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81.自衛戦争で勝利、戦利品を防衛

立ち直った朝鮮族、郷土を防衛するために先を争って戦線に


▲ 土地を分配された朝鮮族農民、先を争って参軍した。(資料写真)

蒋介石、全面内戦発動

抗日戦争に勝利したその時期、東北には国民党の軍隊が一人もいなかった。 しかし国民党はアメリカ の支持と援助の下に東北を独占するため、 1945年 10月から大量の軍隊を派遣、1946年 6月になって 長春−瀋陽鉄道沿線の瀋陽、四平、長春、吉林など重要な都市を次々に占領した。

東北を守っていた東北民主連軍は “北に発展して南に防御する”と言う戦略方針に従い、瀋陽などの 大きな都市から主動的に撤去し、東満、西満、北満に分散して根拠地を建設し始めた。 東満根拠地は 1945年から建設され始めた。

1946年 6月、蒋介石は 160万の軍隊を動員して解放区に対する全面的侵攻を発動した。 国民党第71軍は 蛟河一帯まで攻め寄せた後、 “一週間以内に図們の河辺まで攻め込み、東北全体を収復する”と気勢を 上げた。.

このような情勢の下で、中共吉林省委、省政府、省軍区指導機関は、吉林市から撤去して 8月 17日、延吉 に移動した。 当時、敦化と延辺地区だけが安定して頼もしい解放区だった。 延辺の人口の 80%を占めた 朝鮮族人民は中国共産党を徹底的に擁護し、試練を経験した相当な数の幹部を持っていた。

延吉に移って来た省党委、省政府、省軍区は吉東分省委、延辺地委とともに事務を担当した。 こうして移 って来た省委、省政府、省軍区指導機関は1948年 3月 9日、吉林が解放されるまで延吉にいてから、 3月 10日、延吉を去って吉林に帰った。

参軍参戦の熱情

1946年 6月、国民党の軍隊は老爺嶺を越えて交通の要衝である新站と拉法に侵入して来た。延辺人民は 国民党の侵攻の前で毅然として “自衛戦争で蒋介石の侵攻を粉砕しよう!”という中国共産党の訴えに 呼応して、参軍の波を起こす一方、延辺警備旅を蛟河−拉法−新站一線に派遣し、敵を阻んで頑強に戦闘 を続けるようにした。

1946年 5月 17日から 6月 8日まで、延辺では 3659人が参軍したが、和龍県だけでも 1536人が参軍した。 延吉県興安村の女性・李オクグムは、夫・李チヨンの参軍を支持し、さらにまた三人の義弟の参軍を支持し、 家内外のことを引き受けた。

李オクグムの夫と村の少なからぬ青年たちが犠牲になると、若い女性たちは自分の夫を参軍できないように した。 それを見た李オクグムは婦女会を開いてこのように言った。

“これまで、私たち貧しい農民は他人の空の下、他人の土地で腰も伸ばす事ができないほど辛い暮しをして いました。 ところが今、私たちはこの地の主人になりました。 私たちがこの地を守らないで、誰が守るん ですか。参軍することは反動派を退け、国と家庭を守って良い日々を過ごすためではありませんか。”

“参軍すれば光栄だ!” これは当時の朝鮮族たちの間での社会的気風になった。 延吉県細鱗河口の銅仏寺 に暮している朴お婆さんは、娘を軍隊に送り込んでこのように言った。

“私は既に三人の息子を戦線に行かせました。 しかしまだ不足です。 今私の一番愛する娘を部隊に送り ます。 私にはまた 18歳の息子がいます。 もし前方で人を必要とするのなら、この息子まで戦線に行か せます。”

和龍県崇善村の宋お婆さんは、息子・宋キソブを送り出す時、息子にこんな意味深いことを言ったという。

“国民党反動派を撃退することなくして、我々貧民は楽に暮すことができない。 お前は私の息子で あると同時にまた共産党と人民の息子だ。 勇ましく闘って敵をたくさん殺しなさい!”

汪清県の結婚したばかりの夫婦は、お互いに激励しながら参軍し、琿春県三家子に住む 60歳余りの 徐グンサン夫婦は娘婿を軍隊に送り、琿春県密江郷に住むカン・ビョンシク、カン・ビョングク兄弟 はお互いに自分が参軍すると争い、後で里人たちの “裁判”によって兄のカン・ビョンシクが参軍した。

農村での参軍熱は都市の青年や学生たちの間にも素早く波及した。1947年 6月 4日、延吉市第2中学校 では 131人の男女学生たちが参軍することを嘆願し、民族幹部養成のために立てられた延辺民主学院で は 51人が一度に参軍した。 同じ年に延吉、龍井、図們等の数千名の中学卒業生たちが先を争って戦線に 出た。

吉林省軍区の 1946年から 1948年までの参軍状況統計資料によると、省全体の参軍者総数は 18万 9455人 で、そのうち延辺の参軍総数が 5万 2051人と 27.5%を占めた。 当時の延辺の人口は 88万 9455人だった が、参軍者総数は延辺の人口の 5.88%を占めた。 これ以外に約 10万名余が工人部隊、基幹隊、 武装民 兵など地方武装組職に参加した。 このようにして参軍した朝鮮族の志願兵たちは、大部分が東北民主連軍 第10縦隊の第28、29、30社と朝鮮族が主になった東北軍区所属独立第4、6、11 社に編入され、後に中国人 民解放軍第4野戦軍の主力部隊になり、東北解放戦争と全国解放の神聖な闘争で勇敢に戦った。

すべては戦線のために

“すべては戦線のために、すべては勝利のために!” これは延辺人民の荘厳な掛け声だった。 この掛け 声の鼓舞の下に延辺人民は戦線支援のための総力戦を展開しながら解放戦争に飛び込んで行った。

戦線支援の重要な内容は担架隊や運輸隊または民部として戦線に出て生命の危険を冒して戦闘部隊に付い て負傷兵を助けたり、食糧、弾薬を運んで鉄道や道路を修理し、防御工事をすることなどに直接参加して 戦争のために服務するものだった。 解放戦争の時、延辺で戦争のために勤めた延べ人員数は 30万 2300人 に達し、動員された車の数は 2万 9200台、担架隊軍隊式で編成された。担架一台に隊員六人ずつ配置され、 担架3台が一つの中隊に、三つの中隊が一つの大隊に編成された。 担架隊員たちは雨風と吹雪を冒して解放 軍戦士に付いて戦線に出入りしながら負傷兵を救援した。さらに戦線の 20m近くまで入って行って負傷兵を 救い出した。 朝鮮族担架隊員たちは大部分、漢語が分からなかったが、負傷兵を親切に看病して上兵たちに 深い印象を残した。担架隊員たちは自分のお金で卵と果物を買い、負傷兵たちをもてなし、負傷兵たちの大 小便を受け出して負傷兵たちの痛みを自分の痛みのように思い、少しでも苦痛を和らげるように努力した。 彼らは敵機の爆撃を避けるために常に担架を木で偽装し、敵機の空襲を受ける時には自分の身で負傷兵を 掩護した。延辺担架隊員たちは 1948年半年間だけでも戦線から 1600人余りの負傷兵を救った。

戦線勤務隊での運輸隊の手柄も非常に大きかった。 運輸隊は汽車、自動車、馬車、牛車を網羅した運輸機 材を動員して戦線に出た。 朝鮮族に組職された担架隊、運輸隊などの戦線勤務隊は、東北全体が解放され た後、山海関を越えて平津戦役に参加した。

後方の人民は各種の形で戦線援護活動に飛び込んだ。延辺の各県では輸血隊を組織して自分の血を負傷兵 に捧げた。 朝鮮族の人民は数えきれないほど多くの慰問品と数万通の慰問の手紙を戦線に送り、戦士たち を鼓舞激励した。延辺文公団は戦線部隊の戦士たちを慰問するために第一線に出て露天公演をして、戦線 で戦う将兵たちの闘志を掻き立ててくれた。

戦争勤務に動員されて参戦任務を執行する中、各地には多くの英雄と模範者が現われ、功勲受賞者は 2700 人余りに達した。

後方では大生産運動を展開して食糧と軍需物資を大量に生産し、戦線を支援した。 青壮年の大部分が参軍 参戦してみると、後方防衛と生産は女性たちと老人たちが多かった。農村の女性たちは “男性たちは軍隊 へ、女性たちは畑へ!”というかん高い掛け声を上げて農業生産の主力軍となり、収穫した食糧の中から 一番良いものを選んで戦線に送った。

延辺は当時、隊の後方だった。琿春、図們等に建てた製革工場、靴工場、紡織工場、染色工場、服工場 などの兵站品工場では軍需物資を絶えず生産して戦線に送った。また広範な女性達は裁縫と靴製造運動を 展開し、戦線の需要を満たした。

1946年 6月、中共東北局の指示によって琿春に兵器工場が立てられた。 1947年夏から東北野戦軍は戦略的 後退から戦略的進攻に移る準備をした。 部隊が絶えず拡大するので、武器装備の需要量も急増した。軍事 工業部の指示によって琿春兵器工場では、自体で 82ミリ迫撃砲を研究製作した。 1948年まで琿春兵器工 場では 100門余りの迫撃砲を生産した。 1948年末に琿春鉄道のそばに投げ出されていた三つの車両を解体 して鉄板を作り、原材料にして試験製作に成功した。 これ以外に琿春兵器工場では 1946年 8月から 1947 年 7月まで 1年間に 82ミリ迫撃砲砲弾 5万 5000発余り、弾丸 220万発余りを生産した。
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