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93.中華人民共和国の誕生

朱徳海、朝鮮族を代表して天安門に上がり、延辺人民が飛び出し、共和国の誕生を歓呼


▲ 中華人民共和国創建を慶祝する延吉市民(1949年 10月 1日)

開国聖典

1949年 10月 1日、この日は中国人民にとって天地開闢の新しい時代を開く、大変感激敵な日だった。 首都北京で中華人民共和国の創建を慶祝する盛大な記念大会が開かれたのだ。

その日、中央人民政府委員会では第1次会議を開き、国家主席、副主席の名簿を宣布して中華人民共和国中央 人民政府の設立を宣言、周恩来を政務院総理兼外交部長に、毛沢東を中国人民革命軍事委員会主席に、朱徳を 中国人民解放軍総司令に、沈鈞儒を最高人民法院院長に、羅栄桓を最高人民検察署検察長に任命、 “中国人 民政治協商会の共同綱領”を “中央人民政府の施政綱領”にすると決めた。

午後 3時、首都北京の 30万の人民大衆は天安門広場に雲のように集まって来て、中華人民共和国の創建を慶祝 するセレモニーを盛大に行った。 人だかりを成した群衆の中からは、時折、雷のような歓呼の声が響いた。

天安門城楼には毛沢東を含む中央政府の要員たちが上がり、観礼台には多くの民族代表が立ち上がった。 その中には朝鮮族人民を代表した朱徳海もいた。

国歌の奏楽の中、毛沢東は国旗掲揚台のスイッチを押した。 五星紅旗が 10月の上空にはためいた。続いて毛沢東 の大きく力強い声が天安門広場に響いた。

“中央人民政府は設立された!”

“中国人民は立ち上がった!”

激動の声は電波に乗って中国大地を震撼させ、全世界に響いた。

この日、延吉市の 2万名余りの群衆は通りに走り出て、祝賀集会を開き、“中華人民共和国万歳!”、 “中国共産党万歳!”を声の限り叫んだ。集会で延辺の党政指導者たちは、熱情にあふれる演説を行い、 毛沢東主席と朱徳総司令に送る祝電を採択したりした。 “今日、我ら延吉市 5万名の民族人民は、人民政治協商 会議の成功裏の閉幕と中華人民共和国中央人民政府の誕生を熱烈に慶祝しています。 いろいろな苦痛と圧迫を 受けた私たち中国人が、今日から新しい時代−人民民主独裁の時代に入りました。 中国人民は二度と帝国主義や 反動派の統治を受けなくなりました。 私たちは共産党、毛主席、朱総司令と中華人民共和国中央人民政府の指導の 下に団結し、生産計画をしっかりと完遂または超過完遂することで、全国人民解放戦争をずっと支援し、 反動勢力を殲滅し、全中国を完全に解放するために独立、民主、平和、統一及び豊かで強い新しい中国を建設する ために奮闘します。”

こんな内容の宣言文はその日のうちに電波に乗って北京に伝えられた。

“国が建った!”

下に著名な民間文学家・李龍得先生の “国が建った!”という、題目の文を紹介する。 李龍得先生が 直接経験した事を叙述しているこの文は、当時の延辺人民の熱い情緒を充分に反映している。

私が十歳になった年だった。 私は偏屈な山里学校である安図県 亮兵郷 普光村小学校 4年生だった。 10月 3日、お昼を食べて学校へ行き、校庭で盛んに遊んでいると、事務室から私のクラスの担任の先生が 新聞一枚を持って急いで走って来られ、叫びました。

“みんな! 我が国が建ちました!”

“何、我が国が建ったんですって?"

私とクラスメイトたちは一瞬、何のことか判らず、ぼんやり立っているばかりだった。

“私たちの新しい国、中華人民共和国が誕生したんです!中華人民共和国が!”

“中華人民共和国? どこです? ちょっと見せて下さい!”

私は他の子供たちを差し置いて真っ先に先生のところへ駆け付けた。 そして先生の手に握られている“東北 朝鮮人民報”(10月2日付新聞)を奪い取るように受け取った。 “中華人民共和国万歳!”という大型活字と、その下 に毛主席の肖像画がすぐに目に飛び込んで来た。 右側トップに “中国人民政協、円満成功裏に閉幕、中華人民共 和国創建を宣告、毛沢東中央政府主席に当選”という大きな字が書かれていた。

“皆さん! 私たちの新しい国が建った、。 中華人民共和国が建国された!” 友達は私をぎっしりと囲んだ。

“皆さん! 私たちもやっと国の主人になった。 どれだけ嬉しい事か!”

その日の午後、授業は予定どおり進めることができなかった。 国創建の大きな喜びに包まれた先生や私たちの心情は、 皆この他の考えをすることが出来なかったのだ。 そして学校では、すぐに全校の教師・生徒(全校合わせてやっと 100人 余り)が参加した慶祝の集まりを開いた。

まず校長先生は激昂した声で、中華人民共和国創建の情報を知らせてから、このようにおっしゃった。

“皆さん! 私たちは今、正々堂々とした自分の国にいる学生になりました。 私たちは必ず新しい国の子供らしく、しっかり と学習しなければなりません。”

この日の午後、山間僻地のやや小さい運動場では長い時間、 “中華人民共和国万歳!”の声が響いた。

その日、家へ走って帰った私は、家の門に入るやいなや、祖母と母(当時、我家には祖母と母、そして私と三人の弟がいた) を見て、叫んだ。

“お婆さん、お母さん! 私たちもやっと自分の国を持てるようになりました!”

“えっ、 自分の国が持てるようになるって?"

祖母と母は唐突な私の言葉にしばらく手を休めて眺めた。 私は昼にあった事を全て話した。

“うん、そんな事があったんだな。”

しわだらけの祖母の顔はすぐに明るくなった。

“そうです。私たちは、たとえこの何年間か自由解放の中に住んではいても、今まで国はなかったでしょう。 ところが今、堂々たる我が国が持てるようになったんです!”

私は先生から聞いた道理を全て話した。

“本当に嬉しい事だね。”

母も歓声をあげた。

遅れて弟たちが入って来た。

“お前たち! 私たちにも、今、自分の国が出来たんだよ!”

それとともに私は弟たちに五星紅旗を描いてみせながら、私がわかる限り全ての説明をし始めた。

その日の夕方だった。 私は祖母と母に請求書を突き付けた。 “お婆さん、お母さん、 お金ちょっと下さい。”

“おや、夜中に急にお金をもらって何をするの?”

“国が建った喜びを慶祝しなくてはならないでしょ?”

“まあ、この子ったら、 私たちだけでどんなお祝いをするというの?”

“いや、必ずできます。 早く、うん!”

私の催促に、母は 200元(東北貨)をそっくりそのまま渡した。 私は店へ駆け付け、お菓子二斤をすぐに買って来た。

“さあ、この一斤は私たちの分で、この一斤は弟たちの分、私たちはこのお菓子を食べながら新しい国の創建 を祝うんです!”

1950年 3月 20日、“東北朝鮮人民報” 第2面には我が国の国歌が掲載され、やがて私の学校では国歌を習うようになった。

“起きなさい、奴隷になりたくない人々/ 私たちの血と肉で新しい長城を築こう...”

私は学校で習って帰って来るやいなや、また祖母と母に国歌を教えて上げた...

“中華人民共和国の創建は中国の歴史に天地開闢の新しい場を開き、私たち朝鮮族同胞にも新しい生活の将来 を開いてくれた。 朝鮮族人民は政治的に何の権利もなかった自分たちの歴史に終止符を打ち、夢にまで描いた国の 主人になり、国の政治と地方事務管理に参加するようになった。.

抗美援朝、保家衛国

ところが、中華人民共和国が創建されてから まだ1年にもならない 1950年 6月25日、 朝鮮戦争が起こった。 戦争の炎は鴨緑江と図們江端にまで広がって来た。 友好的な隣国・朝鮮民主主義人民共和国が危機に瀕して おり、我が国の安全が厳重な脅威に晒されるようになった。 そこに中国政府は “抗美援朝、保家衛国”のスロー ガンを掲げて、その年 10月25日に中国人民支援軍を朝鮮戦線に派遣、朝鮮人民軍と共同作戦により、北進してい る米軍を 38度線付近にまで押し返した。

この偉大な抗美援朝戦争の中で、朝鮮族将兵 2万名余りが多くの戦線で輝かしい戦功を挙げた。 一部隊を指揮し て敵 100人余りを殲滅し、陣地を固守して北朝鮮政府から戦闘英雄の称号を授与された金キルソン副牌長、単身で 60人余りの敵の侵攻を 8回も撃退した崔リョンドク、敵の飛行機を 4機も撃墜し、 1等功 1回、2等功 1回を挙げた 空軍飛行隊長・李ヨンテ、敵の包囲に入って通信連絡が途絶えた一個師を危機から救った通信兵参謀・金リョジュン、 敵機の無差別爆撃を冒して運輸部隊を指揮し、軍事物輸送の任務を立派に果した文ジョンイルなどは、私たち朝鮮 族指揮官と戦闘員たちの誇りだ。 特に支援軍の朝鮮族のうち、 80%以上を占めている朝鮮族連絡兵たちは、北朝 鮮で支援軍の言語が通じず、地形がよく分からない中、特殊な役目をした。 彼らは作戦部隊のために道案内を探さな ければならなかったし、敵陣に入って敵情を探らなければならなかったし、部隊の食糧を探さなければならなかったし、 人民を動員して道を切り開かなければならない難しい任務を果さなければならなかった。 支援軍部隊の耳目として働い ていた彼らは、中朝両国の親善のために大きく寄与した。 彼らの中には 1等功を挙げた人もいて、支援軍 2級模範の 称号と朝鮮民主主義人民共和国 2級戦闘英雄の称号を授与された人もいる。

遂に中国人民支援軍は北朝鮮人民軍と 2年 9ヶ月の協同作戦をして、敵 209万名を殲滅、米軍はやむを得ず講和を 要求し、停戦協定に署名しなければならなった。
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