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92.朝鮮族、建国大会で政治権利を行使

朝鮮族の指導者達、延辺の政権建設を主導。中国人民政治協商会議で区域自治主張


▲ 中国朝鮮族と延辺人民を代表して中国人民政治協商会議第1次会議と
中華人民共和国開国大典に参加しに行く中共延辺地委書記兼延辺専員公署専員・朱徳海。
彼は延辺人民の熱烈な歓送を受けた。(1949年 9月)

朱徳海と民族事務処

東北行政委員会は 1948年 4月、民族委員会に民族事務処を新設、朱徳海を処長に任命した。 民族事務処はハルピン市南崗に陣取った。 民族事務処の主要任務は朝鮮族を共産党の周りに結び付けた後、 多くの民族と団結して生産を回復、発展させて戦線を支援することだった。 この重大な任務を果すために 民族事務処では朝鮮人幹部学校を設立し、民族幹部の養成に力を注いだ。 他の一方ではまた、 文工隊を作り、自体新聞である “民主日報”を刊行したりした。

1948年 7月 20日に挙行された朝鮮人幹部学校始業式で校長・朱徳海は東北各地から選抜されて来た 150人 の学生たちに、学習をしっかりとして、人民の立派な勤務員になってほしいという熱情にあふれる演説を した。朱徳海は “党の建設”、“民族政策” などの科目を直接講義した。

1949年 1月、 学生たちが卒業して帰った。 その時に学習を終えて帰った学生たちは、北満各地の土地 改革と地方事業で幹部になった。

1949年 2月 10日、民族事務処は 9ヶ月間の使命を果して解散された。その日、朱徳海は民族事務処の 全ての関係者は、もう間もなく延辺に行って、延辺の党政部門に配置されると宣布した。 同時に文工隊 は、延辺文工隊と合同することになり、 “民主日報”は “延辺日報”、南満の “団結日報”と合わせ “東北朝鮮人民報"になると説明してくれた。 そして朝鮮人幹部学校も延辺に出て、朝鮮民族幹部養成 事業を続けることになると述べた。 こうして民族事務処の幹部たちは延辺に出て、延辺の党政の中核を 担うようになった。

3級人民政権、全面樹立

1948年 3月から朝鮮族である林春秋(1948年 3月 27日任命)、文正一(1949年 3月 7日任命)、 朱徳海(1949年 3月 20日任命、延辺地委書記兼務)が続いて延辺専員公署専員の職務を引き受け、 延辺での政権建設事業を主導した。

1948年 11月 15日、 “東北日報”は “民主政権事業を急がなければならない”という社説を発表、 東北行政委員会第2回行政会議の決定を伝達し、 1949年春前に本地区で県、区、村 3級人民代表大会と 政府委員会の選挙を終わらせることを要求した。 社説は次のように指摘した。 “各級の党組織は、必ず 民主運動に対する指導を強化し、党全体を動員して積極的に民主運動に参加する事業を強化しなければな らない。”

11月中旬から中共延辺地委と各県党政指導機関では、東北局と東北行政委員会の指示に従って、 村級選挙事業を試験的に進め始めた。 延辺専員公署と各県政権では各層が選挙事業幹部の養成班を 作り、 2878人の選挙事業幹部を養成、そのうち区級助理員以上の幹部 1049人、行政幹部 858人だった。 彼らに組職された選挙工作隊は 4ヶ所の街頭、89ヶ所の村にて、村級選挙事業を試験的に進めた。

試験事業で経験を得た後、村級政権を立てる事業を普遍的に進めた。そして 1949年 3月まで延辺の 村級選挙、民主政権建設事業が基本的に終わり、汪清県の 7つの村を除いた 57ヶ所の街頭、548ヶ所 の村に比較的完全な村級人民政府が立てられた。 村級選挙事業で村級政権が群衆の手元に掌握される ように保証し、不純分子が混入出来ないようにして、民族、性別比例も重視した。そして村級政権の 代表性と代表の広汎性を保障した。

選挙事業を通じてなおいっそう群衆を教養し、政治に参加する群衆の自覚と積極性をさらに高めた。 人民群衆が国の主人であるという認識を高め、多くの民族の団結を強化し、生産を発展させようという 群衆の意欲をかき立てた。

村級政権が普遍的に建設された後、各県で次々に区級、県級人民代表大会を開き、区・県人民政府を 建てた。 かくして県・区・ 村 3級人民政権の建設を成功裏に果した。

吉林省民族事業会議

1949年の初め、吉林省党委では延辺の主な責任者たちに吉林省民族事業会議に参加せよとの通知を 出した。通知を受けた後、林春秋、朱徳海、金セキュン、李ウク、呉フンなどは、すぐに会議に参加 する準備に入り、延辺の歴史発展、土地改革情況、 革命闘争の歴史などの資料を収集して文献を作成 した。

延辺人民の大きな期待を抱いて出発した代表たちは 1949年 1月 19日朝の車で吉林に到着した。 省党委関係者たちが自動車に座って出て、彼らを駅広場で待っていた。 これは延辺の最高級責任者 たちにとっては最高級の待遇だった。延辺で車に乗ったことがなかった彼らは、自分たちが乗った 馬車より自動車がはるかに早い、と賛嘆を禁じえなかった。

省招待所に到着すると、代表たちは自分たちが持って来た布団を敷いて、持って来た資料をまた 研究し始めた。

1月 21日、吉林省民族事業会議が正式に始まった。代表たちはおよそ 40人になったが、大部分が 朝鮮族だった。 陳ジョンインが会議を司会して、周保中、朱徳海、林春秋など多くの人々が延辺の 建設問題について演説した。

周保中は会議で、 1910年に日本が朝鮮を併合した後、朝鮮人民は日本帝国主義の侵略と圧迫を受け、 中国へ来てまた中国搾取階級の搾取を受けたから、革命性が特別に強化されたこと、朝鮮人民は中国の 抗日闘争の中で中国人民と血で友情を結んだということ、自分の血の汗で延辺を開拓した延辺の朝鮮人 たちは必ず延辺を立派に建設しなければならず、中国の多くの民族と同じく国の主人としての役目を 発揮するということについて、繰り返し強調した。

会議に参加した延辺の代表たちは、抗日闘争と解放戦争中に挙げた延辺の朝鮮人の歴史的功勲について、 専ら肯定し、延辺の政治全般、経済、文化の発展展望について、忌憚無く討論した。会議は特に延辺に 建立される政府の規模について熱烈な討論をした。

ある人々は朝鮮人が中国の土地に来て血を流し命をかけた悲壮な事実と、ソ連の国家組職形式など実例を 挙げながら、延辺を加盟共和国形式にして、完全に朝鮮人に任せることを要求した。

朱徳海はこの問題について、次のような内容の発言をした。 “我が朝鮮族が血を流し命をかけて敵と 戦って来たことは誰もが認める事実であり、我々の輝かしい歴史である。しかし忘れてならないのは、 私たちが革命に参加した目的だ。 私たちは自分の王国を立てようとして革命に参加したのではなく、 圧迫と搾取を無くし、苦しむ大衆の幸せと自由を得るために革命に参加した。 そして私たちが中国革命 に参加したのもやはり、客としてでも、志願兵としてでもなく、中国人民の堂々たる一員として歴史が 与えた義務を果たしたのだ。 血を流す戦いでこのだったのだから、以後の建設においても適切に、 客としてではなく、国の主人として自分の力を尽くさなければならないだろう。だから我が民族の特点 として民族自治権を享受することはできるが、自分の独立王国を建てようとするのは完全に間違った 考えだ。”

代表たちは遂に延辺朝鮮族自治部を創立し、中国共産党と中央人民政府の指導の下に十分な民族自治権 を享受しながら延辺をより美しく建設することに意見を統一した。 会議ではまた、延辺での教育発展事業 について討論し、延辺朝鮮民族自体の最高学府である延辺大学の創建問題について討論をし、我が朝鮮民族 の輝かしい伝統を発揚し、後代の教育事業に大きな関心を払うことで意見の一致を見た。

会議の期間、代表たちが長春を訪問する機会を借り、林民鎬は建国大学に立ち寄って多くの本を購入し、 延辺大学図書館の基礎を作った。

会議は 2月 4日に勝利のうちに結束した。

1949年 8月、周保中は雲南省に転勤し、行く前に中共中央毛沢東主席に手紙を送り、“先に延吉地区で 民族自治を実現”することを建議した。(1989年吉林人民出版社で出版した “回憶周保中”の p.268より)

朱徳海、全国政治交渉会議に出席

1949年 6月 15日から 19日まで、北京の中南海で毛沢東の司会の下、新政治協商会議準備委員会第1回会議 が召集された。 会議には中国共産党、各民主党派、各人民団体、各界、民主関係者、少数民族、海外学校 など 23部署の代表 134人が参加したが、少数民族代表で朝鮮族を代表して朱徳海が会議に参加した。

会議では “新政治交渉会の準備委員会組職条例”、“新政治協商会議に参加する単位及び代表人数に対 する規定” などの案件を採択した。

9月 17日、新政治協商会議準備委員会第2回会議が召集されたが、会議で政治協商会議組織法草案、 共同綱領草案、政府組職草案などが基本的に採択された。この会議で新政治協商会議を中国人民政治 協商会議と改称した。

周恩来は政治協商会の第1回会議が開かれる前に “中国人民政治協商会議に対するいくつかの問題”と いう報告をした。 報告で周恩来は “中国は多民族国家だ。 漢族が 4億以上でその絶対多数を占め、 モンゴル族、回族、蔵族、ウイグル族、苗族、彝族、朝鮮族、高山族など少数民族は全国人口の 10%にも ならない。 もちろん人口の多少を問わずすべて平等だ。 まず漢族は他の民族の宗教、言語、風俗、 習慣を尊重しなければならない。ここで自治を目標にするか、それとも自治範囲を超越するかと言うこと が私たちの民族政策の一つの重要な問題になる。私たちは民族自治を主張する。 私たちは連邦を実施し ないが、民族区域自治を実施して民族自治の権利を行使するようにする”と強力に指摘した。

1949年 9月 21日から 30日まで中国人民政治協商会議第1回会議が北京で開かれた。 会議には各党派、 人民団体、各界、各民族の代表 662人が参加した。 朝鮮族を代表して朱徳海がこの会議に参加した。

9月 29日、“中国人民政治協商会議共同綱領”が採択された。共同綱領には “多くの少数民族の集中 地区では民族区域の自治を実施するものとし、民族集中地区での人口の多少と区域の大小によってそれ ぞれ民族自治機関を建立する”と明確に規定されていた。

共同綱領を討論する時、朱徳海は中国で区域自治を実施するのは、我が国の実情に相応しいと述べた。 朱徳海は中国の少数民族は過去に独立的民族ではなかったから、ソ連の民族問題とはその状況が完全に 同じではないと説明した。

会議の期間、朱徳海は延辺朝鮮族の歴史と現状況を紹介すると同時に、将来、民族問題でどのようにする かについても提起した。朱徳海は、民族幹部を養成する問題、民族地区の民族関係問題などについて言及 した。 朱徳海はまた、延辺は歴史的原因により、一部の地方の漢族の教育が遅れているので、少数民族 も漢族を助けてあげなければならない問題が出ると申し立てた。 朱徳海はまた、多くの民族の発展と 団結問題にも言及した。 各民族が団結すればこそ経済上でも共同で発展するようになるだろうし、 経済が発展すれば国家建設に対しても貢献が大きくなると述べた。

会議では中華人民共和国中央人民政府委員会を選挙し、毛沢東が草案を作成した “中国人民政治協商会 議第1期全体会議宣言”を一致して採択した。 会議ではまた、国の名称、首都、国旗、国章、国歌なども 決めた。 このような国家の大事を討論するちびに、朱徳海は朝鮮族人民を代表して自身の民主権利を 十分に行使した。
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