喜ばせただけだった。ところどころにある水溜まりには、氷が厚く凍っていた。

67年の歳月が流れた去る4月下旬。記者は延辺科学技術大のアン・ビョンリョル教授(前・安東大学長)の 案内で延吉から汪清県と天橋嶺を経て、当時、日本の誘い乗って二万里離れた所に投げ捨てられた慶尚道の人々を訪ねた。

天橋嶺を経て東新郷の所在地を通り、未舗装道路を20〜30分頃走っただろうか。みすぼらしい山と低い所で無心 に流れる小川、たまに現われる異国的な村に目を奪われつつ、あれこれ考えをめぐらしていた記者の目に、今ま で経て来た村と別段違うこともない典型的な中国農村が現われる。

"この村です"というアン教授の言葉に、今更のように村に目を向けたが、一人で来ていれば朝鮮族の村か漢族の 村か簡単には見分けることができない、延辺でよく見られる平凡な村だ。

共産党の教育を受けた'独歩室'、今は敬老堂に

道路の右の方に長く連なる村は、ふと見ると結構規模が大きい。村中央に入って行くと、こちらではよく独歩室と呼ぶ 老人協会の建物がある。外見は一般住宅と区別出来ない。過去は夕方毎に住民を集め、共産堂の思想と教示を学習させた、 うんざりする所だが、今はそのような強制的な教育は消え、代わりに私たちの敬老堂のような用途に使われる。

延辺は朝鮮族人口の大部分が咸鏡道出身というのが常識だ。その延辺で初めて会う慶尚道出身者はどんな姿だろう。 もしや言語が既に咸鏡道言葉とまじってしまっていないだろうかという疑惑はたちどころに解けた。老人協会の前で 私たちの一行を待っていたこの村の年寄りたちがアン教授とかわす挨拶の言葉は、皆同様に強い慶尚道訛りそのものであった。

"息子さんの目は如何ですか?" "変わりありませんよ。.私はよく分からないです." "やれやれ!教授、 いらっしゃるたびにこんなのをしきりに買って来るんですか、申し訳ない…." "いえいえ、これは彼らが買って来たんです。" アン教授と交わす町内の年寄りたちの挨拶の言い回しでは、安東など慶北北部地域のイントネーションがそのまま出る。

"お年寄り方、おはようございます"

記者は期待したとおりの慶尚道村を尋ねたという安堵感を感じながら、遅い挨拶をする。初めて取材陣を 意識した年寄りたちは"いらっしゃい" "大邱からいらしたの" "そんな遠いところから、どうして来たんですか。 何か見物でも?"と一言ずつ挨拶をした後、"まあ上がって下さい"と言いながら袖をひく。

人は慶尚道人だが、土地は慶尚道ではないから生活様式も変わるしかない。年寄りたちに付いて入った独歩室の 内部空間は、キチンとしていた。


▲太陽村の家内部の姿。台所と部屋が一緒にある咸鏡道式の構造だ。

門を開くやいなや履き物を脱ぐ空間が現われ、その横には大きな鋳物の窯が二つあった。それからは釜がそのまま部屋底に つながる。それは全て、私たちがよく咸鏡道式と知っている住宅構造であり、それを慶尚道村で見たのだ。寒い気候のせい で故郷慶尚道の生活の家の姿を守ることができなかったのだろうと見当をつけて見る。

独歩室は忽ち人々でいっぱいになった。皆同じように記者を歓迎して手を握ってくれる。最近、韓国の人々を憎む朝鮮族が 多いという話を聞いて来たので、密かに心配したが、それも消えて心がふくよかで暖かくなる。住民たちのアン教授に対す る態度は並大抵ではない。初めて会った記者を歓迎するのもつかの間、アン教授と挨拶を交わすのに忙しい。挨拶が長く なるようで記者はしばらく村見物に出た。独歩室前の庭先には拡声器が高いところに設置されていて、その横では町内の ニワトリたちがしきりにくちばしをつついて地を穿っている。牛達も仕方がなく寝転んでいる。

過酷な寒さのせいで家毎に薪の山

村の家々は区画整理をしたのように秩序整然と南向に建てられているが、歯が抜けたのようにところどころ空の敷地が見える。 空き家が取り払われたところである。家屋の形態は延辺でよく見られる姿だ。土壁を積んでその上に赤色の瓦を積んでいる。 土壁の上にはまたセメントを塗ってある。家の周りのは不揃いの板を釘と針金で繋いでおいてある。間に横棒が打ち付けられ、 丈夫に見える。他の村と違いこの村には草家がない。生活水準がそれなりに良いという証拠だ。三食、米飯が食べたくて 二万里離れた他国へ移住した人々は今、最小限その夢だけは遂げたようだ。

家々毎に庭先や牛小屋に牛が一匹づつ横たわっている。耕運機が何台かあるが、まだ牛が農耕に大きな助けになっているようだ。 人力で穀類を扱く錆びた脱穀期も見える。

家の壁には皆同じように大きな薪の山がある。その薪の山の大きさでこちら北間島の過酷な寒さを思う。そしてその寒さに 震えて暖かい故郷を思いきり懐かしがった里人たちの悲しさも…。

腹の具合が良くなくてトイレを尋ねると、記者の行動を注意深く察したあるお婆さんが独歩室の裏庭隅の安っぽい家畜小屋 みたいな構造物を指差してにこりとする。 "ちょっと汚いけど…"と言いながら、板で壁を作って屋根を付けたこのトイレは、 記者に30〜40年前の私たちの田舍の在来式トイレに対する郷愁を感じさせた。トイレの隅には延辺日報を決まった大きさに切っ た紙の束がある。

100世帯以上だった村が、今は60世帯に減って

独歩室ではまだ話が終わらなかった。しばらく対話が途切れた隙に乗じて短い髪のキム・ムホさん(72歳 老人会長)に 先に村の規模を聞いて見た。 "以前にはこの辺りがぎっしり集まって暮していたが、今は60戸しかないんです"と言いながら、 金さんは情けないという表情で答える。この村の事情に明るいアン教授から、80戸という話を聞いて来たが、その後また20 戸も減ったようだ。 1945年、光復の後、100戸ほどが故国に帰ったり他に移住したし、その後ずっと100戸余りを維持したも のの、中国の開放政策以後、韓国へ、中国内の沿海地域へ、また隣近都市へ金儲けしに出るとか、子どもの教育のために去った せいで、村が次第に縮んでいるのだ。 '苦労して作った村なのに…。'大変な苦労をして村を建設した年寄りたちには、 このすべてのことが惜しまれてならない。 <次回に続く>

(嶺南日報)


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