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91.教育文化芸術の主人に(3)

新聞を創刊、出版物を刊行して党の路線・方針・政策を宣伝。芸術関係者、国慶1周年に毛主席迎えて北京で公演


▲ 国慶1周年慶祝公演での延辺文工団の合唱 <勇敢な朝鮮人民は立ち上がった>

路線刊行物出版事業

1945年 8月、ソ連紅軍と抗日連軍が延辺に進駐すると、満州国が間島省公署とすべての機関が素早く 瓦解し、延辺の多くの人民は日本侵略者たちの基盤下から解放された。輝かしい革命の伝統と悠久たる 歴史を持った朝鮮族の中の多くの先進的人物と知識人は、解放を迎えたその日から新聞を創刊、出版物 を刊行してマルクス・レーニン主義を宣伝し、中国共産党の路線、方針、政策を宣伝した。

1945年 11月、“吉東活血文献社”で “偉大なる社会主義10月革命”という本を出版した。 1946年に 入ると、延辺謄写社、朝鮮義勇軍第5支隊政治部、龍井青年会、図們中ソ文化協会出版部、延辺師範学校、 吉林省朝鮮人民主連盟、延辺文化社、 延辺出版社、吉東出版社など多くの機関・団体で “ソ連集団農場 の話”、“ソビエト共青の生活” などのような世界初の社会注意国家を紹介する図書と “共産主義原理”、“価値価格と利潤”、“共産主義とは何か?” などマルクス−レーニン主義を 宣伝する図書、そして “八路軍”、“国民党と共産党”、“連合政府を論ずる”などのような中国 共産党と八路軍を紹介する図書を出版した。

1947年 3月、専門編集出版機構である延辺教育出版社が創立されたが、出版社は朝鮮族小中学校教科書 を主に出版する機構だったので、和龍中ソ文化協会、延吉中ソ友好協会、龍井中学校生産合作出版部、 龍井人民学院印刷部、青年文庫出版社、延吉市ハングル学会、汪清人民民主大同盟、消息報社、時事 旬報社、吉東軍区政治部印刷工場、民主出版社、大衆出版社、人民日報社、吉林日報社、延辺日報社、 東北朝鮮人民報社など多くの機関・団体で、ずっと一般図書を出版した。 この時出版された書籍には “社会主義発展史”、“新しい人生観”、“社会科学概論”、“空想から科学への社会主義の発展”、 “共産党宣言”、“中国共産党簡史”、“三豊”、“思想指南”、“大衆哲学”、“ソ連共産党歴史 簡略読本”、“スターリン略伝”のような社会科学の書籍と “大衆歌謡集”、“現代小説の構成”、 “台風”、“北陸の叙情”のような文芸書籍そして “ハングル綴字法統一案”、“朝鮮語文法”のよ うな語学書籍があった。1945年から 1949年、中華人民共和国が創建されるまで延辺で朝鮮語図書をお およそ 173種、出版した。

東北朝鮮人民報社は、一般図書を専門的に出版する編集機構である出版科と印刷機構である東北朝鮮 人民報第2印刷工場、図書発行機構である東北朝鮮人民書店を持っている。

雑誌出版事業も活発に展開された。 1945年末、延吉市青年会で月刊雑誌 “イスクラ”を刊行し、続い てまた翻訳文を主に掲載する総合刊行物 “新建設”を出版した。 1947年には吉林省朝鮮人民主連盟で 大型総合雑誌 “民主”を刊行、 1948年に土地改革が一段落した後、大衆雑誌社で月刊雑誌 “大衆” を刊行した。 1949年には東北朝鮮人民報社で次々に総合雑誌 “文化”、 農民雑誌 “農民の喜び”、 少年雑誌 “少年児童”を刊行し、延辺教育出版社では教育雑誌“教育通信”を刊行した。 総合雑誌 “文化”は決まった紙幅で文学作品を掲載したが、この雑誌の主要責任者は李ソンフィで、後に李ホン ギュが主筆を引き受けた。 この雑誌は今の “延辺文学”の前身だ。

延辺教育出版社創立

1948年 2月 8日から 12日まで、吉林省教育庁庁長・呂リャンの司会のもと、延吉市第1中で吉林省解放 区中韓教育会が開かれた。 続いて 2月 13日、李ホウォン、朴グンシク、黄ボムシク、朴ジェハン、 盧スンギュン、カン・グンモなどの発起で朝鮮族中学校の代表 20人余りが延吉市第2中に集まり、 朝鮮文教材編纂問題を巡って座談会を開いた。この集まりで吉林省民主連盟の責任者リャン・ファン ジュンに教育出版社創立準備事業を委任した。 短時間の準備を経て 1947年 3月 24日、全国で最初の 民族出版社である延辺教育出版社が創立され、正式に看板を掲げた。 出版社の主旨を “東北朝鮮族の 文化教育を発展させるために朝鮮文教材、雑誌とその他の図書を出版すること”であった。

延辺教育出版社は初期に吉林省教育庁の指導を受け、出版社内に管理委員会を置いたが、リャン・ファン ジュンが総責任を担当し、安ビョンギが経理を引き受けた。 教科書は延吉市中央小学校と 2中の教員たち が報酬もなしに編纂し、印刷は延吉、龍井、図們、汪清等の小さな印刷所に任せ、資金は多くの学校から 1263万元(東北貨幣)の流通券を得、その後 1948年に吉林省教育庁から 600万元の支援を受けた。

ところが物価が日々に上昇したため、初春に受けた教科書予約金で紙を買い、教科書を出版してみると、 少なからぬ欠損を出す問題が生じてしまった。教科書注文部数が増えるほど欠損が増加した。そこで出版社 では延辺専員公署の同意を得て、学父兄たちに予約金の代わりに予約米を受ける事にした。 その後から 朝鮮族が暮している近所の汽車駅ごとには、教育出版社に送って来る米が山積みされるようになった。

この米で紙工場と紙を変える予定だったので、教育出版社指導部では、延辺専員公署を経て東北局宣伝部に 行き、情況を報告した後、紹介状を石硯紙工場に渡すことを要求した。 石硯紙工場では米より木が必要だ と言う。そこで出版社では東北臨時行政委員会商業局を尋ねて、米相当額の木を要求した。 その木で 紙問題を解決し、その年、東北通貨 160億元の収入を得て財政の土台を築いた。

1948年 7月、延辺専員公署専員・林春秋は、出版社従業員大会で延辺専員公署文教課長だったリャン・ ジョンボンを延辺教育出版社兼任主任に、リャン・ファンジュンを実務副主任に任命すると宣布した。 1948年 4月 1日から 1年間で編集出版人員が 60人余りに増えた。

1948年 6月から延辺教育出版社では自分の直属印刷工場を経営し始めた。 そして大衆書店を任され、 発行事業をするようになった。 そして出版、印刷、発行などの部門を基本的に備えた企業体になり、 1947年末からは従業員が 162人に達する地方国営機構になった。 社内には社部、編集部、経理部(書店含む)、 公務部を置いていた。

1947年には学校教員を組織して小学校と初等中学のハングル、政治常識、歴史(朝鮮史) 教科書を編纂出版 したのに止まったが、 1948年からは小学校の算数、自然、地理(朝鮮地理、東北地理) 教科書を追加で 編纂出版し、1949年には初等中学の中国語、 代数、幾何、物理、化学、植物、動物、生理、鉱物教科書 まで編纂出版し、朝鮮族小学校と初等中学各科目の教科書をほとんど編纂出版、7科目の中高教科書も編纂 出版した。これらの教科書は 1948年から東北各解放区の朝鮮族中学校に供給された。

延辺歌舞団創立

延辺歌舞団の前身は、 1944年 6月、晋察冀辺区で建立された華北朝鮮義勇軍と政治幹部学校クラブだ。 このクラブを 1945年の初めに朝鮮義勇軍華北支隊宣伝隊と改称した。

1945年秋、遼寧省大石橋で部隊を再編する時、宣伝隊の幹部たちを第5支隊宣伝隊に編入させた。 1946年 8月、第5支隊宣伝隊は地方の “イスクラ”劇団、龍井芸術団の位一部の俳優たちと合同して、 吉東保安軍政治部文芸工作隊と称し、 1946年 9月には延吉に来た吉林軍区宣伝隊(漢族)と合わせて吉林 軍区政治部文工団第2大隊に編成された。

1947年 2月、吉林軍区政治部文工団第2大隊は、龍井で安図の “5.1”宣伝隊と合併して吉東軍分区政治 部宣伝隊と称した。 1947年 12月、宣伝隊は延辺専員公署へ来て、短期間の準備事業を経て 1948年 3月 16日、 延辺地区専員公署 民族事務処 文工団を建立し、延辺文工団と略称した。

1949年 2月、黒龍江省ハルピン東北民族事務処文工団の一部の俳優を受け入れた後、延辺文芸 工作団と称し、 1950年 1月、 正式に延辺歌舞団と改称したが、その時人員は 97人だった。 延辺歌舞団は何人かの漢族を除き、ほとんど朝鮮族で構成された。

延辺歌舞団は建立初期には軽騎兵になって延辺地区で宣伝活動を展開し、1950年、国慶 1周年には 北京中南海懐人堂で公演し、毛主席と党中央リーダーたちの絶賛を受けた。毛主席は延辺歌舞団を 含む少数民族芸術人たちの公演を見て、有名な浣渓沙 “柳亜子先生に回答する”という詞も作った。

音楽の創作では解放直後、許瑞緑、朴佑、董希哲らの作曲家が“新しいアリラン”、 “機織り歌”、“走狗清算記” などの大衆的歌謡を創作し、 1947年に延辺教育出版社で 38首 を編集し、初めて “大衆歌謡集”を出版した。 建国の後、“中華人民共和国慶祝の歌”、 “大生産の歌”などを創作公演し、 1950年建国 1周年に北京中南海懐人堂で披露した “勇敢 な朝鮮人民は立ち上がった”、“新しいアリラン”、“機織り歌”などは中央の指導者たちが 観覧し、また中央新聞映画撮影所で記録映画に取って全国に放送した。

著名な作曲家・許瑞緑は 40年余りの間 “機織り歌”、“故郷への思い” など 150曲余りの歌曲 に 30編余りの器楽曲を創作した音楽家であり、特に大衆歌謡の創作に成果が大きい。 金声民は延辺歌舞団 で俳優、作曲、副団長などをやり、 40年余りの間 400曲余りの歌曲、舞踊曲、器楽曲を創作した。 彼は民族的感情が濃い朝鮮族新民歌の創作に精力を注いだ。 彼が創作した“自治州創立慶祝の歌” は今も広く愛唱されている。 管楽“祝典行進曲”は 1947年に許瑞緑が作曲したものだが、当時、 吉林省の管弦楽隊ではお互いに争って演奏した。

延辺歌舞団では歌劇、新唱劇創作でも大きな成果をおさめた。 1948年、車チャンジュン、洪ソンド など が歌劇 “勝利へ前進”を創作し、1950年には金ウスン、金インヘが 2幕 2章の歌劇 “革命を最後まで 進めよう”を創作した。

1951年から延辺歌舞団では創作関係者たちを各券に派遣し、民族民間舞踊を発掘し、受け継ぎ始めた。 歌舞団では延吉県の民間芸術人のヤン・チャンユンを招請し、 “農楽舞”と “扇舞”を学んだ。 歌舞団では民間芸術を発掘・収集して “農楽舞”、“スンム”、“サモム”、“ファルチュム”、 “剣舞” など何十種かを整理したが、そのうち “農楽舞”と “チャンゴ踊り”が最も熱烈な歓迎を 受けた。 “農楽舞”は 1951年 8月 15日に延辺中ソ友好協会クラブで初公演をして、観衆の絶賛を受け、 “農楽舞”を伝授した河テイルは優秀俳優賞を受けた。
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