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83.東北山野にこだます勝利の歌(2)

勇敢な朝鮮族将兵、戦闘ごとに大手柄、幾多の戦闘英雄・模範集団、続々と輩出


▲ 遼瀋戦役で名前をはせた人民解放軍第 156師 446団第2営と <金サンボム連>の一部の 朝鮮族将兵

“英勇頑強なる 7連”

中国人民解放軍第43軍 156師 466団 3営 7連は、解放戦争で多様な戦闘 に 30回余り参加して、多くの手柄を立て、 “英勇頑強なる 7連”という称号 を授与された。 7連の前身は敦化県のリム・ミンホ、車ソンジンら朝鮮族青 年たちが包丁で日帝敗残兵たちの手から武器を奪って組織した遊撃隊だった。 この遊撃 隊は後に敦化県保安団 3連に編成されてから朝鮮義勇軍第5支隊 と合流、1945年 5月、吉東警備2旅 5団 4連になった。 その年 7月、再び 2旅 6団 3営 7連に編成された。 1946年 11月、7連所属の部隊は 新開嶺を守る一方、堅固な防御施設を修築するようになった。

1947年 10月 25日、 7連は吉林市郊外 402高地を奪取せよという戦闘任務 を受けて出発した。 402高地には敵の一連がいくつのトーチカに分かれて 我軍が吉林へ進撃する要道を阻んでいた。 他の連で何回かの進攻を試みたが 死傷者ばかり出し、高地を占領することができなかった。 戦闘命令が下ると 1牌 と 3牌の援護を受けながら 2牌のチョウ・ソンハク班が瞬く間に敵陣の前 50m まで突撃して行った。

“蒋介石軍の兄弟たちよ、武器を捨てろ!解放軍は捕虜を寛大に処遇する! 早く投降せよ!”

チョウ・ソンハク班長の叫び声だった。 ようやく敵方は我軍の突撃小組を見つけて 抵抗射撃して来た。 これに激怒したチョウ・ソンハクは戦士たちに “突撃!”と叫びなが ら先頭に立って突進して行った。 敵陣に突入した戦士たちは真っ青な剣銃で 敵方をでたらめに突き倒した。 戦闘小組 6人の戦士は一人当り 6人の敵を 倒した。 これに敵方は仰天し、逃げ出す者たちで大騒ぎとなった。 この時、 7連が高地に突撃した。 1時間の熾烈な 戦闘のあげく、 7連は 402高地に赤い旗をさした。 今度の戦闘の後、 7連のチョウ・ソンハク 班は大功 1次を記録され、 “チョウ・ソンハク戦闘英雄小組”の称号を授与された。

1947年 10月末、7連は吉林郊外の龍潭山主峰のひとつのチョルガ山の戦闘 に参加した。 チョルガ山には一つの連の 150人余りが、敵が絶壁にコ ンクリートのトーチカと砲台を積み、吉林へ通じる要道を守っていた。 彼らは我 軍の接近を阻むために主峰の下から 50m間の木を全て切り取ってしまった後、水を 打って氷鋼板を作り、 1個団の兵力であってもいくらでも防ぐことが できると豪語していた。

7連の主攻任務が出されたが、 7連は 3牌に進路を突破することを言い付けた。 戦士たちは草履の底に鉄索を縛り付けた後、刀で氷を削り、氷層階段作りながら山へ一歩 一歩登って行った。 3牌の戦士たちが敵陣から 50m離れたところにまで行った 時、隠れる木がなく、敵方に発見された。 敵方は手榴弾をでたらめに投げつけた。 赤い血が飛び散り、氷板を赤く染めた。

3牌 8班の金ユンシクが戦士 3人を従えて突撃すると牌長に請願した。 そこで牌長・崔ウンナムは敵の高地に猛烈な射撃を浴びせ、金ユンシク を援護するように言いつけた。金ユンシクは 3人の戦士を従えてたちまち 敵弾を冒して敵の陣下にまで近付いた。 その時 2人の組員は犠牲になり、 金ユンシクも肩に負傷を負って血まみれになった。しかし金ユンシクは激しい痛みに 堪えながら、敵のトーチカの後門に近付き、生き残った敵の射手を攻撃した。 図体の大きな敵の射手は、18歳にしかにならない負傷し た金ユンシクを押し倒した。この時、金ユンシクは相手の耳を引っぱった。 相手が “アッ!”と悲鳴を上げる瞬間、金ユンシクは身を起こして相手の 頭を軽機関銃で、さらに他のトーチカの敵方に連発射撃を浴びせた。 後に従って来た崔ウンナム牌長は連続して 5つの敵の拠点を破壊し、15人を捕虜にした。 遂に進撃路が開かれた。 この時、 7連が突撃して上って来た。 3 営と 2営も突撃して上って来て、敵方を一網打尽にしてチョルガ山を占領した。 戦闘の後、金ユンシクは大功3次を記録され、 “大胆な単身英雄”の称号を受け、 護身用モーゼル銃一丁の奨励を受けた。 その後、金ユンシクはジョンオガジャ戦闘 で部隊の退却を援護してから壮烈に犠牲になった。全国解放の後、彼を烈士人民英雄として追慕した。

1948年 1月、 7連は独立6師 17団 3営 7連に改編された。 3 月 9日、吉林の敵が長春へ逃げ始めた。 明くる日 7連は朝飯も食べることが できずに 25kmも強行軍をして吉林市の西方の大通路北側 に200 m続く草家に隠れて、敵方を待ち伏せ、襲撃しようと待っていた。

午前 11時、敵方の先発隊が過ぎ去った。 突撃信号の銃声に続いて喇叭の音が鳴った。 7連は一目散に敵方に突撃した。 3牌 8班班長・韓チョルヒョクは、 戦士たちを従えて猛虎の如く飛び出して銃2発を撃って、敵二人を倒した。 仰天した敵方は四つに散らばった。 韓チョルヒョクは手榴弾二つを連続してバラ撤いてから 機関銃を空に向けて撃ちながら叫んだ。

“手を上げろ!”

韓チョルヒョクの怒鳴り声に仰天した敵方が目の上に鉄砲を掲げ、頭を 額付きながら “助けて下さい”と言いながら哀願した。敵の指揮官の妻たちも腕時計、 金の指輪、イヤリング、ネックレスを震える手で手渡しながら 命だけは助けてくれと言って哀願した。 韓チョルヒョクは単身で捕虜にした 100人余 りの敵と家族を後に従った戦士に任せてから、続けて前に突進して行った。

韓チョルヒョクはまた 60ミリ砲を担いだ敵を撃ち倒して砲を奪った。 続いて 草家を一戸一戸捜索して敵の少将以下 200人余りを捕虜にし、機関短銃一本、軽 機関銃 1丁、銃 150丁を略奪した。そして彼は大功 1次を立てた。

この戦闘で 7連は敵 700人余りを捕虜にし、砲 4門と幾多の鉄砲を略奪した。

長春市二道河子戦闘で 7連は朴ジヒョン連長の指揮下に暗い夜道を通って 側面から敵方の後へ回った。 3牌 8班班長・韓チョルヒョクは 一つの 投弾組を従えて敵の拠点 3つを潰し、敵の連長以下 7人を捕らえ、軽機関 銃 3丁、銃 60丁を略奪して特功(大公 3次)を打ち立てた。

この戦闘で 7連は敵のトーチカ 7つを破壊し、80人余りの敵を捕虜として重 機関銃 7丁、軽機関銃 3丁、軍馬 30頭を略奪した。そして 7連は集団大功 1次を記録された。

錦州戦闘と黒山狙撃戦

1948年 9月 12日から 11月 2日まで、東北の運命を決める偉大なる遼瀋戦役が展開された。 遼瀋戦役は遼寧省西部及び瀋陽、長春地域で 進行した巨大な戦役であり、解放戦争において決定的な意義を持つ 3大戦役のうちの一つだ。 この戦役 で人民解放軍は国民党軍 47万名を殲滅して勝利をおさめた。 この戦役で朝鮮族により編 成された多くの部隊が錦州を攻略し、黒山、大虎山で勇敢に戦い、東北解放の勝利をもたらした。

遼瀋戦役の初の戦闘は錦州戦闘だった。 1948年 10月 14日、 絶対多数が朝鮮 族である東北野戦軍第3縦隊第7師山砲営は猛烈な砲射撃で敵方の防御を破壊し、 歩兵たちと協同作戦して敵方が “錦城の鉄壁”と誇った前線を占領、主力部 隊の進攻に道を開いた。 特に山砲営副牌長である李ヨンチョルは、戦士たち とともに橋頭堡を敵のトーチカ付近まで押し出し、砲弾一発で敵のトーチカを破壊した。 熾烈な戦闘で彼が従えた砲兵組は死傷者が多かったが、ずっと戦闘を続けながら敵の 拠点を破壊いた。

第119師 359団 5連は、朝鮮族連だった。 この連の 2牌牌長で ある金リョクジュンは義県と錦州を攻撃する戦闘で迅速果敢に 部隊を指揮し、敵の二つの連を殲滅、 100人余りを捕虜にした。 1 連の朝鮮族看護婦であるチョン・ファジュは錦州戦闘で敵の砲火の中をくぐって走り回り、 多くの負傷兵を助け出し、 “掛け声英雄”の称号を授与された。

錦州戦闘の最中、国民党軍遼陽上兵団 10万の大軍が錦州 を支援しに駆けつけた。 しかし敵方は黒山、大虎山で解放軍の迎撃を受け、足止めをくった。 狙撃陣地には人民解放軍第10縦隊が待機していた。 我軍 は銃、手榴弾、機関銃、山砲で飛行機、戦車、大砲などアメリカの最新武器で武 装された国民党の 5つの軍と 12個師の兵力と対立した。 我が軍との軍事力差は著し かったが、我軍はものともせずに敵と戦った。

10縦隊 28師 83団 3営は大部分朝鮮族で構成されていた。特に 3営 8連は延辺と黒龍江省の朝鮮族戦士で編成されていた。彼ら は黒山県北側を固守する任務を引き受けた。

10月 23日朝、遼陽上兵団は狂ったように我軍に立ち向かって来た。 25日朝、敵方は 3営が待機している場所に向けて突撃して来た。 8連は 国民党軍第71軍の 18個連の大部隊と真っ向から争うようになったが、勇士 たちは 6回も敵方の総攻撃を撃破してしまった。 1牌 3班戦士である 崔ソンゴルは敵の砲弾に脚の骨が折れ、行動が不便になるや、刀で折れた足を切断してしまった後、 上半身に力を入れて 敵方の銃撃を受けつつも陣地を固守し、勇敢に犠牲になつた。

一方、黒山 101高地でも熾烈な高地争奪戦が起った。 10縦隊第30師 89団 は延辺の吉東1団が再編された部隊だが、大部分が朝鮮族たちだった。高地 を守った 28師部隊が熾烈な戦闘で大きな損失を被りながら敵方に高地を占 領されてしまった。 1営 2連連長・金インソクは全ての営とともに 28 師部隊を増員して高地を奪い返す任務を引き受けた。 25日夜、 我軍は一挙に 高地を占領した。 続いて 2連と 28師の一個連だけが残り、高地を死守、それ 以外の部隊は全て撤収することになった。 日が明ければ必ず敵方の猛烈な攻撃が 予想された。

10日余りの間、寝ることも食べることも出来ず、クタクタになった戦士たち は、戦闘さえ止めば鉄砲を抱いてイビキをかくのが常だったが、今度だけは 金インソク連長の命令に従って塹壕を掘らなければならなかった。 砲撃 の中で低くなった塹壕を戦死たちはシャベルで、 刀で掘った。 何時間 かの悪戦苦闘を経てやっと身を覆うほどに掘り下げられた。

日が明けると果して敵方の猛烈な砲射撃が始まった。 砲撃で生じた震動と暴風は 戦士たちを舞い上がらせるかと思うほどで、石と土が空へ吹き飛んだ。火薬の臭いと煙 に息が詰まりそうだった。 約 30分間続いた猛烈な砲撃が止むと、国民党軍は重機、軽機 などの砲撃の援護下、我軍陣地に向けて進攻して来た。正面に配置さ れた 2連の機関銃 2丁が敵に向かって火を噴いた。 敵方は次々と倒れた。 しか し砲撃力と兵力が絶対的に優勢である敵方に 101高地一面を占領されてしまった。 形勢 は非常に危急だった。 この時、急に 28師が総出動し、怒涛のように反撃して来た。 ところが 101高地に入った国民党軍は何らの反応もなしにすぐに退却し始めた。 分かってみれば錦州戦闘に参加した我軍の主力部隊が黒山−大虎山一線に 至り、遼陽上部隊を囲んで全面的な進攻を始めたのだった。

2連は 40人余りの死亡者を埋葬した後、 101高地を去って既に出撃した本部隊 に突撃して行った。

11月 2日、 遼瀋戦役が勝利のうちに終わり、東北全土が解放された。 延辺の若者たちは休む間もなく万里長城を越えて平津戦役に飛び出し、 所属部隊に付いて南進を始めた。

3年間進行した東北解放戦争で 3550人余りの朝鮮族勇士が犠牲になった。 東北の朝鮮族人民は自分の血と命で結局、東北の新しい日々をもたらしたのだ。
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