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90.教育文化芸術の主人に(2)

朝鮮族有志、民族大学建てようと東奔西走。延辺人民放送局、民族言語で出版放送

延辺大学創立

東北が解放されると朝鮮族は自民族の大学を建てようという熱意に沸き立った。 1948年 12月、 延辺専員公署専員・林春秋は、このような民族の念願を抱いて吉林省 民族事業座談会に参加し、延辺に朝鮮族大学を建てる構想を打ち出し、会議の参加者 たちの一致した呼応を得、すぐに中共吉林省委の同意を経て中共中央東北局の批准を 受けた。延辺に帰って来た林春秋は、延辺大学創立準備委員会を設立し、林民鎬、金 ユフン、朴ギュチャンらとともに具体任務を引き受けて昼夜を問わず東奔西走した。

大学が創立される前に “胎児”の名前を “東北朝鮮人民大学”と付けておき、創立 の時には “延吉大学”という “幼名”をつけ、その後 “延辺大学”と正式に名付 けた。

1949年 3月 20日、延吉市スターリン劇場で盛大な始業式が開かれた。 司会者・崔 チェが準備委員会を代表して延辺大学の創立を整然と宣布した。 林春秋は大会で、 延辺大学の創立は中国共産党による民族政策の輝く体現だと強調し、大学の全構成員 は党の指導の下に専ら団結して艱苦奮闘の精神で学校を運営するようにと訴えた。 教員と学生代表は専ら学校を我が家のように大切にすることを固く誓った。延辺各界 の関係者と東北各地から来た来賓たちが我が家の慶事のように喜んで祝辞を述べた。 その後、開校記念日を 4月 1日と決めた。

ついに中国朝鮮族最高学府の延辺大学は声高く産声を上げて誕生した。 ずいぶん前 から延辺大学の創建に関心を持って来た吉林省政府主席・周保中は、トラック、ピア ノなどを送ってくれたし、延辺大学の創設に最も大きな貢献をした林春秋は、北朝鮮 へ出た後にも常に忘れることなく財政面で支援してくれたし、図書資料の問題を解決 してくれた。 東北各地にいる朝鮮族は貧しい暮しにもかかわらず物心量面で誠心誠 意、支援した。 初代校長の朱徳海、副校長・林民鎬は朝鮮族有志たちと共に “延辺 大学理事会”を設立して、商店、薬屋、工場を立て、創立されたばかりの学校の経費 を支えた。

延辺大学の主旨は、朝鮮族の建設人材を養成することで、学校にとって徐々に我が国 の朝鮮族建設人材を育成し、朝鮮族の科学文化教育を発展させる基地にすることで あった。

創立当時には文学部、理工学部、 医学部と農業専門を設置したが、 1950年には元の 文学部と理工学部を合併して師範学院とし、 医学部を医学院とした。 1956年にまた 通信学部を増設し、 1957年に元の農業専門を農学院とした。 1958年 7月、延辺大学 の医学院と農学院は延辺医学院と延辺農学院に分離された。延辺大学は元の師範大学 院を基礎に忠実に調節し、朝鮮族の中等教育教員、民族幹部、科学技術人材を育成す る総合的な大学になった。

創立時期から 1958年 7月まで、延辺大学はずっと朝鮮族学生だけ募集する単一的な民族 大学だったが、辺境地区の漢族幹部、教員、科学技術人材が不足で、また源泉がないなどの 問題を解決するために 1959年から部分的に漢族とその他の民族学生も募集した。 かく して延辺大学は、朝鮮族の建設人材を育成することを重点にして、その他の民族の人材の育成の 面倒を見る多くの民族が共に教え学ぶ民族大学になった。

延辺日報の創刊

1945年 8月 18日、延吉で民営朝鮮文新聞 “韓民日報”が創刊された。 韓民日報は 8折紙に 2面の日刊紙だった。 創始者は光復前に朝鮮の “毎日新聞”間島支社長だった崔ムだった。 彼らは満州国東満新聞印刷所と延吉 カトリック印刷所を合併して新聞印刷工場とし、大儒学者と呼ばれた開山屯の韓ソッキを社長に招いた。

しかしこの新聞は明らかな政治的傾向を帯びることが出来ず、自然主義的色彩 だけが盛り込まれていた。 韓民日報は報道で日本を除いては、ほとんど宣伝した。 言わば “韓国臨時政府の首領・金九氏、帰国前に蒋介石と会見” などの記 事を載せながらも、一方では “階級とは何か?”、“マルクス主義資本論入 門”、“10月革命略伝” などの文を載せて中、ソ、韓(朝鮮)の親善、減租減息などの文を掲載した。 1945年 11月 5日、延辺人民民主大同盟は“韓民日報”を閉鎖した後、 “延辺民報”と改称、 再組織して民主大同盟の機関紙とした。“延辺民報”は初号から毛沢東同志の “連合政府を論ずる” という文を連載して、新聞の政治方向を明確にした。 新聞は、進む方向を正しく見出せない延 辺人民に適時に国内外の時事を報道し、政治理論を解く燈台のような役目をした。

1946年 1月 23日、中共中央東北局では延吉に吉東分省委、吉東専員公署、 吉東軍分区を置く事にした。 そして “延辺日報”は専員公署の創立を慶祝して “号外”を出し、1946年 4月 24日には東北からのソ連紅軍の撤退 のために赤い色で塗った “紅軍歓送”特集を出した。

1946年 5月 1日、吉東軍区政治部で “延辺民報”を閉鎖し、 “吉東日報” (朝鮮文版)に改称、吉東軍分区の政治部機関紙とし、ユ・ミョンソンを主筆に任命した。 この時から新聞は新華通信を掲載し始め、蒋介石を頭目とする国民党を批判する世 論を起こした。

1946年 9月、中共吉林省委機関が延吉へ移って来たことに伴い、 “吉東日報”は省党委 の機関紙 “人民日報”と合併されて “人民日報”(朝鮮文版)と改称された。 そして吉林省党委は朝漢文機関紙を置くこととなった。 “人民日報”(1947年 3月10日 “吉林日報”に改称される)社長はソ・リム、副社長は孫ビョン、 主筆はチャン・フンであり、副主筆はソク・クァ、林民鎬、金ビョンなどだった。林民鎬と金ピョン は副社長を兼ね、朝鮮文版を主管した。

“人民日報”(朝鮮文版)は民族性を色濃く帯び、朝鮮半島についての報道の比重 を多くした。1946年 9月 9日は “訓民正音”発表 500周期記念日だった。 延吉で開 催されたこの記念行事を省民主連盟で主催し、 “人民日報”(朝鮮文版)で後援した。 この記念行事の報道で記者は “正音頒布 5世紀の間、封建統治 階級のハングル蔑視と日帝の残酷な文化蹂躙により朝鮮の人民でありながら 各々自民族の言葉と 文字を思い通りに使うことができず、今日初めて我々の言葉と文字を勝ち取ることになっ たこの喜びは、朝鮮同胞ならば誰もが感じている!”と吐露したりした。 ま た戦線から送られた資料で “長官区で泣いている朝鮮族同胞”という文を連載に紙面 を惜しまなかった。

1948年 3月 11日、吉林が解放されると省党委機関は吉林に移った。そして延吉には中 共延辺地委が再び建立された。 延辺地委は 4月 1日、地委機関紙 “延辺日報”を創刊する 事にしたが、編集員と印刷設備及び印刷工は基本的に元・省党委機関紙 “吉林日 報”(朝鮮文版)の設備と人員だった。 中共延辺地委宣伝部長・崔チェが社長 を兼任し、石クァが副社長を担当した。主筆は “吉林日報”の時の副主筆だった林民鎬が担当した。 “延辺日報”は共産党の主張と政策を積極的に宣伝して、 解放戦争の情勢を解説し、延辺各地の人民の闘争情況を反映することで党の重要な世 論道具になった。

新聞社は軍事化した。 前方で夏期攻勢と秋期攻勢が発動されると、新聞社 もそれに歩調を合わせ、臨攻運動を展開すれば、新聞刊行を急き立てた。 編 集、記者と印刷工は “分秒を惜しまず新聞を出すことこそが、国民党反動派 の胸倉に銃刀を突くことだ”、“全ては戦線の勝利のために!”という掛け声 を掲げ、同じ心と意思で働いた。 記者たちは荷物や布団を担いで、数十里の道を徒歩で取 材しに通ったし、編集者たちは合宿で雑魚寝をしながら昼夜を分かたず働い た。 印刷機を回していながらも、停電になれば歯車にベルトを結んで人力で回 しながら新聞印刷だけは絶対的に保障した。 重要なニュースを知らせる新華社専員が 突然入って来れば、印刷した版面でも新たに版を調節して新しい記事 を変えて入れなければならなかった。 このように毎日毎日、新聞版面を改め直して夜といわず 昼といわずクタクタになるまで働いても、顔をしかめる人は一人もなかった。 当時、延辺日報 の発行部数は 8000部余りに達した。

1949年 4月 1日、 中共中央東北局の批准を経て、 “延辺日報”、北満(ハルピン)の “民主日報”、南満(通化)の “団結日報”など三つの朝鮮文新聞を合併し て “東北朝鮮人民報”と改称、延吉で発刊式をあげた。新聞は中共延辺地委の機関紙 だったが、全東北地域内の朝鮮族を読者対象とした。 社長は崔チェで、副社長 は李ウクソンだった。 ハルピンから来たキム・ドングと通化から来た白ナム ピョが主筆、副主筆を担当した。 東北朝鮮人民報社では、南満と北満に駐在記者 を派遣し、朝鮮族密集地域に自らの通信報道ネットワークを置いた。 新聞は自分の社説で 総合性、民族性、地方性、大衆性を新聞の特性にすると述べた。 新聞は当時、国内で唯一の 朝鮮文新聞であった。 3つの新聞社が1ヶ所に集まると、従業員総数は 177 人、 そのうち編集者と記者が 84人だった。 新聞発行部数は 1万 5400部に達した。

その後 “東北朝鮮人民報”はさらに “延辺日報”と改称された。

延辺人民放送局創設

延辺の放送事業は比較的早く発展した。 1937年 4月、満州国は延吉に放送局を建て た。 この放送局は 1945年に解放される時、ソ連紅軍と当地の人民の保護が あったので、比較的元の状態を保全していた。 1946年 8月 17日、中共吉林省委と吉林 省政府が延吉に移り、この放送局を回復させて省党委で直接指導した。 放送局の名称は “延吉新華放送局”で、解放後に比較的早く立てられた放送 局の一つだった。 放送局は解放戦争の時期、人民軍と協力して放送の役目を十分に 発揮したが、対内的には全力をつくして戦線を支援するように人民を動員鼓舞し、 対外的には敵を暴露して瓦解させる歴史的任務を遂行した。

1948年 3月 10日、中共吉林省委と省政府が吉林市に移った後、延吉新華放送局を基礎に して 11日 1日、延吉人民放送局が創設された。延辺地委宣伝部部長・崔チェが局長を 兼任し、数日後にはリュウ・スリムが副局長に任命された。

延吉人民放送局は中央放送局の全国中継番組以外の 6時間を完全に朝 鮮語で、時事番組と地方番組を放送した。 送信出力は 1kwだったが、すべての 録音、中音、送信などの放送設備は日帝が残して行ったものだった。 聴取 範囲は延吉、龍井、図們一帯だった。

放送局には編集班、放送班、器物班など三つの正式機構があった他に、専門家 1 人が庶務を引き受けていた。 放送局全体の従業員は 15〜20人の間で推移した。

延吉人民放送局の朝鮮語放送は中国での我が同胞の唯一の朝鮮語放送であり、中 国で唯一の少数民族放送だった。 延吉人民放送局の事業方針は “地方性、民族性を 保障する前題の下で、朝鮮民族を主要対象として多くの階層をカバーすること”であった。 そうするうちに 1951年 4月、延吉人民放送局を “延辺人民放送局”に改称した。 延辺人民放 送局は上記の事業方針の指導の下に 50年代の初めに至るまで “国内外ニュース”、 “地方消息”、“時事解説”、“音楽放送”、“小説連続朗読” などの放送番組を続けて来たし、対象性放送番組としては、 “従業員放送”、“青年学生 放送”、“婦女放送”、“少年児童放送”のようなものがあった。創始期ではあったが、放送番組 が比較的素朴ながらも多様に作られた。 また急変する政治情勢に歩調をあわせて何 回もの全域報道を行なうことで、放送の威力を誇示し始めたし、多くの民族人民に ずっと粘り強く、最後まで革命を続けなければならないという思想意識を注入した。

日帝が敗北し、我が国で国内解放戦争が続いた日々に出来た延辺人民放送局は、長江南 北で続いている戦争の形勢と中国人民解放軍の勝利の消息を適時に広く報道し、人民群 衆に勝利の喜びと勇気を与えたと同時に、戦線支援の消息も適時に報 道して人民群衆の戦線支援事業に貢献した。 延辺人民放送局は 1949年 10月 1日、 毛沢東主席が中華人民共和国の建国を全世界に荘厳に宣布する実況を適時に中継して 延辺の多くの民族人民が毛沢東の大きく力強い声を聞けるようにし、開国祝典の盛 大な実況を北京人民と共に等しく聞くことができるようにした。
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