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82.東北山野にこだます勝利の歌(1)

人民解放軍、戦略的防御から戦略的進攻へ。朝鮮族将兵、東北解放の戦場で鮮血迸る


▲ 長春解放を慶祝する延辺の志願兵 (資料写真)

“3期攻勢”での朝鮮族将兵

1946年、東北民主連軍の統一的な編制に入った朝鮮族武装隊は、長春第1次解放戦闘、四平防衛戦と 拉法−新站狙撃戦などの戦闘に参加した。吉東警備1旅は主力部隊と協同作戦により、拉法−新站境界線 で国民党軍の進攻を阻むことで、彼らの気炎を挫き、北満と東満の連携を遮断しようとする国民党の陰謀を阻み、 延吉−拉法、拉法−ハルピン間の鉄道運輸線を保障、我軍の後方である東満と北満根拠地を防衛した。

1946年 12月から 1947年 4月までの “三下江南”、“四保臨江”戦役で主力部隊として参加した朝鮮族の健児た ちは、厳寒を冒して松花江を3回も渡り、 1月にはチタム戦闘、2月には城子街戦闘、3月には徳恵と農安間の戦 闘に参加した。

東満独立師と吉東警備2旅など朝鮮族部隊は、一方では吉海線、ラギ線以南に出撃して、双河鎮、双陽などの 地区の敵の拠点を攻撃することで、吉林と長春の敵軍が南満根拠地を侵攻できないように制御、また吉林東方 へ侵攻して来る敵軍を老爺嶺で牽制した。 一方、華樹林子、付家屯、リョデバンジャなど 10個余りの敵の拠点を 攻撃して 130余りの村を解放、その後、東満根拠地と南満根拠地を連結させる上で有利な条件を確保した。

1947年 5月、解放戦争は戦略的防御から戦略的進攻へ突入した。 全国的に一番先に戦略的反共に突入した 東北民主連軍は、 1947年 5月から 1948年 3月までの間に夏期、秋期、冬期の三度にかけて東北の国民党軍に 向かって戦略的な攻勢をかけ、 30万余の敵を殲滅し、敵方を長春、瀋陽、錦州などいくつかの拠点に追いこんで 孤立させた。 この三度の攻勢で朝鮮族の将兵たちは勇敢に戦い、大きな手柄を立てた。

1947年 5月から 7月 1日まで、我軍は 50日間の夏期攻勢を転回し、敵 8万名余を殲滅、 42都市を解放した。 こ の攻勢で東満の朝鮮族将兵たちは吉東地区の部隊とともに相次いで樺甸、煙筒山、盤石、伊通、双陽、老爺嶺、 天江、江密峰、大屯等で数十回もの戦闘を繰り広げ、吉海鉄道以南と吉東鉄道以東の大部分の地域を解放し、南 満と東満根拠地を一つに繋いだ。双河鎮戦闘にて、独立師第4団は敵 300人余りを殲滅し、岔路河で敵 120人余 りを殲滅した。 特に老爺嶺で独立社は蒋介石の第一の強軍と呼ばれる新1軍と 10日余りの間、熾烈な戦闘を 繰り広げ、敵方に致命的な打撃を与えた。 夏期攻勢では東満独立師第4団 6連軍は、戦闘模範連と呉リョンジン ら 100人余りの戦闘英雄と模範兵が現われた。

1947年 9月 14日から 11月 5日まで我軍は 50日間の秋期攻勢を発動、敵 6万 5000人余りを殲滅して 17の都 市を解放した。 秋期攻勢で東北野戦軍は戦争形勢の発展に適応するために多くの兵力を地方部隊から補充し てもらった。延辺、牡丹江、松江、通化地区の地方部隊で戦った朝鮮族将兵 2万名余がこの時、野戦軍各縦隊に 編入された。東満独立師は東北軍区独立1師、 3師と合わせ 10縦隊に、李ホングァン支隊は東北軍区独立4 師(後に 166師)に、元吉東軍区独立 3、6団と吉南軍分区 71団は東北軍区独立6師(後に 156師)、 松江軍区 8団と吉南軍分区 72、74団は東北軍区独立11師(後に 164師)にそれぞれ編成された。

主力部隊になった多くの朝鮮族部隊は、秋期攻勢で吉林と長春周辺の敵の主力を誘引 して殲滅した。 10縦隊 29師と独立6師は我軍部隊と合同作戦を展開し、吉林周辺 の江密峰、龍潭山、歓喜山、団山子などの地点を攻撃して 敵を吉林市内に追い込み、 30師は長春周辺の徳恵鎮に迅速に出撃して我 軍部隊とともに徳恵を解放し、また長春以南に進出して 28師と共に鉄嶺 一帯で長春と瀋陽から掃き出される敵を銃撃した。 特に 徳恵県所在地を占領する戦闘で第30師6団 2営営長・朴ジョンスなど幾 多の朝鮮族の戦闘英雄が尊い生命を捧げた。

1947年 12月から 1948年 3月まで、既に東北人民解放軍と名前を変えた我軍は、冬期攻勢 を発動、 敵 15万 6000人余りを殲滅して 18の都市と 600万の人口を解放した。

3ヶ月間の冬期攻勢で第10縦隊の朝鮮族将兵は兄弟民族の将兵たちと共に 厳寒を冒して南下、県所在地を囲んで敵 75師、一万名余を 殲滅する戦闘に突入した。 そして瀋陽から公主屯の敵を支援しに来 る新1軍、新6軍を牽制する戦闘で 4000人余りの敵を殲滅することで、兄 弟部隊が公主屯で国民党新5軍を全滅するための条件を作ってくれた。 2 月 19日、10縦隊は開元県で新6軍 62師を追撃し、 7200人余りを殲滅、 続いて開元を解放して敵 3400人余りを殲滅した。

和龍県の青年たちで組職された第30師 99団 3営は、ファンファ山で敵 59師の侵攻を退け、 高地争奪戦を繰り広げ、結局 142高地を奪い返すことで兄弟部隊の敵 62師を 殲滅する戦闘を保障してくれた。 戦闘で教導員金ソンリョンと 8連連長・ 金スオクなど幾多の朝鮮族勇士が勇敢に戦い犠牲となった。

汪清県の朝鮮族農民で組職された独立6師 7連は、烈士人民英雄・金 サンボムの名前で命名された模範先頭連だ。 12月に長 春東駅の敵のトーチカを 8分間で破壊し、駅を占領、 “先頭模範連”の称 号を受け、翌年 1月 21日、オマトン戦闘で一挙に敵の一つの営を殲滅、集団大攻撃1次 を敢行し、 “猛打撃、猛追撃の勇敢な部隊”という祝旗を授与され た。 2月、“金サンボム連が属した独立6師は、胡家屯一線で吉林か ら長春に撤退する敵 60軍の主力と遭遇し、自分より何倍にもなる敵方と勇敢に戦った。 “金サンボム連”の機関銃射手チョン・ヒョンリョンは重傷 を負ってからも戦火を去ることなく、単身機関銃を振り回して敵の 5回の侵攻を退けな がら 50人余りを殲滅した。 人民の英雄ジュ・クァンムンは、敵方との白兵戦で壮烈に犠牲を遂げた。 今度の戦闘で、独立6師は敵 2000人余りを殲滅した。

初の赤旗を四平城楼に

我軍の “3期攻勢”に気圧された国民党軍は、いくつかの都市を拠点に最後のあがきを した。四平には 2万名余の敵が守っていたが、国民党軍は新しい防御施設を構築 した後、増員兵が来ることだけを待っていた。

1948年 3月 21日夜明け 3時、四平を収復する東北人民解放軍の総攻撃が始 まった。 解放軍の大砲は国民党軍の防御線とトーチカを破壊した。 朝鮮族 で構成された第1縦隊第2師 4団 1営の第2連は、鉄道の東から城に向けて攻撃し た。 彼らは三重にもなる鉄条網と地雷区域を通った後、 7mの深みの塀 を越えて敵のトーチカを爆破しながら進んだ。 戦闘で先に立った爆破組の戦士 9人が皆犠牲になった。 続いて第1班班長。金ドンウォンが率いる二番目の爆破組が飛 び出して敵方と白兵戦を展開しながら突撃、一番先に四平城に赤い旗を 挿して部隊の突破口を開いた。 2連は素早く突破口を通じて敵陣に肉薄して行った。 この時、汽車駅付近の足下に修築された国民党軍の秘密トーチカから猛烈 な射撃がされ、 2連の進路を塞いだ。 金ドンウォンは敵のトーチカに手榴弾を投げ付け、手 榴弾が爆発して生じた煙幕を利用して敵のトーチカに近付いた後、爆破薬莢を トーチカの中に押し入れた。 爆破音とともに敵の秘密トーチカは吹き飛んだ。 2連は敵を打ち破りながら突撃した。 戦闘で 2連は 100人余りの敵を殲滅し、 400人余りを捕虜にし、20丁余りの機関銃を含む多くの武器を奪った。 しかし 2連は金ドンウォンを含めて大半が戦死し、 30人余り しか残らなかった。 人民解放軍は遂に四平を回復、戦闘で敵軍 1万 9000人 余りを殲滅した。

戦闘の後、2連は“突撃連”の称号を授与され、金ドンウォンは特等戦 闘英雄に推薦され、“毛沢東メダル”を授与された。そして金ドンウォンが率いた 1班 は“金ドンウォン英雄班”と命名された。

第2次長春解放戦闘

第2次長春解放戦闘は我軍が戦略的後退をしてから 1948年 4月に再び始まった 包囲戦から始まった。 長春包囲戦に参加した部隊は、東北人民解放軍第1縦隊 と第12縦隊の主力部隊だった。 東満の独立6師もこの包囲前に参加したが、この 師の大部分が朝鮮族だった。

独立6師 17団 3営は長春郊外の戦闘に移動するや否や、葉タバコ工場、良家店一帯で双陽保安団 の 400人余りの敵を殲滅し、大房身飛行場を占領した。

17団包囲圏正面には、建国大学、建国廟、家山南嶺の敵守備軍がいた。 17団はそれらを相手にソガボジャから獣医大学が位置しているタンドグに至 る区間の包囲境界任務を引き受けた。 17団 2営と 3営は、全て朝鮮族の勇士たちで 編成され、彼らは何回も敵方の包囲突破の試みを破った。

我軍の包囲によって袋の鼠になった長春市内の国民党軍は食糧が枯渇し、 死境に至った。彼らは包囲をくぐって瀋陽へ逃げるつもりで何回も大砲 射撃の掩護の下に包囲を突破しようと試みた。 しかしその都度、我軍に制止されてしまった。 7月 6日夜明け 3時頃、 一つの師団以上の敵方が、霧 が立ち込めた機会を利用して大砲射撃の掩護下に我軍の包囲をくぐって逃げようとした。 独立 6師 17団 2営と 3営 7連の陣地だけでも二つの営の敵方が 襲って来た。 7連 3排 8班班長・韓チョルヒョクは、7連の主力がまだ戦 闘に入っていない状況の下で、全ての戦士を率いて敵方と近距 離戦闘を始めた。敵方が 30m近くまで襲って来た時、戦士・厳ドヨンは飛び出して行って、 敵方に手榴弾を投げ、射撃した。 厳ドヨンは敵 12人を捕虜にして、陣地に引渡してからは さらに敵陣に突入、短銃 2丁と機関銃 1丁を獲得した。 韓チョルヒョク班長は、戦士たちを従えて突撃、向い側の敵の 陣地を占領した。そして党委から “鋼鉄8班” という栄誉称号を授与され、厳ドヨンは “鋼鉄勇士”の称号を受けた。 8班だけでも 34人の敵を殲滅して 23人を捕虜としただけでなく、重機関銃、軽機関銃 4丁、銃 20丁、 手榴弾 25個、弾薬 6000発を略奪した。

8班が勇敢に戦う時、 7連も戦闘に突入した。7連は日が明けて 霧が晴れるまで 10時間余り戦い、敵一営以上の兵力により組職された侵攻を 3回 も撃退した。 敵方は包囲を突破する見込みがなくなると、市内へと引き下がって行った。 敵情を見極めた 3営・崔ボンジュン営長は突撃命令を下した。 7連は朴ジヒョン 連長の指揮下に敵方を追撃した。 8班の戦士たちは 10人中 7名も負傷 したが、ずっと敵を追撃した。

8連と 9連でも予備兵力まで全て動員して敵方を追撃した。敵方は再び包囲された。

17団 2営と 3営の朝鮮族の勇士たちは敵方の何回もの包囲突破を挫き、敵 424 人を殺傷もしくは捕虜にし、銃 34丁、軽銃 6丁、爆弾 5個、弾薬一万発余りを略奪した。 長春包囲戦から 17団だけでも53人の朝鮮族勇士が壮烈に犠牲になった。

1948年 10月 17日夜 12時、国民党軍第60軍のチュン・テクソン軍長は、長春 東防御区域から撤収して我軍に投降、東半分の防御区域を我軍独立6師と 8師に引き渡し、 10月 19日には東北行政副司令で第1兵団司令チョン・ドングク、 参謀長 リョン・グンジン、第1兵団参謀長リャン・ウメも新7軍と共に投降した。 かくして長春は遂に解放を迎えることとなった。
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