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80.土地改革運動

亡国奴−“開墾民”であった朝鮮族農民、土地の主人になる。中国の歴史上初めて、少数民族の身分で政治権利を獲得


▲ 土地分配をする朝鮮族農民たち (資料写真)

二度の群衆工作会議

中国新民主主義革命の根本問題は農民問題であり、農民問題の核心は土地問題だった。 1946年 5月、 中共中央は “土地問題に関する指示”を下し、土地政策を調整して全面的な土地改革を実施することを各 解放区に要求した。 7月 7日、 中共中央東北局では “現状と任務に関する決定”を発表し、各共産党組職 に走狗清算、減租減息、食糧と土地を分ける闘争へ農民たちを組職動員することで、東北根拠地を創設して 強固にすることを指示した。

“解放前、東北の土地の大部分は ‘東洋拓殖会社’、‘東亜勧業会社’、‘満州拓殖会社’のような日帝と満州 国の経済的略奪機構、親日走狗及び大地主たちの手元に掌握されていました。 そして開拓地、国有地、軍用地 のような ‘公有地’が 30%、60%を占めました。延辺地区の土地改革運動は 1946年 7月に始まり、 1948年 4月に 終わったが、概して三つの段階を経ました。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生の指摘だ。

土地改革の初歩は 1946年 7月から 1947年 6月までだったが、主に走狗に対抗して清算する闘争から第1次土地 分与までだったという。中共吉林省委、吉東分省党委、各県党委の 800人余り(そのうち朝鮮族 が500人余り)の土 地改革工作隊は農村に深く入り込み、群衆を宣伝・動員して、先に食糧を貸し与え、放出する闘争を進め、1946年春 と夏の間に土地を測量する方式で地主が残していた豊かな食糧を貧農に分けてやった。

9月、中共吉林省委では、延吉で県委書記が参加する第1次群衆工作会議を召集した。 会議は群衆運動初期の表面 的な現象と局部的現象についての誤った見解と推測について、中小地主は優遇し、大地主とは区別することを一面的 に強調した。 そして会議の後、一部の地区で群衆が動員できずに幹部だけが行動を起こし、反動的地主に対して充分 な打撃を与えることが出来ず、中小地主にも土地を多く残し過ぎたり、するなど、右傾偏向が散見され、“生ぬるい改革” の状況が現われ始めた。そこで 11月末、 吉林省党委では第2次群衆工作会を召集した。

会議では土地改革の経験教訓を総括して、群衆を大胆に動員できないさまざまな表現と結び付け、右傾思想さながらに 幹部が犯している風潮を批判・是正した。 そして土地改革の性格と目的を明確にし、地主とその他の階級に対する政策 を規定し、地主に対する闘争を強調した。

会議の後、各県では会議の精神に従って貧農団を組織、その指導の下に地主と闘争し、土地を分ける闘争を展開、悪質 地主を逮捕して公開審判し、懲罰したり、地主の土地財産を没収して貧農に分配し始めた。 翌年 7月、第1次の土地分配 闘争を基本的に終わらせたが、吉東地区では 53万 7275人の貧農が 22万 8193haの土地を分配された。 まさにこの 時期に延吉県のソン・ヨンミョン、琿春県のハン・ファサムなど、各地の悪質地主たちが懲罰された。しかし経験不足で、 一部の地区の群衆が充分に動員出来ず、地主に良い土地を残したり、土地をたくさん残してやるような現象が現われ、 地主の威風を挫くことができなかった。

“中国土地法大綱”頒布

土地改革の二番目の段階は 1947年 7月から 10月までだった。 この時期の主な闘争は “大物を叩いて 隠した財産を暴き出す”ことだった。 この運動で数千年の間の封建統治地盤を砕き、封建階級の政治的 威風と経済的勢力を根本的に潰してしまった。 ところが地主階級は彼らの失敗を改めることなく、さまざま な手段で階級的報復に出た。

そこで 1947年 10月10日、中共中央では “中国土地法大綱”を頒布、 “土地は耕す者の手に”という土地制 度を実施することとした。 だいたいには次のように規定されていた。 “封建的米作や半封建的土地制度を撤廃し、 土地は耕す者の手にという土地制度を実施する原則の下、農村その他すべての土地とともに村全体の農村人口に よって統一的に平均分配し、土地が多いところから引き剥がし、少ないところに加え、肥えた土地から引き剥がし、 不毛で油気のない土地に加えることで、村全体の人民が同等な土地を所有するようにし、それが個人所有になるよ うにしなければならない。”

延辺の各県では省党委の土地会議の精神にもとづき、普遍的に貧農大会を開き、土地法大綱を学習、土地を平均 的に分配する問題を研究した。

三番目の段階は 1947年 11月翌年 4月までだったが、大幅な再検閲、隊の整頓、土地の平均分配を実施した。 農 村では古い帳簿を計算して農民たちの階級覚醒をさらに一歩前進させ、反動地主に対する新しい闘争を展開した。 かくして反動地主の “黒い土地”と隠しておいた鉄砲、 食糧と財産を掘り出し、没収した。 一方、党内で党を整理し、 革命隊において隊を整理する運動を行なった。

延辺各地の党組織では批判と自己批判の精神を発揚し、上から下に、古い幹部から新しい幹部、党内から党外に至 るまでの積極的で民主的な思想闘争を展開、党内と幹部隊内に存在する平和的な享楽思想、 官僚主義の風潮、 自由主義の作風、遊撃主義の風潮、無規律現象などに重点を置いて批判した。

朝鮮族農民、土地の主人に

1948年 3月から延辺各地では、党の指導下に土地平均分配委員会を持ち、人口によって土地を平均分配し 始めた。 まず貧農の要求を満足させ、土地が平均より少ない中農に対してはその不足する部分を加え、土地 が平均より多い人に対しては一般的にはそのままにした。地主、 富農が労動を通じて自己を改造出来るようにす るため、彼らにも農民たちのような数の土地を分配してやった。 土地分配の時に多くの民族の生産習慣と特点に対 しても面倒を見たが、水田の大部分は朝鮮族農民に分け、菜園と乾田の大部分は漢族農民に分けた。

当時、延辺 5県にはしめて 15万 4243戸に 71万 8886人(そのうち朝鮮族 81.9%)の人口があった。 その中で農家が 11万 6681戸、 55万 167人だったが、人々はしめて 18万 2064haの土地を分配された。 これは農村人口一人当り 平均 4.5〜7.05畝の土地を分配されたことになる。 貧農たちはまた様々な数の家屋、 家畜、農機具、食糧、衣服など も分配された。

1948年 4月、各県では次々に土地平均分配事業を果した。 政府では適時に土地文書を発給し、農民の闘争の戦利品 を保護する法令も宣布した。.

土地は朝鮮族農民の命綱だった。 延辺の大多数の朝鮮族農民は “火田民”の子孫として生計を立て、豆満江を渡っ たあの時から血と汗で畑を掘り起こし、水田を開墾したが、結局には所有権がなく、子々孫々小作農、孤農生活をして 来た。 解放の後、延辺朝鮮族は中国共産党の指導の下、地主を打倒して土地を分配され、土地の主人になった。 こ れは朝鮮族農民が夢にも忘れることができない念願であり、子々孫々血と汗で闘って来た貴重なる対価だった。土地 を分与された朝鮮族農民は、田畑に妻子を連れて行き、土地がないために受けた苦しみと、土地の主人になった幸せ を話しながら涙を流した。 彼らは子供たちに永遠に共産党に従い、家と畑を守るために革命することを言い聞かせた。

延吉市のチョン・ボクスンの家は過去七人家族だったが、地主の土地を耕しながらやっとの思いで暮していた。 1933年 、彼女の父が抗日遊撃隊に食糧と情報を運んだという罪でも、日本の軍人に一夜のうちに六人が銃殺され、十四歳の チョン・ボクソンは土地分配委員に選ばれた。 靴がなくて裸足でまだ氷が溶けない田畑を走り回って土地を耕したチョン ・ボクスンは、 1200坪の丘畑を分与された。 その喜びをどんな言葉ですべて表現出来ようか。チョン・ボクスンは畑に立 って涙を止めどもなく流しながら、激して叫んだ。 “土地、どんなに苦労して勝ち取った土地だろうか!私は絶対に豊か な土地にして、殺害された家族たちに報いるぞ!”

チョン・ボクスンは 30回余りも肥料を田に撒いた。 豊作をおさめたチョン・ボクスンは、つましく選んだ良い作物を戦線 に送った。

これはチョン・ボクスン一家の念願だっただけではない。 これについて朴昌c教授は感慨無量にて述べた。

“土地改革をした結果、農村での封建制度、 地主勢力は完全に消滅し、広範な農民が土地を分与されて真正な土地の 主人になりました。 この勝利のおかげで、延辺では解放戦争を支援する新しい熱意が生まれました。”

以前は亡国奴− 開墾民の境遇にあった朝鮮族農民の問題がついに解決した。 民族問題の解決の実質は民族の大多 数を占める農民問題であり、朝鮮族人口の絶対多数を占める農民問題が解決されることで朝鮮族は遂に少数民族の身 分で中国の歴史上初めて政治の舞台に上がることになり、土地の主人としての政治的権利を持つようになった。
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