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84.山海関越え全国解放の戦場へ(1)

延辺の健児たち、護城河を血で染めて橋をかける
団風戦闘を賢明に戦い、長江渡河作戦の幕開く



▲ 南昌市を巡回している 446団の朝鮮族戦士(1947年 11月)

“架橋英雄 6連”

東北解放戦争が終わった後、朝鮮族の将兵たちは第4野戦軍に再編された東北の各部隊に付いて山海関を越え、 華北へ進軍、平津戦役に参加して塘沽戦闘と天津市街戦で勇敢に戦った。

当時、天津には国民党の軍隊 13万名が堅固な防御施設を持って雄拠していた。 天津を解放することは即ち国民 党の息の根を止め、北平を孤立無援とした境遇にすることであり、華北全体を解放するカギであった。

1949年 1月 1日、 山海関の一ある回族村で住民たちと共に楽しく正月を過ごしていた第4野戦軍特従部隊工兵団 2営 6連の戦士たちは、平津戦役に参加せよという緊急命令を受けた。

工兵 6連はチチハル工兵学校を卒業した第3期卒業生たちで編成した連であり、連長ワン・チュンバルと 1牌牌長、 事務長など 3人を除いた 138人がいずれも朝鮮族の熱血青年たちで編成された部隊だった。 彼らは 1947年 7月、 延編地区の中学生たちの中から募集され、 1年間の学習と実習を経て、橋の敷設、 爆破、地雷解除、坑道修築など の技術を掌握し、既に遼瀋戦役に参加して実戦経験を積んでいた。

6連の任務は天津市東北の小西営門の前の広くて深い護城河に橋を架けて、 38軍の大砲と戦車が安全に渡れるよ うにすることだった。 6連は夜に橋を架ける鉄線をリガブンまで運び、命令を待った。

1月 4日午前 9時、我軍の数百門の大砲が天津市に構築した敵の防御施設を砲撃、防御線を散々に砕いて置いた。 11時、 我軍の歩兵の総攻撃が開始した。 命令を受けた 6連の戦士たちは、護城河に橋を架ける戦闘に突入した。 鉄線を持って率先して出た 2牌牌長・宋チョンファは、敵弾を受けて犠牲になった。 これ以外に金ヨンドら六人の戦士 も負傷を負った。 そこで戦士たちは鉄線を隠れ蓑にして、氷上で鉄線を押しながら前に進んだ。 ところが敵の砲撃で 氷が割られ、氷を利用することができなくなった。 指導員・金チャンリョンが先に立って胸までの深さの水中に飛び込 み、戦士たちも躊躇なく水中に飛び込んだ。 骨を凍らせるような極めて冷たい水中で、戦士たちの手足が次第に凍 って麻痺してしまった。羅ヨンピル牌長は敵弾によって指三本が根こそぎ切れてしまった。 しかし彼は手を大まかに 包帯で巻いてから、続けて戦士たちとともに鉄線を一ヶ所に集め、橋を架けた。 彼らの手により、遂に護城河に橋が 架かった。

ところが、予期せぬことが起こった。 一筋といわれていた護城河が、実は二筋だったのだ。つまり、橋をもう一つ架 けなければならなかった。 ところが橋一つを架けるために用意した機材を既にすべて使いつくした。 どうすればよい のか?指導員・金チャンリョンは、果断に副連長・尹ソンギに 38軍工兵営と連携して橋を架ける機資材を持って来さ せるようにする一方、護城河を渡って敵の手から機資材を奪って来ることを 3牌牌長・羅ヨンピルに言い付けた。

しかし敵のトーチカから浴びせる激しい機関銃射撃に突撃した戦士たちは、障害物に隠れて一歩も動くことができ なかった。 戦士・金ウンソンが犠牲になった。そこで指導員・金チャンリョンは、掩護射撃で敵の銃撃を圧倒し、 戦士たちの前進路を開いてくれた。 副牌長・黄チュンギョンが率いる突撃組が稲妻のように敵のトーチカに近付い て敵の陣中に手榴弾の束を投げこんだ。 “グァン!”という爆音とともにトーチカが散々にと砕けた。 この機会に 突撃して行った戦士たちは鉄筋と木材を手に入れて帰って来た。 かくして二番目の護城河にも 7mの長さの 橋が架けられた。

金チャンリョン指導員が信号弾3発を撃って、橋の架設が成功したと軍部に知 らせた。 すると重武器を積んだ我軍の車と戦車が勢いよく橋を 渡って天津市内に進入した。 6連の戦士たちは命を捧げて架けた橋の上を過ぎ去る機 械化部隊を見ながら “万歳!”、“万歳!”と感激しながら何度も叫んだ。

15日午後 4時、天津市は解放軍によってついに解放された。 しかし 6連の 戦闘は終わらなかった。 他の工兵部隊とともに国民党軍が四方に埋設しておいた地雷 を解除する戦闘に突入したのだ。 6連は班単位で地雷をとり除く 競争を始めた。 第1班では時間当り 170個の地雷をとり除き、最高記録を打ち立てた。 6連は兄弟部隊の戦士たちとともに一ヶ月間の苦しんだあげく、天津市内に埋 設しておいた 40万個余りにもなる地雷をほとんど解除してしまった。 地雷解除の戦闘で 6 連は朝鮮族戦士・金サリョンら 3人が犠牲になった。

2月、 司令部では表彰大会を開いて 6連に “橋架設英雄連”と いう祝旗を、2牌 5班には “規律をよく守る班”という祝旗を授与した。 それ以外に全ての連が功績を挙げ、指導員・金チャンリョンを含め て宋チョンファ、羅ヨンピル、金ヨンドなど 18人に大功を、23人に小功を認定した。

長江渡河作戦で

1949年 4月、第4野戦軍の朝鮮族将兵たちはまた、部隊に付いて中南の 6つの省を 解放する任務を引き受けて南進した。 朝鮮族の将兵たちは苦しみの行軍で愛 民模範、規律遵守の模範になり、幾多の連と営が模範連・営になった。

中国人民解放軍第4野戦軍 15兵団は 70日間の行軍を経て 5月 7日、 長 江以北に到着した。 長江天険を越え、全国を解放する戦闘で多 くの朝鮮族将兵の序幕である団風鎮戦闘で、延辺の元・吉東部隊に属していた 第156師 466団は、主力部隊の順調な渡河作戦のために不朽の手柄を立てた。

団風鎮は武漢から約 50km離れたところにあり、第4野戦軍が長江を強 行して渡る地点の一つだった。 団風鎮には国民党軍・白スンヒの 126軍 304師912団 第3営と黄アン保安団の一部が駐屯している。

南下先鋒 15兵団は、白スンヒ部隊に長江防御線を強化する隙を与えないようにする ために野戦軍主力が長江以北に集結するのを待つことなく、直ちに団風−武穴間 の約 100kmの戦線で強行渡河作戦を始めた。

これに先立ち4月 28日、白スンヒは長江防御線を強化する対策を討議する ために緊急会議を開き、長江北岸に配置した 26軍を長江南岸に撤去させ、江北に 8 個営のみ残しておく緊急措置を取った。 長江以北に残っている敵方は我軍の渡河作戦 と動静を偵察する一方、北岸の船を奪って南岸に引き込むことで我軍の渡 河作戦を破綻させようと試みた。

43軍司令部では 15兵団司令部の統一的な渡河作戦方案によって団風鎮 での強行渡河任務を 156師に任せた。 156師は団風鎮の敵方が逃げることができ ないように不意の攻撃を入れ、敵方の統制下にある船を全て奪った後、その船 に乗って長江を渡河して突破口を開かなければならず、第2諸隊 の団で突破力を拡大し、敵方の反撃を退けることで武漢を包囲攻撃する後 続部隊の渡河を保障しなければならなかった。

主攻任務が 466団 3営に出た。 敵の防衛線は一直線になった長江を背にして北に向 けて半輪形に布陣されていた。 我軍は東の拠点を 1号目標、北の拠点を 2号目標、 西の拠点を 3号目標、船舶が集中している波止場を 4号目標とした。 3営は団の警衛連まで配属されて 5個連の兵力で 1、2、4号目標を攻撃し、 1営は 3営と共同して 3号目標を攻撃する事にした。 2営は団の予備隊として配置された。

5月 13日夕方 19時定刻、 いつもならねぐらを捜す戦士たちが、人知れず 予定された地点に素早く集合した。 156師各団は、指定された路線にそれぞれ進 んだ。 466団は新州−団風間道路を一気に 15〜20km走り、攻撃出発点 である橋に到着、時は定刻 22時 30分だった。 橋の前の丘に設置された 466団 指揮部でドン・スンビン団長が戦闘命令を下した。

“団風戦闘は元の計画に変動がない。 極めて隠密に行動して 24時間前に敵陣の近くに近 付く。 2、3路線部隊は 1路線から出る銃声を攻撃開始の信号とする。 1、4号目標 を攻撃する第1路線連隊は、敵に発見される前までは隠れて敵陣に突 進する。 その行動開始時間は 24時定刻。 今は 22時 55分だ。 各営はすぐに戦闘行動を 開始せよ!”

自分たちが出る路線に入った 1、3営は直ちに進み始めた。 旧暦 16日なので 月明りに団風鎮の輪郭がぼんやり見え始めた。

3営は二つの路線に分けられ、1号と 2号目標に近付き始めた。 二つの重機牌を 配属された 9連は 1、4号目標を攻撃する突撃連で、 10連 はその予備隊だった。 一つの重機牌を配属された警衛連は 2号目標 を攻撃する突撃連で、 8連はその予備隊だった。

23時 20分に第1路線先鋒牌員 1牌を率いて進んだ 9連副連長・金ボムド は電話で営指揮部の許しを得た後、長江北側の前進路線を捨てて南側の川辺へ進むことに決めた。 ぴったり付いて川辺に進む方が有利だったのだ。

敵陣全面に近付いて軽重機の援護射撃を配置しながら突撃時間を待っていた第3路線の 方向で銃声がし始めた。 1営が 1号目標の敵に発見されたのだ。

3営営長・元ソンは、すぐに 9連と警衛連にに突撃開始命令を下した。 数十丁の軽、重機関銃が 1号と 2号目標に猛射撃を浴びせた。 援護射撃に敵方の攻撃が 圧倒された瞬間を利用して、 9連 1牌の牌長は 1班を指揮して敵陣の障害物 を爆破し、敵陣営に飛びかかった。 1班班長リム・スヒョンが一番前で敵の陣中に 手榴弾を投げた。 この時、左側に近付いた 3班戦士・呉チャングンも 1号の陣地に 手榴弾を投げた。 かくして 1号の拠点から逃げる一部の敵方は 3班で追撃し、 1班は 1号の陣地を占領した。 これと合わせて 2班は副連長・金ボムドの指揮の下に猛虎 の如く走り、波止場を占領した。

戦闘が始まって 2分で 1号拠点を突破し、 8分で波止場を占領したという金ボム ド副連長の電話報告を受けた 3営営長・元ソンは、予備隊である 10連を 戦闘に投入させて共に攻撃することで、 2号、3号拠点を側面から脅かすように言い 付けた。

警衛連は中核が 1mを越える沼を渡って、敵の陣営から 10m余り離れた地点まで 接近、 2、3牌と重機牌の攻撃で敵の攻撃を圧制するようにした後、先鋒牌員 1牌に敵の陣営へ進撃させ、 15分で 2号路線を突破、 2 連とともに中核に突入して逃げる敵方を追撃した。

1号目標を攻撃する先鋒牌員 1牌を援護するために、 2、3牌と重機牌を指揮 した 9連連長・車チュンモは、腹部に重傷を負ってからもずっと指揮を続けた。 連絡兵・崔チャングンが駆け付けて背負おうとした時、彼は自分 に構わず早く波止場へ突撃しろと言い残して死んだ。 連長が犠牲になると、 指導員・金ソンヒが 2、3牌と重機牌を指揮して、執拗な攻撃で 1牌を援護した。 1号拠点を突破して、 10連が戦闘に投入された後、 9連はすぐ 波止場に集結して船舶を保護する任務を遂行した。

1時間余りの戦闘で、団風作戦の基本任務を果した。 ただ 1営が攻撃した 3号拠点の 陣営に寄り集まった敵方がずっと抵抗しているだけだった。 この報告を受け たドン・スンビン団長は、山砲 1門を持って 3営へ来て戦闘を直接指揮した。 10丁余りの軽、重機関銃の敵の陣営を封鎖し、山砲が直射すると、敵方は白旗を振り回 しながら投降を知らせて来た。

戦闘が 5月 14日 4時 30分に結束したから、戦闘は約 5時間行なわれたことになる。 今 度の作戦で我軍は敵 487人を殲滅し、軽、重機関銃 18丁、銃 430丁、 船舶 69隻を獲得した。 一方、 9連連長・車チュンモ、警衛連指導員・朴 ヤンホなど 9人の朝鮮族将兵を含む 43人の我軍が壮烈に犠牲となった。

団風戦闘で獲得した船に乗って我軍は 5月 14日から長江渡河作戦を始めた。 466団 2営を主攻隊として、 3営を第2諸隊とし渡河に成功した後、再び長江南岸 で敵の船 300隻を奪い、第4野戦軍後続部隊の迅速で順調な渡河を保障 した。

長江を渡って 466団は兄弟部隊たちとともに川を遡りながら宜昌、宜都、三斗坪で 敵 6000人余りを殲滅した。
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