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86.山海関越え全国解放の戦場へ(3)

朝鮮族の志願兵たち、八面山で土匪と合戦。群衆を動員して賢明に土匪の巣窟を奇襲


▲ 中国人民解放軍独立15師団級以上の幹部たち

422団、龍山へ進撃

重慶を解放した後、 422団は解放軍総部から故郷である東北に帰って大生産建設に参加せよという命令を 受けた。 それで部隊は、重慶から船に乗って長江の水路を下った。 ところが四川省バンヒョン波止場に至った 時、意外にも突然、リチョン県一帯に集結せよという総部の命令が下った。

422団は直ちに出発してリチョン県所在地に至った。国民党敗残兵、地方悪質分子、土匪数千名が湘西龍山地 区八面山に行こうとしており、この一群の土匪を討伐する任務が 47軍に下ったのだ。

作戦部署によって主攻任務を担当した第422団は 1950年 1月 3日早朝、龍山に向けて出発した。 3日間で 200 kmの道を強行軍し、 5日に龍山県所在地に至った。団の指揮官たちはまず八面山の土匪の動きを調べようと、 龍山県人民政府に行き、県長・孫キリョクに会った。 孫県長はもともと、我が主力部隊が一ヶ月前に四川を攻撃す る時、龍山県で党と政府の建設事業をさせるためにここに残しておいた同志だった。団部では孫県長の紹介を通じ て八面山の土匪たちの動きが分かるようになった。

師興周を頭目とする土匪たちは、八面山に巣を作り、龍山の他の土匪頭目である瞿伯階、瞿波平の兄弟と既に 20 年余りも鋭く対立し、龍山を南北に分けて占め、割拠していた。 師興周と言う者は、がむしゃらな無頼漢だったが、大 砲を七門も置き、きれいな娘や花嫁たちを見るだけで強制的に拉致した。この者に強姦された女達と惨めに殺害され た人がどれだけいるか分からなかった。 この者は農民たちから奪った阿片を売って武器を仕入れたりした。 宋ヒリョム は湘西土匪の武装に “希望”をかけ、師興周に所長級師長の官職を与えた。

422団は龍山に二日間休息し、思想動員、食糧の準備、敵状調査、行軍路線選択などを稠密に行なった。 敵味方の力 量対比を見れば、我軍は 2000人余り、土匪は 5000人余りで、著しい差があった。 それでも争わなければならず、戦っ て必ず勝たなければならなかった。

1950年 1月 8日夜明け、我軍は龍山を出発した。 里耶八面山までは 100km、直線に行かずチョドチェから内渓峰の方 向に、そしてさらに洛塔界、 洗車河、苗儿灘、隆頭の方向に進んだ。 敵方にとって解放軍が里耶ではなく保靖へ行く と信じ込ませる欺瞞戦術だった。 部隊は強行軍して隆頭に到着した後、民衆の中に入って保靖に行く道を聞き、わざと そこへ行くかのように世論をまき散らした。

午後 4時、チョン・パ団長は第1営を率いて里耶を奇襲に出てから、里耶鎮近郊の約 1km離れたところで一群の土匪た ちと遭遇戦を繰り広げた。 土匪たちは初めはとても頑固だったが、我軍の機関銃射撃と砲射撃に押され、ほうほうの体 で里耶鎮へ逃げて行った。

団部ではまず、里耶鎮北側の山を占領するように言い付けた。 流水河南の中に進撃した 3零度銃声を聞いて素早く渡河 してその所に至った. 我軍は里耶鎮北山の一番高い高地を占領し、土匪無頼を砲撃し、敵方が八面山へ逃げられないよう にした。

この時、土匪頭目の師興周は他の土匪頭目たちとともに里耶鎮で酒宴を開き、大酒を飲みながら “共産軍の主力が重慶 から八面山を攻撃しようとすると、少なくとも 10日あるいは半月も経たなければならない”とほらを吹いていた。

“15年前、ハリョン、ソグクの部隊が私たちの龍山を取巻いたことがあった。 しかし私を捕まえることは出来なかった。 ところで江西にあるそれしきの共産軍は、何なのだ!”

師興周の言葉がまだ終わらないうちに、身の縮むような銃声が鳴った。 大声で叫んだ師興周は、情況を調べようと慌て て出て来たが、不意の襲撃だったため、鎮に帰って来て見ると他の頭目たちはジン・ジャヒョンのみ残して、既に八面山 へ逃げてしまっていた。 師興周は副官にロバ二匹を連れて来いと言い付けた。 ところがロバは我軍の銃声に驚いて逃 げ去ってしまった。 慌てて外に出た師興周は部下の馬を奪って乗り、あたふたと八面山へ逃げた。

422団は疲労に加え、地形にも慣れていないので、その日はそれ以上は追撃せず、里耶鎮に駐屯した後、師部の命令を 待った。 師の偵察課長が我軍に投降した元国民党、永順地区の戦員ソブ・ブンスンを連行して来て、チョン・パ団長に 八面山の地形を紹介させた。

八面山は龍山県南部と四川東部のユヤン県の間にある湖南、四川、湖北 3省の境界地帯であり、高さが海抜 1400 mにもなり、長さが 45kmにもなるとても険しい山だった。 山は四面八方が険しい断崖絶壁カラ成り、山腹には噂に高 い燕子洞など多様な洞窟が多く、実に天然的な地下堡塁だった。 山頂に通じる四つの分岐一本道は、いずれもデコボ コした岩道だった。 土匪たちは重いものを担いでも平気で上り下りするが、地形に疎い我軍の戦士たちは、見上げるだ けでも頭がクラクラし、這い歩く状態だった。 土匪たちはこんな険難な道に、さらに閘門、鉄条網、トーチカまで設置し、大 量の木材と岩を積んでいた。

1月 18日朝 5時定刻、八面山に対する総攻撃の砲声が鳴った。 我軍はチョン・パ団長 の指揮の下に第2営零は前から、第1営は後ろから同時に攻撃を突き付けた。 2ヶ所はいずれも 70〜80度の険しい絶壁だったが、山上の道にある三つの鉄条網の上には小 さな鈴までつけてあり、また鉄条網の両側にはトーチカを構築してあつた。 鉄条網 で怪我をして鈴が鳴れば、すぐにトーチカから鉄砲を撃ち、木や岩石を投げ付けられた。 地形に慣れていない我軍は何回もの突撃ですべて失敗してしまった。

群衆の中から道案内を捜し出し、再び進攻する戦略を立てた後、多くの戦士たち が群衆の中に入って行った。 しかしここの大部分の群衆は子供と親戚を山 の上に置いている状況だから、山上の情勢をまともに知らせてくれない上、さらには解放軍 のすべての行動を土匪たちに知らせてしまった。 戦士たちが共産党の政策を宣伝し、実 際の行動で群衆を助けてあげて、初めて群衆は徐々に解放軍を信じるようになった。 土匪たちに深い恨みを抱いていた一部の群衆たちは、奮って八面山の道案内に出た。

八面山を巧妙に奪取

1月 20日夜明け 3時、八面山に対する攻撃を再び開始した。突撃任務を引き受けたヤン・ボジェ 連長は、団長の命令に従って連の戦士たちを率いて三人の道案内に付いて 行軍し、繩ばしごや楔などを持って入口にあるイガボというや や小さい村に至った。 村の裏雑木が生い茂った一本道に付いて歩くと、霧の中から奇巌絶 壁がかすかに現われた。 八面山に登る入口だった。 “猿”というニックネーム を持った道案内ペン・オボが腰に繩ばしごを付け、肩にリュックを担いだ後、絶壁の上の一株 の松を狙って手に握った楔を上に投げた。 楔が松にかかると、すぐに力をこめて引っぱり、 しっかりと固定させてから、ペン・オボはさっ と飛び上がって 10mの絶壁をあっという間によじ登った。 ペン・オボ は木に繩ばしご一本を堅く繋いでおいて、他の一本を絶壁の下に投げ落とし、 戦士たちがよじ登れるようにした。こうして彼が繩ばしごを下ろすと、戦士たちがよじ登って来て、 二時間経つか経たないかのうちに 100人余りの戦士が八面山に登ることができた。

ヤン・ボジェが信号銃3発を発射すると、すぐに砲声が鳴って機関銃の音が鳴った。 これは土匪たちの注意力を別のところへ逸らし、突撃連を援護するためのものだった。

3牌は他の二人の道案内の引導を受けて前面攻撃を開始、1、2牌はペン・オボの案内 を受けながら後面から接近した。 日は既に明るかった。 後門を守る 100人ほどの土匪無頼が焚き火の傍に集まって雑談していたが、銃声とどなり声に驚いて 木と岩石をでたらめに転がし出した。 木や石が転がり落ちる 音が雪崩のように騒々しく鳴った。

“鉄砲を差し出せば助けてやる!”

山の麓で騒がしい音が出ている時、山の上から急に雷のような音とともに銃声が鳴りった。 10人余りの敵が銃声とともにあお向けに倒れた。

“共産軍だ! 早く逃げろ!”

土匪たちが仰天して後ろを向いたが、ヤン連長が従えた二牌が突入し、 一人も逃すことなく全て生け捕ってしまった。 前面を守った土匪た ちも我軍の突撃牌の不意の襲撃にどうすることもできずに投降してしまった。

主力部隊は山に登った後、連を単位に捜索戦を始めた。 チョウ連長は直ちに第5連 を従えて燕子洞に至り、戦闘体勢を整えて燕子洞を包囲して洞窟の中の動静を察した。.

燕子洞には四つの洞窟が一列に並んでおり、洞窟と洞窟の間は約 10mであった。 そして洞窟の中には最初の洞窟から四番目の洞窟まで通じる道があった が、師興周の司令部と後軍部は四番目の洞窟の中にあった。 最も特異な洞窟は三番目の洞窟 だった。 洞窟の中に入って行った後、一区間の下り坂を下りると、数百人を受け入れるこ とができる “空間”があり、その周りには曲がりくねった横町があり、大空間に いっぱい散らばっている石柱、石筍、石花は天然の隠蔽物になっていた。 洞 窟の中にはまた四川に通じる秘密道路もあった。 実にひとりで “万人と対敵するこ とができる要衝の地”だった。

午後 5時、捜索しに出た部隊が全て燕子峰に集結し、燕子洞を漏れなく幾重に も囲んだ後、政治攻勢で師興周を投降させようと考えた。 しかし師興周は投降 する気味を見せなかった。 日が暗くなった。燕子洞の暗い洞窟の中で機関銃射撃を したり銃射撃をしたりした土匪たちのうち、一人が飛び出して来て、大きな声 を上げた。

“共産軍たちよ聞け。 ここは年寄たちのいらっしゃる ‘小さな部屋’で、仙人も入って来ない のに、君たちは何様なのか!”

すると他の土匪が出て来て、憎々しげに叫んだ。

“上って来るなら早く上って来い! 酒もあるし肉もあるから年寄りが招待 してくれる。 そして女たちも付けてやる!”

土匪たちの嘲弄に堪えられなかった戦士たちは命中弾を投げ込んで、彼らを吹き飛ばした。 悪漢たちは崖に転がり落ちた。

チョン団長の命令によって山砲が火を吹いた。燕子洞の洞窟の入口ごとに砲弾 が打ち込まれた。土匪たちは砲弾が破裂する音がする度に “アア!”“痛 い!”と喚いていたが、しばらくすると死んだように静かになった。

翌日、夜明け頃、燕子洞から出た土匪一人を捕まえて審問すると、その者は 師興周が洞窟の中にいないと言った。 夜の十二時を過ぎてから闇に紛れて荷物を担いで 絶壁に垂れている縄ばしごをつたい、洞窟の下へ逃げたとのことだった。

3連と 5連は直ちに燕子洞山村を占領し、爆破薬で燕子洞の中心を爆破した。 すると中腹に待機していた二牌の戦士たちが靴を脱いでガソリンを 撒いて火の輪を作り、洞窟の中に入って行った。 洞窟の中を隅々まで捜索し たが、大部分の土匪たちは洞窟の中の三面の出口へ逃げ、残っている者はいくばく もなかったが、底に 20人余りの土匪の死骸が散らばっていた。 洞窟の中で我軍は無線機 1台、数十丁の銃、10万斤余りの食糧、大量の布地と衣服、アヘン、塩、油 などを暴き出した。
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