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85.山海関越え全国解放の戦場へ(2)

156師、南昌防衛の任務完遂。族親部落武装解除 422団、長江越えて重慶解放戦闘で勇猛を振るう


▲ 中国人民解放軍第4野戦軍特種縦隊工兵団 6連の朝鮮族将兵(資料写真)

江西の地で

1949年 6月下旬、江西一帯は梅雨だった。江西省の六つの大河が寄り集まる陽湖 の水位は 3mも跳ね上がった。湖周辺の幾多の里と田畑が大水に浸かり、交通が断絶した。こんな機会を利 用して各地の土匪たちは自分勝手に乱暴をはたらいた。

江西省の警備師として残り、都市の秩序を維持して工業生産を回復させる仕事に忙しく動き回っている156 師は、まだ農村の面倒を見ることが出来なかった。そして江南の特徴である族親部落の武装はまだそのまま 残っていた。こんな武装は言葉こそ族親部落の武装であったものの、実際は地主たちの武装で地主たちの 利益を保護していた。 ところが何十年間も続いて来た族親部落間の争いは、その根が深く、貧困な農民た ちは族親部落の武装を自分たちの生命、財産を保護する担保と考えていた。

156師が警備部隊として南昌市に入ったのは 6月 2日だった。 急先務は発電所、食糧倉庫、水道局とその 他の設備や物資が特務や敗残兵たちの破壊を受けないように防衛し、工場で生産を回復するように動員組 職し、秩序を維持するなどの事業を展開することだった。 しかし農村の形勢が緊張すると、やむを得ず 警備師の大部分が農村に派遣されざるを得なかった。

156師は南昌市から約 100km離れ、周囲を取り巻く靖安、余干、清江、撫州などの地域に四つの朝鮮族 営を派遣した。 後にはまた 466団、467団とその直属部隊まで進出させて見ると、朝鮮族指揮員と戦闘 員たちが約 3000名も農村を完全に解放する苦しい事業に参加することになった。

3営は南昌市から東南に約 100km離れたジンヒョン、余干の二つの県を含む陽湖 の南と陸地が接している農村に行くことになった。 農村に下った 3営は戦闘隊の任務と宣伝隊と工作隊の 任務まで引き受けなければならなかった。 ところが最大の難題は言語問題だった。 北方漢語を大まかに 分かる朝鮮族の将兵たちは南方の訛りがひどいここではほとんど “唖”や “つんぼ”と同じだった。 食事も大きいな問題だった。 主食は白米と小麦粉だったが、副食物は魚とさつまいもだけだった。 毎日 魚を食べるのは習慣に合わず、食費も超過した。

こんな特殊情況を分析して解決対策を研究した。 まず各連を愛民工作隊、副業隊、戦闘隊に分けた。 漢語水準が多少高いとか文化水準が高い約 60%の人員を愛民工作隊に編成した。彼らの任務は貧困な農 民の農業と生活を傍助しながら彼らの地域方言を習うことだった。その過程で群衆と密接な関係が結ば れれば、今後進行する宣伝隊、工作隊の事業にも効果が大きいのは間違いなかった。 そして約 10%の 人員にて組職された副業隊では、漁撈、石材切り出しなどの副業をして食費超過の問題を解決した。 残りの人員で戦闘隊を組織し、担当区域で夜間の監視歩哨と週間移動歩哨をしながら部落の武装が外 地に抜け出すことが出来ないようにした。

戦士たちが農業を含めたすべての仕事を傍助しながらも、食事も満足に食べないで厳格に群衆規律を 守っていると、一ヶ月にもならないうちに農民たちは心のしこりを解いてくれた。 言語も徐々に慣れ 、群衆関係がさらに親密になり始めた。 ある農民たちは主動的に地主、富農たちの動態を報告したり した。

部落の貧困な農民たちが動員されると部隊では次々に農会と婦女会を組織し、基層政権を建立する準 備として、まず減租減息を実施、農村の階級を区分した。そうすると隠蔽されていた階級矛盾が表面 化され、族親部落の間の矛盾は緩和され始めた。

朝鮮族将兵たちの不断の努力と熱い愛情に感化された群衆は、隠していた族親武装を摘発し始めた。 そして族親武装は解除されるようになり、土匪たちもしっぽを巻くようになり、族親の間の障壁も次 第に崩れ始めた。江西地方は遂に我が朝鮮族将兵たちによって真の解放を迎えることになった。

“間もなく 10月 1日に新しい中国が創建される!”

この知らせは 156師の将兵たちに歓喜をもたらした。9連の英雄模範講演大会で詩を嗜む指導員・ 崔ハクソンは詩的な言語で開幕辞を述べた。

“深甚山里我が郷土北間島を発ち、はてしない遼西平原を経て天下第一江山万里長城を越え 40日間 広闊な大地を颯爽と進む。怒号する長江を渡り、余勢を駆って勝ち、我が軍隊の創建地であるここ 南昌に朝鮮族の若者達が尋ねて来る。颯爽と歩調を合わせこの地の韓式卒として泰然と現われる。 間もなく新しい中国が誕生する。 これは我ら朝鮮族勇士たちの長年の念願だった。 我ら皆が新しい 中国の誕生を歓呼しよう。 我ら皆が新しい中国を最後まで守ると誓おう!”

1949年 10月 1日、南昌市放送局は通りに拡声器を架設し、南昌市軍政委員会、政府、各界、各層で は “8.1”一揆を起こした広場(今の 8.1広場)に式場を架設し、新中国誕生記念活動をした。 156 師でも代表たちが大会に参加し、残りの大部分の戦士たちは、大会場を護衛するために南昌市の主 要通りと川の端を驚備した。

拡声器で “東方紅”の歌声が長い間響いた。続いて新しい中国国歌になった “義勇軍マーチ”が 大きく力強く響いた。音楽が終わると毛沢東主席が大きく力強い声で “中国人民は立ち上がった!” と全世界に中華人民共和国の建国を荘厳に宣告した。

拡声器から大きく力強い声が響き出る時、南昌の通りと川の端で警備に立っていた朝鮮族戦士たちも、 南昌広場で慶祝大会に参加した朝鮮族戦士たちも、皆、胸が喜びで溢れた。黄スンファンは南昌一揆 広場の上空に翻る五星紅旗を眺めながら喜び勇んで言った。

“あの五星紅旗には我ら朝鮮族戦士たちの血も滲んでいる! 我ら156師朝鮮族勇士たちの血もまじっ ているぞ!”

重慶解放戦闘

絶対多数が朝鮮族で構成された中国人民解放軍第47軍 141師 422団(元・延辺の吉東1団の後身)は 1949年 7月 20日に長江渡河作戦に参加し、長江天険を越えた後、湖南省一帯で国民党の敗残兵たち を掃討し、四川の方へ進撃して行った。

しかし 8月になると熱帯地方の気候に適応出来ず、 90%の戦士たちがマラリアと疫病で倒れた。 さらには生命を失った戦士たちさえ生じた。 しかし唐辛子とニンニクを好んで食べる関係で、朝鮮 族の戦士たちは抵抗力が強かった。

病気にかからない“幸せ者たち”はあちこちを飛び回りながら食糧を探して来て、粥を炊いて患者 たちを看病し、一日に何回かずつ歩哨に立った。 当地の人民の言葉によれば、抗日戦争の時期、 日本兵たちは宜昌を占領した後、マラリアと疫病にかかって病死したという。 しかし朝鮮族たちが 多数を占めた 422団の戦死たちは堂々と病魔と争った後、軽々と立ち上がった。彼らは 11月 7日から 12月 2日までおよそ一ヶ月間に連続作戦を展開し、ペクケジャン、アボングァン戦闘に参加して敵軍 63人を殺傷し、 3913人を捕虜にし、馬 17頭、爆弾 13個、60m砲 18門、爆撃砲 3門を獲得した。

422団はヤンスン地区に入って行った後、第2野戦軍第3兵団第139師と協同作戦して国民党の巣窟である 重慶を解放する苦しい戦闘を開始した。422団は全域で最初から国民党第15軍軍長ソン・ヒリョムの部隊 を追撃しながら険山峻嶺を越えた。

雨を冒してそのまま出発した 422団は、一日中、昼と夜を問わず刺刺しい山道を走り抜けた。上り下り する距離が 35kmにもなる白雲山の狭くて険しい道を越えるのは容易ではなかった。傾斜が 17度にもなる 山道に雨まで土砂降りになり、滑りやすく危険極まりなかった。 昼には杖をついて夜には灯りを持って 無人之境を進んで行かなければならなかった。 クタクタにくたびれ、担いだ荷が雨に濡れてますます 重くなり、草履はもう擦り切れて落ち、ある戦士たちは完全に裸足で歩いていた。ある戦士たちは歩け なくなり、伏せて這った。 そうやって 5kmほどになる下り坂を 4時間も下りた。 行軍の途中、何人か の戦士たちが断崖で転び、転落して犠牲になったりした。

険しい山を越えてから、今度は川を渡る事が大きな問題だった。酉水河を渡る時だった。 急流のために 橋が押し流され、酉水河を渡るためには橋を掛けなければならなかった。 ところがいろいろな苦労を つくして橋を掛けたが、そのたびに激しい水流に押し流されてしまった。 最後に臨時橋を架設して 小さな船も何隻か貰って来た。 部隊は臨時橋と船を利用して一度に何人かずつ川を渡らなければ ならなかったが、戦士が酉水河を渡るのに二夜二日もかかった。 こんなにいろいろな問題に直面し ながら 38本にもなる酉水河を渡った。

部隊は彭州から白馬に至り、敵と争った後、ズンツィ方面へ逃げる敵を追撃し、ズンツィで国民党 15軍第64師第191団と熾烈な戦いを繰り広げ、一部の敵を殲滅した。ところが、重慶を解放する道 を開こうとすれば、必ずズンツィを占領しなければならなかった.

11月 21日午後 4時、第3営副営長チョン・ヨンは、先に立って指揮しながら嵐のような敵弾をくぐ って突撃し、素早くズンツィを占領した。 ズンツィを奪い取らせたくなかった敵方は、ズンツィ 西山をよじ登り、 3営に集中射撃を浴びせた。 営府では西山の敵の拠点を破壊せよという喇叭信号 を鳴らした。 チョン・ヨン副営長はずっと 9連を指揮して、敵の拠点に向けて稲妻のように突撃し て行った。何人かの戦士たちが倒れるのを目撃したチョン・ヨン副営長は奇砲連に信号を送ってすべ ての 60m砲、爆撃砲、機関銃で敵の拠点を射撃せよと知らせた。 突撃喇叭の音が蒼空に響き、集中 射撃が始まった。 9連の戦士たちはチョン・ヨンの指揮の下に猛虎のように突撃して行き、敵を打ち 破った。 3時間余り展開された戦闘で我軍は敵 200人余りを殺傷し、 200人余りを捕虜にした。 しかし朝鮮義勇軍出身であるチョン・ヨン副営長は栄え栄えしく犠牲になった。

422団は無事に河を渡って進んだ。 彼らは市街地に攻めこんで敵ま一部を捕虜にし、敵情を探知、 敵方がヨルレジャンに駐屯しているということを知ると、75kmを強行軍してヨルレジャンを不意に奇襲した。

第1営第2連ではまんまと敵の番兵に成りすまし、兵営の中に入り込んで銃を一発も撃たずに、酔っ 払っていた敵の新編第1軍第2師副師長以下 1000人余りを捕虜にした。 422団はずっと行軍して 重慶に到着した後、兄弟部隊とともに重慶市街を解放する戦闘に突入した。 10日間余りの熾烈な市街戦で 422団の朝鮮族将兵たちは無類の勇敢さで戦い、11月 30日、遂に重慶を解放した。

重慶解放戦闘で 422団は国民党軍 7483人を殺傷もしくは捕虜にしたが、その中には団級以上の軍官が 19名もいた。
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