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87.山海関越え全国解放の戦場へ(4)

海南島で竹船でアメリカ現代化軍艦撃退、鄭州にて朝鮮族で編成した独立15師編成


▲ 海南島戦役に参加するため出発する 40軍砲兵営の朝鮮族戦士(1950年 4月 16日雷州半島で)

朝鮮族兵営

1949年 12月、 広東省と広西省が解放されると大陸は基本的に解放された。広東省と広西省の 国民党残余部隊は尻尾を巻いて海南島へ逃げて行った。 海南島には 10万の国民党軍がいた。

中国人民解放軍第4野戦軍司令部は第40軍と第43軍に海南島攻撃を命じた。

40軍には噂に高い朝鮮族砲兵営があったが、今度の命令を受けて師団直属砲兵営に再編成された。 彼らはいくつかの大砲を持ち、遼瀋戦役、平津戦役から祖国の西南・桂林と南寧に至るまで数十回 の戦闘を繰り広げた。 徐々に戦闘で獲得した “5.7式野砲”、“3.8式野砲”、“14連式野砲” な どの現代的な武器で自分を装備しながら、300人余りの兵力を持った営に成長した。 営長は金ヨンマ ンで、教導員はチャン・ボムだった。 今度の砲兵営が引き受けた主な任務は、木船に乗って敵の飛 行機と軍艦と戦いながら歩兵を安全に渡海できるように護衛する “航行防衛営”の役目を果たすこと だった。

部隊は次々と水上訓練に参入した。朝鮮族の戦士たちは延辺の山里に住んでいたので、大部分が海を初め て見たし、船酔いを抑える方法も分からなかった。船に乗るだけで船酔いをするなど、困難が甚だしかっ た。 弱り目に崇り目で、南方の蒸し暑い天気のため、ややもすればマラリアなどの病気にかかった。 しかし戦士たちは一日も訓練を疎かに出来なかった。日が昇る前から夜遅くまでブランコ乗り、風浪の 中で船漕ぎ、橋渡り、船酔い抑えなどの訓練に集中した。そして 3ヶ月の間苦しい訓練を経て、結局海 上作戦ができる“海軍戦士”に鍛えられた。

“航行防衛営”の戦士たちは当地の経験豊かな船乗りを師匠に迎え、真竹を切って船を作り、帆をかけ 砲を設置した。 帆4枚をかけて自動車発動機を設置した竹の船は、戦闘員 34人が乗ることができたが船 にはまた山砲、“5.7”、“3.8”式野砲それぞれ1門、 高射機関銃 2丁、水圧式重機関銃 2丁、軽機関銃 3丁を配置した。砲板は布団を水に濡らしてくるみ、震動しないようにした。 船に水が入らないように石 を粉にして油ねりをして隙間を塗り、水ポムプは真竹で作った。 海上実戦練習まで成功させた朝鮮族の戦 士たちは、誇らし気に “私たちは中国人民解放軍第一の海軍”と言った。

勇敢なる“航行防衛軍”

1950年 4月 16日、出征を控えて司令部では徐聞市沖合で渡海部隊を歓送する大会を開いた。

軍楽隊の奏楽に合わせて自動車に乗った “航行護衛営”戦士たちは、群衆の歓送を受け ながら波止場に着いた。 500隻余りの竹船に既に一個師の兵力が乗っており、彼らが乗った船の左右 両側には我が朝鮮族“航行護衛兵” 船 12隻がずらりと並んでいた。

夕方 6時 30分、出発を知らせる信号銃声が鳴ると、船は従隊軍楽隊の奏楽と絶え間ない掛け声の 中で徐々に動き、前に進んだ。 一個師の兵力を護衛して滞りなく順風を受けて前に進む “航行護衛営”の朝鮮族将兵たちの心はこの上なくときめいた。

約 15kmを航行した時だった。 ふと空中に照明弾が浮び上がり、海上はただちに日中のように明るく明 るくなった。続いて前方には敵の軍艦が艦砲射撃をしながら近付いて来て、空では敵機がうなりながら飛 んで来て砲弾を投下した。 砲弾の暴風に我軍の船はフラフラと揺がされ、いくつかの船には既に水が 入って来た。 朝鮮族砲兵営の戦士たちは大砲を装置した竹船を総出動させた。 竹船は営長・金ヨンマン の命令に従って敵艦に向かって近づいて行った。 我軍の船は背後に回って敵艦に砲火を浴びせた。 この突然の襲撃に当惑した敵艦は、船首を回して慌てふためき逃げ始めた。

敵の軍艦が逃げた後、我軍の船は闇をかきわけて順風を受けて海南島方向へ走った。 ある戦士が暗闇の中 に海南島が見えると音高く叫ぶと、皆が興奮を抑えられず大騒ぎした。この時、空に急に黒い雲が覆い被さり、 風が吹き始めた。船が波に押されて前に進んでいたので、前進するのはさほど大変ではなかった。 しかし 50歳 余りになる経験豊かな船頭は、少しも恐れることなく勢いよく櫓を漕いで行った。

海南島海岸を守った敵っていた敵軍が我軍を見つけて艦砲射撃を浴びせた。 これに “航行護衛営”12隻の船に 積んだ全ての大砲が一斉に応戦し始めた。 我軍の砲射撃に敵の防御施設が一つ一つと崩れた。

船が海岸にほとんど着くようになると、歩兵たちは船からジャブジャブと下り、陸地へと上がった。500隻余りの船に 乗った歩兵が勝利のうちに海岸に上陸し、破竹の勢いで敵を打ち破りながら突進して行った。

“航行護衛営”は、勝利のうちに任務を遂行した後、大陸に帰って新しい任務を受けよという上級 の命令を受けて船首を切り返した。 約 15マイルほど来た時、日が昇り始めた。 ところが夜明け色の中を眺めたら、 東沖合に敵の軍艦が黒い煙を吐きながら “航行護衛営”の方へ近付いて来るのが見えた。 我軍を見つけた 4隻の 軍艦は両側に分かれて囲んで来ていた。 事態は非常に危なかった。

“戦闘準備!”

金ヨンマン営長は果断に戦闘命令を下した。

“1、2連はそれぞれ両側に分かれて敵艦を攻撃せよ!”

命令が下ると金ドゥマン連長は、 2連の船6隻を左に寄せた。

“同志達! 祖国と人民のために最後の犠牲を覚悟しよう!” 金ドゥマン連長は音高く叫び、戦士たちを 指揮して敵艦に向かって突進して行った。

敵艦と我軍の船の距離はますます近くなっていた。 1000m、 500m、400m...

“撃て!”

射撃命令が下ると第2連 3牌 7班班長であるチョウ・チャンスが一番前から近付く敵艦を狙って前方砲を撃った。 命中だった。 敵艦では火柱とともに竜巻のような煙が立ち昇った。他の船でも同時に大砲を 撃った。 不意の襲撃に怯えた敵艦は船首を切り返して逃げ始めた。

ところが敵艦に命中弾を撃たれたチョウ・チャンスと副射撃手・金ドンムが敵弾に当たって壮烈に犠牲になった。

他の場所で戦った第1連でも敵艦と真っ向から勇敢に戦った。相手は我が軍の砲火に仰天したあ げく、バラバラと逃げた。 “航行護衛営”は勝戦鼓を鳴らしながら大陸に帰って来た。 その時から解放軍 と人民の中で、竹船でアメリカ製の現代軍艦を撃退したという美談が広く広がるようになった。

独立15師の誕生

1950年 1月末、 中共中央軍事委員会では中国人民解放軍第4野戦軍各軍と特種兵部隊に所属している 朝鮮族将兵に直ちに河南省鄭州市に集結せよと命じた。ここに特殊な戦闘課業を遂行する一部部隊の 朝鮮族将兵を除いた第4野戦軍内の全ての朝鮮族将兵は 3月初旬までに続々と鄭州市に集結した。 彼ら は抗日闘争の輝かしい伝統を引き継ぎ、 8.15解放直後から解放戦争の神聖な戦場で鍛え上げられた鋼鉄の 戦士たちだった。

3月中旬のある日、中央軍委の命令による独立15師の編成儀式が挙行された。独立15師、これは師長から普通 戦士に至るまで、全て朝鮮族で編された朝鮮族部隊だった。 全ての師には 4個歩兵団、1個砲兵痰、工兵営、 通信営、戦車営、警護中隊、野戦病院があり、師級機関では政治部、参 謀部、供給部があった。師長にチョン・ウ、参謀長にチ・ビョンハク、 政治部主任にヤン・グン、供給部主任に金 ユンシク、作戦課長に崔ボンチュン、 幹部課長に李ヨングン、隊列課長に尹ジェハクが任命された。 団級以上の 幹部も第4野戦軍司令部と政治部で任命したが、彼らは第1団に崔ハクフン、ケ・チュンス、李モチュル、 第2団に 李ワンソン、李ソンジン、金哲、第3団に黄ドンファ、金ハソク、チャン・チュン、第4団にチャン・キョドク、黄ビョンテ、 宋ドクマンだった。 砲兵団は師参謀長チ・ビョンハクが団長を兼ねて崔ヒテク、孫フンサンなどが団の指揮員に任 命された。

編成儀式大会は鄭州市広場で挙行されたが、 110本の祝旗が春の風に乗ってはためいていた。この祝旗は地方 の土匪討伐から 三河江南、吉林外郭地帯での運動戦、長春包囲戦、遼瀋戦役、平津戦役、長江渡河戦闘と中南、 西南地区の多くの戦闘と戦役で朝鮮族将兵が授与されたものだった。

大会で第4野戦軍政治部主任・ケジャヒが野戦軍司令部と政治部を代表して演説した。彼は朝鮮族 将兵が全国の解放戦場で成した手柄を高く評価して次のように言った。

“朝鮮族将兵は 3年半の解放戦争の中で艱苦奮闘して勇敢に戦った模範であり、擁政愛民の 模範であり、3大規律8項注意を守った模範だった。 朝鮮族の子弟である君たちは、朝鮮族の 誇りであり、また我々中華民族の誇りである...”

これはまさに妥当な言葉だった。 独立15師の将兵たちの中は大功以上を立てた人だけでも 2000人余りになり、 中でも英雄の称号を授与された人が 100人余り、 85%以上が中国共産党の党員だったのである。

指揮員達の演説があった後、盛大な査閲式があった。 掛け声を挙げて査閲台前を通り過ぎる 1万8000人余りの 鋼鉄の行進隊、地軸を鳴らす逞しく雄々しい足音! 将兵たちの顔には勝利の喜悦が溢れていた。 長白山の裾で、松花江のほとりで、自衛のために参軍した時、日本の敗残兵たちが捨てて行ったしがない武器 で装備され、服装さえ統一できなかった隊伍が、今は国民党軍から奪った戦車、大砲と銃、軽機関銃で武装し、 中国人民解放軍の統一服装をまとう、正規の部隊に育った。 両手に鉄砲を支えて持ち、威風堂々と査閲台の前 を通り過ぎる民族の健児たちと査閲台の上で手を横に振る指揮員たちの顔には高い矜持の光が力強く流れていた。
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