xxxxxxx
朝鮮族通信 中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト Search by Google:
ホーム 朝鮮族概要 地域紹介 政治 経済 歴史 観光 ショッピング コミュニティー お問合せ


目次][BACK][NEXT

88.農民たち、互助合作の道へ

李オクグム、国賓会で“トラジ”歌う。金シリョン、セゾン平野で“互助組”を成功させる


▲ 手作業で藁打ちをしている <李オクグム・助け合い組>(1946年)

李オクグムと “助け合い組”

土地改革以後、貧乏から完全に脱するために朝鮮族農民たちは党と人民政府の訴えを積極的に奉じて互助合作の道 へと進んだ。 特に烈士家族、軍人家族たちが農業の前線へ先頭に立って出た。革命烈士家族・李オクグムが組織した 助け合い組と互助組がその一例と言える。

李オクグムは朝鮮咸鏡北道 城津郡の生まれ(1922)だ。 8歳の頃から地主の家で仕事をしながらいろいろな苦労をした 李オクグムは 15歳の時、朝鮮咸鏡北道徳山地域で兄を手伝って遊撃隊に情報を運び、飯の用意までした。そうしたあ る日、祖父の密告により見つかり、それ以上遊撃隊を手伝って働くことができなくなると、朝鮮を発って延吉県朝陽村太平 溝にある兄の家に来た。 その後間もなく、李オクグムはリム・ジリョンに嫁いだ。 1942年、李オクグムは延吉市興安郷ソ デリョ村に引っ越して来た。 1945年 9月、李オクグムは農会部主任になった。 夫を入隊させた李オクグムは幼い義弟、 小姑四人の面倒を見ながら家事と農業、社会事業にと忙しく働いた。李オクグムの模範的行動に影響を受けて来た村の 青年中年のうち、 80%が参軍した。

壮健な男たちがすべて参軍してしまうと、老人と子供たちしか残らず、翌年の農業をする者が少なかった。 その時、李オ クグムは腰を三度も痛めながら、結局は田畑の耕作を果たし、自分の家は田 3畝余りを耕した他、10戸余りの軍人家族 の女性たちを組織して、助け合い組を組織し、畑を耕した。

延辺では “互助合作”問題を比較的早く提起した。1946年 2月中旬、延辺田園公署で副専員だったドン・ゴンイルは、各 県の県長、建設課長会議を開き、 “延辺農業生産の総和”という報告を通じて “互助組”問題に言及した。 彼は報告で、 生産互助組を通じて小農経済の弱点を乗り越えることができるので、その組織構成がいくら複雑だとしても “自発的結合” と “等価交換”の原則をしっかり貫徹すれば、さほど難しいこともないと提起した。朝鮮族は過去、共同で農業をしようと “ 集落”を編成したことがあった。 このような昔の生産形式は “互助組”を作るための良い土台だと言えた。

李オクグムは助け合い組を作って先頭に立って互助組を組織し、その年の農業を女性の力で作行い、よく実った米を国 に捧げて戦線を支援した。 そして 1946年、李オクグムは延吉市労力模範大会に参加し、表彰を受けた。 1947年、李オ クグムは生産、戦線支援烈士家族の模範に選ばれ、吉林省労力模範会議に参加、 1948年には栄え栄えしく中国共産 党に加入した。

李オクグムが組織した互助組の影響を受け、全県の互助組も非常に早く発展することとなった。 1948年 10月、地区労 力模範大会で李オクグムは雌牛一匹を授与された。 その年の冬、李オクグムは栄え栄えしく全国第1回婦女代表大会 に参加し、毛沢東を含む党中央リーダーたちの接見を受けた。 1950年 1月にはアジア婦女代表大会に参加した。 その 時を李オクグムはこのように回想している。

“朝鮮族を代表して全国第1回婦女代表大会に参加しに北京に行きました。 当時、党中央は西栢坡から北京に向かっ ているところでした。 私は栄え栄えしく毛主席の出迎えに行くことになりました。 飛行機が止まると、中央指導者 8人 が飛行機から降り、主席も下りたのです。 どんなに感動したことか、敢えて主席の顔も眺めることができなかったです。 主席が私の前を通り過ぎた後には、後姿を見ましたが、八角帽子をかぶっておられましたよ。 そして雄大にして壮厳で した。 私が会議に出る時、村の人々が歓送しつつ毛主席の顔をはっきり見て来て下さいと言った頼みを思い出すと、本 当に悔しかったです。 その日の夕方、北京に帰って来た後、眠ることができなかったです。 ‘もう毛主席には会えないだ な’という思いでね。 二日過ぎた後、全体会議が始まりましたが、私は主席団のメンバーになったのです。 会議を始め てから間もなく、主席がいらっしゃるという情報を聞きました。主席は会議場へいらっしゃり、私の前列の右側に座られま した。 その時は、彼の後姿を見ただけでした。 後に晩さん会がありましたが、主席がまたいらっしゃいました。 私は毛主 席と同じ座席に配置されました。その時には初めて毛主席の顔を見て、感動したあげく、彼の横姿を見ながらひたすら涙 を流しました。 晩餐が終わって娯楽会が始まりました。主席は私に歌を歌えとおっしゃいました。 私が覚えたての ‘共 産党がなければ新しい中国もない’と言う歌を歌うと、主席は私を見て ‘トラジ’を歌えとおっしゃいます。続いて私は歌 も歌って朝鮮踊りも踊りました。(徐ボンハク、李グァンスの大型ドキュメンタリー “延辺アリラン”より)

1949年から各党組織では互助合作運動を党の中心事業とし、“生産隊に参加して生産を指導”することを全ての党員 たちに訴え、自発的で双方がいずれもメリットを受けるという原則を再び強調した。 この年の春、延辺地区には 2万 3799の互助組が組職されたが、 80%の労力と畜力が互助組に入って行った。 しかし乾期に先に見舞われた後の 編成だったため、53%に当る1万 2593もの互助組が崩壊してしまった。 年末まで残っていた互助組が 1万 490と、 32%を占めた。

失敗した英成村の “大型互助組”

“互助組”を組織せよという命令は、セジョン平野に陣取っている延吉県 東盛涌郷 英成村にも伝わって来た。 この村では、最初は二、三、四人集ずつ集まって小組、助け合い組など季節的な互助組を組織して農業をした。

英成村で “互助組”を正式に作ったのは 1947年夏だった。 その時、ここでは土地を分与しながら村全体を一 ヶ所に合わせ、一つの “互助組”を編成した。互助合作の経験がないため、一遍に大きくまとめたので、矛盾が 次々に出て来た。労力の浪費が多く、いつでも仕事に出るたびに人手が少なめになった。それだけでなく労力功 績評価が合理的でなく、科学的でないため、生産への積極性だけが評価され、生産力の発展に大きな障害になっ た。 それに土地改革の大衆運動の荒い潮流の中で組織して見ると、少なからぬ農民たちが “互助組”に入らなけ れば法に違反するのだと思うようにまでなった。 ある人々は群衆批判や闘争の標的にされるのが怖くて無理して参 加した。

その年の秋、中農以上の農家七軒が先に “互助組”から出て行くと、無理して参加していた農民たちと労働者、生活 の比較的豊かな家はこそこそと “互助組”から出た。 英成で初めて組織した “互助組”はこうして有耶無耶になって しまったのである。

“互助組”が建立される時、率先して参加した金シリョンは、党の訴えどおり、最後まで合作化の道に進もうと考えたが 、 “互助組”が崩れて行くのを見て驚いた。 党は貧しい農民に土地を与えた。 金シリョンは党の恩恵を忘れることが できなかった。 彼は生活の体験で党の言葉を聞けば間違いないという信念を持った。 彼は互助合作を実施せよとい う党の訴えに呼応して火の海にも飛び込むような気持ちでいたが、厳しい現実は思い通りにならなかった。波に滞っ た砂のように散散と散らばった “互助組”を思うだけで胸が痛くなった金シリョンは、その事で悩み抜いた。

1948年春、 “大型互助組”を強制的に組織して失敗した経験教訓を求め、今度は自発互恵の原則を貫徹して “小型 互助組”を組織した。英成ではお互いに性格が合い、感情の合う農民たちが四、五あるいは五、六人ずつを一つに編 成して、村全体を六つの “互助組”に組織した。 ところが村農会の幹部たちは会議が多くて農業に参加することがで きない時が多かったので、農民たちは幹部たちと一緒には組織を作りたがらなかった。 このような実情を考慮し、 自発互恵の原則に従って “幹部組”という特別な “互助組”を別に作り出した。

6つの “互助組”の中で急に金チャンリョン互助組が、組員一人が病死したため、労力が欠乏して散らばる危険性 があった。 そこで金シリョンは、自発的に “金チャンリョン互助組”に移った。 金シリョンは組長を手伝って “互助組 ”をよく指導した。金シリョンのたゆまぬ努力によって労力が常に付くというこの “互助組”は、通常の農家よりも 1週 間繰り上げて藁打ちを終えた。

成功した “金シリョンの互助組” 

1949年春、英成の六つの小型互助組は再び大型の互助組になった。 里人たちは専ら見ているだけで、家事 をしっかりとやり、誠実な人である金シリョンを組長に選んだ。大きな家事を一身に引き受けた金シリョンは、組員に 率先して農業に参加し、一番早く畑に出て一番遅れて家に戻って来た。

金シリョンは経営管理事業に力を注ぎ、存在する矛盾を捜した。人々は複雑な工数、雨季の前の乾期、労働力の個 人差、労動の程度、不合理な等価交換など 18もの矛盾を暴露した。 そこで金シリョンは複雑な問題を解決する方策 を創造的に提起した。

まず標準工を決めた。 土質が良いか悪いか、 どんな穀食を植えるか、 村から畑までの距離がどれだけ遠いかなど を考慮して組員たちの民主的な評議を経て、春から秋まで必要となる総工数を決めたが、これを標準工といった。 こ のようにしてさまざまな矛盾と不合理な現象が是正された。

次に、合作資金を設置した。 タバコ農業、羊の飼育など比較的多くの労力と資金が必要となる農業と副業は、個人 では経営しにくかった。 “互助組”には労力は残っているが資金がなかった。 こうした実情で、比較的規模の大きな 副業を経営するため、組員たちから受け入れた資金を合作資金と呼んだ。 分配時には合作資金も労力のような役目 をするようになる。

そして労力基準量を決めた。 組員たちの熟練程度、 身体状況、お互いに異なる労動によって労力基準量を決めた。

セジョン平野はもともと土地が肥沃だった。ところが解放前には地主の搾取により、土地の耕作が進まず、乾田の平 均収穫量は畝当り1000kg程度だったし、水田は 2150kg前後で推移していた。

“金シリョン互助組”は貧しい朝鮮族農民 23世帯で組職されたが、総人口 117人の中で男性労働力 20人、 女性労働 力 26人だった。 家畜では牛 16匹に牛車 12台であり、その外に馬1匹とロバ一匹は互助組の共同精米所に置いて 共同で使った。 土地は乾田 26ha、6畝 5分、水田 13ha 9畝 6分で、合せると 40ha 6畝 1分だった。 つまり一人当り 3畝 3分が割り当てられたことになる。金シリョンは春の耕作に残す労働力を組織し、荒れ地を開墾し、乾田 1畝と水田 8畝を拡大した。 しかし農土は少なく、労力と畜力が必要な矛盾を依然として解決出来なかった。

金シリョンは注意深く計算して見た。 いくら深耕細作しても労働力一人当りで乾田 2.5haかあるいは水田 1.5haを扱うこ とができるから、 乾田を平均で一人が 2haを扱うことができる。それなら 40haの地を扱うのに男の労力 20人なら充分だ 。 一匹の牛で平均 3.5haの土地を開墾することができるから 12頭なら十分だ。 だから牛 4匹も残るわけだ。 余った労力と 畜力を合理的に利用しなければならなかった。

一年間農業をすれば、一人当り穀類 465kgしか得られない。これで穀物 を 20%捧げて食糧、種子、飼料を残すとすれば、衣服を着るお金は得られない。 つまり穀類生産だけでは暮しは成り立たなかった。

そこで金シリョンはまず、土地をしっかりと改良した。農土の施肥面積を 80%に増加して 40% の畑を4回草取りをして4回耕し、その外、畑は3回草取りをして3回 耕した。そしてha当たりの収穫を 2612.5kgに増やし、前年よりも64%増産、個別農家よりha当たり 105kg増産した。 1ha 8畝の開墾地でも少なからぬ増産を実現し、 1ha 1畝の乾田を水田に開墾 して収穫を高めたりした。 その土地にタバコ農業をして収入をあげた。 金シ リョンはまた、組員たちから資金を集めて余裕労力を組織し、ニワトリ、鴨、豚 、羊などを飼育し、女達を組織して薬草を集めるようにしたが、副業で得た収入は 5万kg余りの食糧価値に相当した。 農業と副業で得た収入で意識の解決が 問題なく進められ、生活をかなり改善することができた。

金シリョンは勉強することが出来ず、文字も読み書き出来なかったが、常に木柵を揃えて勉強し、 木柵にさまざまな図がいっぱいに書かれていた。 誰しも好き嫌 いを調べることはできなかったが、金シリョンはその木柵を広げて見るだけで “互助組”の実情を手相を見るように明るく理解していた。

個別に耕作する時より収入が増加すると、 “互助組”内部で動搖した組員たち は長期計画を持つようになり、 “互助合作”といいさえすればそっぽを向いていた個別農家たちは互助組を 羨むようになった。

“金シリョン互助組”の経験は、延吉県の県境を越えて延辺全域に紹介された。 経営 管理事業が付いて行けず、解散される危険もあった少なからぬ “互助組” は “金シリョン互助組”の経験を学習して新しい取り組みをするようになった。

1949年、“金シリョン互助組”は延吉県労力模範大会で 1位の “模範互助組”に当選した。 1950年、金シリョンは吉林省特等労力模範、全国労 力模範の栄誉を受け、北京へ行って国慶一周年記念の集まりに参加するようになり、 モスクワを訪問、スターリンの接見を受けた。 彼は全国人民代表大会の第1期か ら第3期に至る期間ずっと代表に当選し、また全国政治交渉会の委員に当選した。

金シリョンは 1951年に延辺農学院と連携して夜明け農業大学を創設し、農 業労動に参加している農民たちにとって農業科学技術を習得する上で大き な貢献をした。

初の初級農業社

1951年 3月、中共延辺地委では、中共中央東北局の指示にもとづいて土地出資を特点とする 初級農業社を試験的に建立することを指示すると同時に、全国労力模範・金シリョ ン互助組に工作組を派遣して経験させるようにした。

何回かの討論のあげく、 22戸の組員のうち、 6戸は引き続き “生産量を引き受けた互助組”に 残り、富裕農民・宋ビョングァンは初めから一人でやると言いながら出て 15戸が初級農業 社に加入した。これは延辺地区で建立された初の初級農業社だった。

金シリョン初級農業社は建立した初年度に増産した。 金シリョン 初級農業社の水田1ha当たりの収穫が 3865kgなのに比 べて、生産量を引き受けた互助組の取れ高は 3800kgであり、一人でやった宋ビョングァン の収穫高は 3234.5kgだった。 一人でやっていては互助組ほどには出来ず、 互助組は農業社ほどには出来ないということを証明することになった。

1952年 1月初、東北人民政府弁公庁主任ワン・グァンウィは工作組を連 れて来て金シリョン農業生産合作社について全面的に調査 した後、報告を書いた。 当時、東北人民政府主席だった高カンはこの報告を批准、 各指導幹部たちに金シリョン農業社の経験を研究せよと訴 えると同時に、東北3省の指導者はこの報告を踏まえなければならないと指示した。 それ以後 、農業生産合弁会社という、この新しい組織が農村経済生活の中心になった。

中共延辺地委では地区全体的に 94の初級農業社を作ることを計画した。 ところが この都市の春に各地では自発的に農業社を作るブームが起き、190の初級社が新 たに建立された。汪清県では民族連合社も建立された。

農業社が急激に増加した新しい情勢に照らし、中共延辺地委では “農業生産互助合 作に対する中共中央の決議”(下書き)を真剣に貫徹した。 特にこの “決議”に明示された “積極的に指導し、穏当に前進”する方針を真剣に貫徹執行す ることを強調した。 同時に中堅力量、互助経験、大衆土台などの条件にもとづいて農業社 を整頓し強固にすることを提示した。 延辺地区には批准を経ずに自発的に出来た農業 社が 60にもなった。 県で彼らに互助組に直すように指示しても、彼らは聞かずにそ のまま農業社を立てて行った。 当時、こんな農業社を “黒い社”と言った。 こういう “黒い社”も後にはすべて自分の軌道に上り、強固になった。
Copyright(C) 朝鮮族ネット