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[特集] 青島に立ち上がる我が民族の新たな基盤(3)

創業の道−朝鮮族社会の先頭走者たち

青島の自営業の大部分はサービス業を含めた零細業だ。しかし零細業から始めて、既に一定の規模を築き 上げたとか、築きつつある企業が現われた。 青島の朝鮮族社会はまさしくそんな企業を中心に形成されつつ あるのだ。それではその代表的な企業を詳しく見る事としよう。

‘殺人街の‘宰人’を知らぬ食堂−高麗食堂

10年余り前、 ‘殺人街物語’と言うドラマが放映され、人気を集めた事がある。 開放初期、青島第1 海水浴場 近くに立ち上がった飲食店街を背景にした映画だが、この映画に朝鮮服の身なりの ‘高麗食堂’ の主人・ 金社長(金老板)が登場して、深い印象を残した。 この金社長の原型が外でもない今の青島グムフン実業有限 公司・金ミョンナム総経理(53歳)だ。 それでは彼はどのようにして不慣れな青島 ‘殺人街’で食堂を開くようになったのか?

1988年、方正県朝鮮族学校で校長だった彼は、県民委で組織した改革開放考察団の一員として南方へ視察に 行くこととなった。その時の視察は、彼の視野をパッと広げてくれた。 北京・陶然亭で大きな食堂を経営する五常 出身のある友達に会った彼は、彼の言葉どおり ‘風が吹いた’。 あまり勉強したこともない人でもあのように出来 るのに、私に出来ないわけがあろうか。 故郷に帰った彼は、まったく仕事が手につかなかった。 その年も暮れた 12月 28日、 彼は弟の手づるで青島に行った。 青島を見回った彼は、第1海水浴場の近所に建設中だった飲食 店街区に惚れ込んだ。不動産会社を尋ねて無条件に店を一軒買うと申し込んだ。 入札の応諾を受けてから彼は 家に帰った。 こうして彼の決心は固まり、決心した以上、後を振り返らないことにした。 後を振り返れば心が弱く なるからだ。

翌年の 1989年6月 10日、彼は遂に 7000元で入札に成功した。 ところが店舗代価を払いに行った途中で、やっ と集めて借りて来たお金 7000元が包みのままスリに盗まれてしまった。空が崩れるようだった。 それでも会社の 方で事情を勘案してくれて、それなりに商売を始めた。 ところがここには朝鮮族の客がほとんどいないから、朝鮮 の食品を売ることができなかったし、漢族を相手にする海産物料理はまた全くやり方が判らなかった。 それに他人 が誰でも出来る ‘宰人(屠殺)’はもっとできなかった。 そのため ‘殺人街の宰人を知らぬ高麗食堂’という噂が立 ったりした。 寒い食堂で寝てリンゲルを注射し、一年を骨身惜しまず働いたが、お金は儲けることができなかった。 父親の還暦に行かなければならなかったが、持って行くお金どころか車代もなかった。 行く時もお金を借りて行か なければならなかったし、来る時もお金を借りて来なければならなかった。

ところが翌年 6月からお客が押し寄せ始めた。 韓国企業が青島へ進出し始めたのだ。 ここではかけがえ のない我々の食べ物が光輝いて見えるため、やや小さい食堂はお客さんたちで埋まりそうだった。基本的な財 産を作った彼は、その家を売って海天ホテルの近くにソラボル食堂 (200平米余り)を作り、その後また 4階建て を賃借して食堂と旅館、娯楽業を兼ねたソラボルホテルを経営するに至った。 彼が今の主な経営事業である 京東ボイラーと縁を結ぶようになったのも、ホテルの暖房問題で京東と接触してからだった。 彼の振るぎない 信用と隙のない管理が彼に 10年余りに渡ってずっと青島地域の総販売を引き受けることを可能にした。 また 彼のそんな業績とまっすぐな人柄が、彼を青島朝鮮族企業人協会設立のために走らせるようにしたし、 初代会長に推戴され、立派な土台を築き上げることになったのである。

現在、年間収入50万元余り(利潤 30万元)をあげている彼は、相変らず創業の頃のように熱心に走り回り、 同胞社会の発展のために苦心している。 ‘私たちの先祖がこんなに良い所を差し置いて、何をしにあの寒い 東北の田舍に行ったのか理解出来ない’と言う彼は、青島が非常に気に入っているようだ。 青島で嫁をもらい、 孫娘まで出来た彼のことでもある。

海外バイヤーと直取引して急成長した企業−世映玩具

2003年 11月、青島世映玩具有限公司は、会社設立 7周年記念のセレモニーを 盛大に開いた。青島駐在韓国総領事館総領事、即墨市副市長、海外取引先 代表など 1000人余りの祝福を受けて進められたその行事は、この会社のイメー ジを充分に物語っていた。その時、既に年間輸出額 1000万ドルを突破したこの 会社は、即墨市の 1級企業、外貨獲得 10大企業の一つになっていた。 この会社は青島の朝鮮族企業の中で規模が一番大きくなった企業で、 民族 の自慢として指折り数えられている。

この会社を導く人は黒龍江鶏東県出身の黄民国(41歳) 社長だ。 大学を卒業して五常 朝鮮族師範学校で教鞭を取っていた彼は、改革開放の荒い波の前で自分の人生を 再び設計しなければならなかった。 彼は未練なしに教鞭をおいて、市場の茫々たる 大海に飛び込んだ。青島に駆け付けた彼は、韓国人が経営する玩具会社に務めるよ うになった。 労動集約型業種である玩具業は、特別な技術も莫大な資金も必要なかった。 ただ管理が重要だったし、受注がカギだった。 一年間、管理担当者として働き ながら勉強した彼は、遂に独自に運営する決心をした。ちょうど韓国人が 受注を取り持ってくれて、資金も 5万ドル貸してくれた。 そして 1996年 5月、裁縫機 60台、職員 2人、労動者 120 人で玩具工場を稼動した。 あの時だけでも人件費 が安いから管理さえしっかりやれば、収入は結構良かった。そして 1999年には輸出額 が 600万ドルに達した。 一方、生産量を増やして品質を高めるため、近くに敷地 5万 5000平米、建坪 2万 2400平米の現代化した縫製玩具工場を新たに作り、引っ越しをした。 そしてこの工場は質のよい製品とデザインで縫製玩具市場としてその名前が広く知られる ようになった。 これは第3者を経ずに外国のバイヤーと直取引することができる機 会になった。黄民国社長は、この機会を充分に利用してアメリカなどの取引会社 との直取引を実現した。

今 1000人余りの労動者を雇っているこの会社は、たとえ人件費が上がるなど不利な要素 が出て来てはいても、新しいデザイン開発に拍車をかけ、管理をさらに強化しながら、年間輸 出 1400〜1500万ドルを確保している。

系列会社を従えたグループとして生まれ変わっている企業−青島亜赫

1997年 11月、 30万元を投資して青島市労山区高科園に設立した青島亜赫 は、家具とキッチン設備を生産する企業で、 8年にわたり無数のライバルを退け ながら高速成長を続けて来た。

この会社を導く金赫(42歳、大学専科)は 1992年から故郷の延辺で北朝鮮、 韓国、ロシアな どの国々と貿易をしながら頭角を現わし始めた。青島がチャンスの場であると直感し た彼は、青島に会社を建てるやいなや、品質と信用を第一とし、これに基づいて新聞、TV、 広告看板、販促行事などを通じてブランド作戦を積極的に広げた。そして青島市場を 攻略しただけでなく、北京、広州など全国の大都市にも販売網を構築し、会社設立後 2年ぶ りである 1999年には既に 3700万元の売上高を記録した。

競争が熾烈な国内市場で生存、発展しようとするなら、専門化を推進しながら新 しい技術で新しい製品を常に研究・ 開発しなければならず、ひいては企業の規模 を拡大して国内外の競争力を持つことが出来るということを肌で感じた金赫は、グループ化 の道を倦まず弛まず模索した。そしてさまざまなインテリア資材を生 産する亜赫インテリア材料有限公司(総投資額 390万ドル)、亜赫国際貿易有限公司 (登録資本金 570万元)、 合作企業・亜赫インテリア材料有限公司 (投資額 250万ドル)、協力企業・大信メラ ミン産業有限公司(総投資額 350万ドル)、亜赫室内装飾公司 (総投資額 250万元) など、系列会社を作って堂々たるグループに様変りした。

今、これらの系列会社は高品質を売り物にして国内外の市場攻略に総力を挙げており、 インテリア材料有限公司は既に製品を韓国、日本、ドイツ、中東などの国家へ輸出、 年間輸出額が 1200万ドルに達している。

借金を返済し、車を運転して故郷に帰るのが夢だったチョン・ジョンリョル氏の再一食堂

軍隊生活も、村党支部書記もしたチョン・ジョンリョル(59歳)さんは、実力者だった。 経済感覚も人に先んじて外国に出てお金も儲けたし、そのお金を元にして 国境都市・綏芬河に旅館を作り、その収入もなかなかのものだった。 ところが詐欺に遭い、 24万元もの借金を負ってしまった。 生 活の家まで奪われた彼は、一瞬にして無一文になってしまった。 借金に追い回され た彼は妻子を連れて人知れず村を抜けて来て、さすらいの旅に出た。 目的地 もなかった。 ただ誰も知らない遠い所に行けば良かった。 それで到着した所が青島 、 時は 1996年だった。

働き口を求めようと思ったが企業は老人扱いして受け付けてくれなかっ た。 叫びながら過ぎ去る行商たちが羨ましかった。 借金なしに氷菓子 でも売ることができたら、どんなに幸せだろうかと思った。 思案したあげ く、彼は食堂を開くことに決めた。 3ヶ月の貸り賃 4000元を払って食堂を作った。 食堂と言っても、食卓がわずか 3つ、雑貨屋と大差なかった。 夜には食卓を付けて 三人の家族が雑魚寝をした。 妻は布団一枚を節約しようとするあまり、手足 が凍傷にかかってしまった。それよりも、学校へ行く年齢で人手を助けるために煙瓦二枚を重ね、 立ち上がって器を洗う 8歳になる娘を見るのが傷々しかった。 しかし必死で働いた お陰で、得意先が一つ二つと増え、お金も少しづつ貯まるようになった。 いつになったら借金を返し、自分の車を運転して故郷に行けるだろうか? それがチョン・ジョンリョル氏 の夢だった。

1999年、 八回の引っ越しのあげく、食堂は 300平米に拡大し、生業はいよいよ安定して来た。 それでもチョン・ジョンリョル氏は麺を手ずから伸ばしては作り、夜遅くまで串を焼い た。 同胞の民族をターゲットにしながらも、現地人、特に平民層に気配りする彼の商売戦略は奏効し、 彼の食堂は食事の時間にはすし詰め状態になった。彼は欲張らずに、儲けられるだけの仕事を 一歩一歩広げて行った。 それで今は分店が 4つになり、すべての営業面積が 1400平米、そのうち 4号店は面積が 600平米となり、大きな宴会までできるようになった。 最近には さらに 200万元余りを投資して、 300平米の高級焼肉店の開店を計画している。 従業員 900 人余り、年売上額 800万元余りをあげている再一食堂は、既に正当な企業に成長している。

2000年、チョン・ジョンリョル氏は遂に 24万元の借金を返した。 そして翌年の正月後には 自分の乗用車を運転して故郷に行き、両親を迎えた。 今では 66万元の邸宅に 車が 4台もある。 記者が彼を訪ねた時、従業員は、 “社長は配達に出 た”と言った。 彼は今も以前と変わりなく足で走っていた。

不渡りを乗り越え、再起したハイテク企業−青島インバーター

青島中智溶接機械有限公司は一時、青島で業界の脚光を一身に受けた名声高き ハイテク民営企業だった。 ハルピン工業大学の 技術と技術陣によって製作されるこの会社のインバーター多機能溶接機は、国家科 学技術部の重点製品として国家重点計画の専門プロジェクト資金200万元と 青島市科学技術委員 会の 100万元の支援を受けたりした。 銀行でも先を争って貸し出してくれ、一回に 1100万元が提供されたこともあった。 ところが 1997年に出帆して好況を享受し たこの会社は、総経理の崔氏(朝鮮族)の盲目的な拡張と粉飾決算により、 3年も経たないうちに 倒産してしまった。崔氏は資金を奪って雲隠れし、会社の財産は競売に付された。

この会社を再生させた人が金ヨンジン(52歳)さんだ。 長年の軍生活のあげく、退役して新 聞社、韓国企業を転々とし、この会社に入って来て管理職を引き受けた彼は、こ のもったいない製品を捨てることができなかった。 2000年 4月、彼はこの会社の独自の技 術と経験を土台に、意を共にする技術人員たちを再度集め、出資者(登録資金50万元)を求め、 青島インバーター溶接設備有限公司で新たに登録した。 銀行の 金づるが完全に切れた状態で、彼は信用一つで他の企業のお金を短期で融通してもらい、回 転させながら新しい創業を試みた。 4年が過ぎた去年下半期に、会社は金ヨンジン総経理 のたゆまぬ努力と高い技術、高い競争力により遂に再生した。 登録資金も 80万元に増えた。 今、この会社は職員 16人(そのうち技 術人員 13人)のささやかな所帯ながら、年間売上高 500万元余り(利潤率 30%)を 生み出している。

以上の企業の外にも、青島には韓国の串焼き専門店−トゥダリの中国市場開拓に成 功、3年ぶりに 15の支社 70のチェーン店を設立、運営する青島トゥダリ・ファー ストフード有限公司社長・韓ヨンテ、山東省に 30余り、北京などその他都市の 80余りのデパートに韓国食品コーナーを設置し、最近、年間税額だけでも 200万元余り を納めた青島シンソン食品公司総経理・権ヒョクジュン(43歳)、韓国へ行って働き、 製菓技術を学んで帰って来て青島で外国人を主な顧客として パン専門店を作り、 1年半ぶりにチェーン店を 4つにまで増やした青島パリマーケット 社長・金ソンヨプ(42歳)、 韓国人の会社を引き受けて、弟といっしょに青島 ボラ運輸有限公司を建て、 100余りの輸出入業者と業務取引をしている南インス(30歳) 社長 など、多くの企業人が頭角を表し、我が民族の基幹企業の仲間に続々と入って来ている。  

(黒龍江新聞 パク・ヨンマン、ナム・イルジュ、ホン・マンホ記者 2005年7月6日)
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