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1.中国の中の慶尚道を訪ねて

第2部嶺南出身50万名…堂々たる朝鮮族の主流 日本統治時代初期の政治的亡命の性格
1930年前後、農民大量移住
内陸に進出、稲作を伝える

/チョン・グンジェ記者


移住初期の朝鮮族開墾民

'私の国を失って私の地を捨てて/行く行く、飢えに苦しみ/行く行く、銃刀に追われ/ で疲れてだるい白衣の私達/割れたひさごには夢が悲しくて/ケナリには恨が重くて/ 他郷の峠に陽が沈み/風の強いこの夜はどこに泊まるのか' (チョ・ヨンナムの'移民 行列'から)

中国には私たちの血筋である朝鮮族が暮す。 200万名も。これは私たち誰もが知って いる常識だ。ではそのうち慶尚道出身はどの位で、彼らはいつどんな理由で800k mもの遠い道へ発ったのだろうか。また彼らはどんなに住み、山凍り水凍る異郷の地 を開拓して、最も優秀な少数民族として再生することができたのだろうか。そして韓 国という母国は、彼らに今どんな意味を持っているのかと問う事は、結局'中国の中 の慶尚道村'という企画取材につながった。嶺南日報はこのシリーズをこれから毎週1 回ずつ20回にわたって連載する計画だ。 <編集者註>

@移住の歴史

去る4月下旬から35日間、中国の東北3省と内モンゴル自治区を回って、慶尚道村を捜 し回った取材結果と現地の朝鮮族学者たちとのインタビューなどを通じて確認した慶 尚道出身朝鮮族の数はおおよそ50万名。最初に取材チームが見当をつけたよりははる かに多い数だった。当然、咸鏡道と平安道が朝鮮族社会の主流だろうという常識が崩 れるほどに、原籍地が慶尚道である朝鮮族の比重が高かった。

朝鮮族の最初の中国移住の時期は19世紀中頃と見るのが一般的だ。自ら高句麗人の後 孫だと認識している漢族もいて、清初期の頃、明を支援するために出兵して捕虜に なった朝鮮人たちの後孫たちが朴姓を継承して村を形成している朴家村(彼らの一部 は朝鮮族に民族分類されている)もあり、元の末期に移住した星州李氏の子孫の村も 今度の取材過程で発掘されたが、彼らは既に言語などの民族性を喪失したまま漢族に 同化された状態なので、除くことにする。

本格的な満州移民が始まったのは1845年、清と朝鮮が間島など辺境一帯に対する封禁 政策を緩和してから、その後1860〜1870年、咸鏡道一帯に未曽有の自然災害が繰り返 され、飢餓に喘ぐ朝鮮の農民たちが列をなして川を渡るようになる。

このような朝鮮人の間島移住は、清がロシアと結んだアイグン条約と北京条約が原因 で、黒龍江以北とウスリー川以東の地域100万平方キロを喪失し、国境を守るために 辺方軍を設置して封禁政策を解除したことでさらに活発になった。清はさらに1866 年、豆満江以北の700里、幅45里の地を朝鮮移民たちの独占開墾区域として宣布する などの積極的な移民誘引政策を実施した。これによって豆満江北の間島地域と鴨緑江 の北に居住する朝鮮人の人口は、1904年当時の不完全な統計でも10万名に達するまで になる。

慶尚道民たちの移住はこれより少し遅い19世紀後半に始まった。日本外務省の'在満 朝鮮人概況'によれば、1894年当時、満州地域に居住した朝鮮人6万5千名のうち、原 籍地が慶北である人が1300人、慶南が1200人だった。もちろん全移住者の90%以上が 咸鏡道と平安道人で、清と国境を接したこれらの2地域出身が当時の移住行列の大部 分を占めたが、それでも全移住民の3.84%が慶尚道出身だったということだ。慶尚道 出身の移住者たちの数は1904年、慶北1800人、慶南1700人と、3500人に増えるが、こ の時でも既に小規模の自発的移民が大部分であったことが判る。

慶尚道出身者の本格的な満州移民は、1910年の日韓併合に前後する時期であった。 1905年、強制的に乙巳保護条約が締結された後、抗日義兵闘争が燎原の炎の如く燃え 拡がったが、日本の武力によって押えられて国さえ奪われるようになると、他の地域 の愛国志士たちと同じく慶尚道を中心に活動した愛国志士たちも活動舞台を満州に移 すようになる。彼らが草創期に抗日基地にした所は、現在の吉林省柳河県と通化県一 帯。安東出身の石州・李相龍先生も当時、この隊列のリーダーとして


冬薪を準備する女性たち

活動した。彼は1911年2月、柳河県に到着して李始栄、李会栄、李東寧などと共に抗 日団体・耕学社を設立する一方、新興武官学校も建てた。母国の農民たちを募集、荒 れ地を開墾しながら壮健な者たちを選んで軍事教育をさせるなど長期的な独立運動に 備えたのだ。

このような抗日志士たちと共に日本の弾圧と経済収奪を避けて移住する人も増えた。

中国共産堂満州省委員会の初期の文件は、1910年代のこのような朝鮮人の満州移民に 対して'韓国の民衆たちは日本のそのような搾取に耐える事が出来ず、老少を従えて 流離乞食をして満州に移住する者が日々に増え、毎年幾万人ないしは何十万人に達 し、愛国志士たちの亡命も毎年数千名を数えた。 …朝鮮の難民たちは無慈悲な搾取 と虐待を受けて土地を失ったり革命に参加して追い出され、天然的に反日と祖国光復 の民族革命思想を持つようになった'と記述、当時の移民規模と性格の見当をつけて くれる。言い換えればこの時期の移民活動の主流は、政治的性格を帯びた亡命移住 だったという説明である。

日本が土地と穀物を収奪するために計画的に実施した土地調査事業(1910〜1918)と産 米増産計画(1920〜1934)が、この地の農民たち、特に小作農民たちを土地から離脱さ せる災いを生み、1920年代以後、土地と家屋を奪われた南部地方、そのうちでも慶尚 道農民たちの大量移住を招いた。また1931年満州事変以後、日本が満州地域を占領し ながらこの地域を食糧基地にするため、開拓という美名の下に朝鮮人の大量強制移住 を画策、1945年当時、在満朝鮮人の人口は213万名を越すようになる。

こんなわけで1920年代以後には満州移住が初期の自発的移民が帯びていた地域的傾 向、すなわち咸鏡道と平安道などの国境隣接地域中心から脱し、慶尚道を中心にした 韓半島南部地域の出身にまで拡がり始めた。稲作に慣れた慶尚道等の農民たちが本格 的に満州地域に移住しながら、この地域でも米作りが大量に始まる。

吉林省と奉天(現在の瀋陽)等に移住した慶尚道の人々は、先に定着して稲作に相応し い土地を先行獲得した咸鏡道と平安道の人々を避けて、ずっと内陸に移住しながら米 作りを伝えた。慶尚道の人々が当時、中国に移住した経路は、三種類ぐらいある。新 義州を経て奉天に至る鉄道と吉林省通化市、柳河市、梅河口市、長春市、九台市を経 て黒龍江省に至る経路、図們を経て吉林市と延吉県、黒龍江省五常市と尚志市、阿城 市等に至る路線などだ。 お互いに重複するこのような経路を経って、満州に移住した慶尚道の農民たちは 黒龍江省全域はもちろん、内モンゴル地域にまで拡散、現在は咸鏡道と平安道出身に比 べれば相対的に少数ながらも最も広い地域に広がっている様相を見せるようになった。 しばしば中国との国境に沿って地図を折れば、韓国地図と原籍地別の朝鮮族の分布地 域が重なるという話があるほどに、北朝鮮との辺境地帯は咸鏡道と平安道の出身が国境 に、最も遠い内陸地方には慶尚道の人々が多い。

このような広くて長い移住経路で見当をつけることができるように、慶尚道出身者の 定着過程はもっても厳しかった。これらは一歩遅れて移住したせいで絶えず内陸へ移住す る苦渋を経験しなければならなかったし、田を掘り起こせば土地使用料 をあげて土地を奪う漢族地主の横暴、寒い気候による冷害と水害、日照りなどの自然災 害はもちろん、日本の供出と満州軍閥の横暴、ひんぱんな匪賊の出現、国民党と共産堂の 戦闘などで慶尚道出身の朝鮮族は遅くは50年代まで流民の世話から脱することができな い場合も多かった。共産堂政権による土地分配が終わって初めてこのような苦渋が終 わる。

黄有福北京中央民族大学教授は、"光復直後、かなり多くの数の移住民たちが韓国に帰った が、慶尚道の人々はなにしろ内陸深く進出したうえに、消息も遅れて道が渋滞してかなり 多くの数がそのままとどまった。その結果、現在原籍地が慶尚道である朝鮮族は50万名を越える ように見える"と"より正確な慶尚道移住民の現況把握のためにはこれからもたゆまぬ 研究がなければならない"と言った。

(嶺南日報)


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