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西古城

和龍市の西古城は渤海5京の一つ、中京顕徳府の遺構とされています。 渤海国は698年から926年にかけて今日の中国東北部に存在した王国で、 ツングース系民族と668年に滅亡した高句麗の遺民とによって建国されました。 中国の文化や制度を取り入れて、高い文化水準を誇りました。渤海は唐に朝貢する一方で、海を越えて日本にもたびたび使節を派遣しました。 渤海自身による記録は失われたため、中国の史書や使節にまつわる日本側の記録、また考古学的遺物によってその繁栄を垣間見ることができるのみです。 1060年編集された『新唐書』は、渤海を「海東の盛国」と賞賛し、5京を有していると記しています。 渤海5京とは、上京竜泉府(黒龍江省寧安),中京顕徳府(吉林省和龍),東京龍原府(吉林省琿春),南京南海府(北朝鮮咸鏡南道北清),西京鴨緑府(撫順) を指します。

  

1982年に吉林省重点文物保護単位に指定されていましたが、1996年、国家級重点文物保護単位に昇格しました。城の南方には豆満江の支流である海蘭江が北西から南東 へ流れています。城の周囲は丘陵に取り囲まれています。城は土城で外城と内城からなり、外城は長い角型で周囲が2713mになります。 土を板のように積んで築城し、土板の厚さは10cm程度です。城壁の損傷はひどく、東西の壁と南壁の西端は最上部が車道になっています。

渤海・中京顕徳府の正確な位置についてはかつては学説がいろいろあり、旧国と中京が同じ地域であるのかどうか、中京の所在地が中京顕徳府の盧州なのか顕州なのか、議論が分かれていました。 この土地は、日本人の手により、「統監府間島臨時派出所紀要」(1909)、「間島事情」(1918)などで紹介され始め、鳥山喜一氏らにより1937年以降、発掘が進められました。 西古城が中京顕徳府であるという主張は、鳥山喜一氏などが具体的に提起し、現在まで定説となっています。 またこの城の平面構造が都城であった東京城、八連城の構造とほぼ同じであり、城の近くから渤海第3代・文王の4番目の娘であった貞孝公主の墓が1980年10月に発見され、 上記の説をより有力なものとしました。 和龍地域には他にも河南屯古城、海蘭古城など渤海時代の古城が残っており、貞孝公主墓のほか、著名な龍頭山、純金製の装飾が出土した河南屯をはじめ、 渤海三彩が出て有名になった北台古墳群などがあります。 城内からは建物の跡、釘、井戸、道路のような遺構が発見されており、鬼瓦や文字瓦なども発見されています。
貞孝公主墓からは壁画が発見されています。 石室内部の壁に石灰を塗り、その上に12人の人物像を彩色で描いており、輪郭を描く方法を除けばいずれも高句麗の技法を使って描かれています。 武器を持った人々の他、楽器を持った人も描かれているので、渤海で音楽が発展していたことが覗われます。その他、石の獅子像と碑石も発見されています。


石の獅子像


貞孝公主墓内部の壁画


5京のうち、この中京の機能が如何なるものであったのかについては、まだよく判っていません。これまでの研究が主に位置についての議論であったことにもよります。 しかし一時的に首都であったという主張もあり、中京の重要性は決して低いものではなかったと考えられています。武官中心の政治に決別して文官統治に移行する過程での 遷都に使われたとする説があり、その他、地方政策の遂行と新羅との対立関係における必要性なども考えられています。

【参考】 六頂山  八連城

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